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2007年8月17日 (金)

恐妻

昭和10年の8月、吉川英治は東北にいました。
自らが会長となって設立した日本青年文化協会の岩手県宮古町支部の結成式に出席し、それに合わせて、その周辺何ヶ所かで講演を行うためのものでした。

同行したのは倉田百三、白鳥省吾ら。
宮古には、吉川英治の妹・ちよの夫の兄が住職を勤める本照寺という寺があり、そこに宿泊しています。

この時に読んだ「寺を出て寺までかへる盆の月」という句の句碑があることは、以前触れました

日本青年文化協会の機関誌『青年太陽』の記事によると、8月11日に上野駅発の夜行列車に乗り、12日に盛岡を経由して宮古に到着、13・14日は周辺の町で講演、15日は原稿執筆に費やし、16日が宮古町支部結成式ということになっています。

以前の文章でも触れたように、8月15日に執筆していた原稿というのは、「宮本武蔵」のもの。

朝日新聞紙上での連載第1回の掲載が8月23日。
吉川英治が、この8月23日のどれくらい前から作品の執筆に取り掛かり、どのくらい書き溜めた状態で連載がスタートしたのか、詳細はわかりません。
しかし、いずれにせよ、ごく最初の部分をこの時執筆していたことは間違いありません。

ところで、2年前にも書いたネタを再び持ち出したのは、72年前の今日の出来事に触れるためです。

この日の朝、英治に宛てて「夫人病気」という内容の電報が届きます。
そのため、英治は一人予定を切り上げ(他の一行は21日まで東北に滞在した)、急遽、東京に戻ります。

ところが、これは偽りで、夫人は病気でも何でもなく、夫・英治の長期の不在に癇癪をおこし、偽電報を送らせたというのが実際だったと言われています。

ちなみに、この夫人は、この2年後に離婚することになる最初の妻・やすのことです。

やすとの夫婦関係では、当時、吉川英治は文壇きっての恐妻家とされていました。
これもその一例と言えるでしょう。

なお、現在、当館の館報『草思堂だより』では、ちょうどその時期に吉川英治の書生をしていた故田中義一氏(戦前に首相になった人物とは同姓同名の別人です)の遺稿を連載中です。
夫婦仲がギクシャクしていた頃の英治とやすの姿が、色々と書き綴られています。

今年6月に発行した号に第1回を掲載し、3年かけて12回連載する予定です。

興味のある方はご連絡下さい。

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