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2007年8月31日 (金)

春波楼筆記

昨日、「鳴門秘帖」は司馬江漢の「春波楼筆記」をヒントにしていると書きました。
そのことは、いくつかの随筆で、吉川英治本人が触れています。

その言をまとめると、ヒントになった記述とはこういうものです。

ある年、江漢が熱海へ入湯に行ったところ、宿の裏手に大名の風呂屋敷があった。その屋敷からは、朝早くから音吐朗々と経書を読む声が聞こえ、それが終ると弓弦が鳴り響き、竹刀を振る音が聞こえる。そんなことが毎日欠かさず続くので、宿の者に隣の屋敷は誰の屋敷かと聞くと、蜂須賀重喜だと言う。それを聞いて江漢は、蜂須賀重喜は幕府から蟄居を命じられるほどの暗君と聞いたが、この様子では世評と違い、随分な名君に違いないと思った。

これをきっかけに、蜂須賀重喜の蟄居には何か裏があるのではないかと見て調べた結果が「鳴門秘帖」になったというわけです。

当館で所蔵する吉川英治の旧蔵書に、有朋堂文庫「名家随筆集 下」(大正3年)というものがあり、その中に司馬江漢の「春波楼筆記」が収録されています。
もちろん、吉川英治が読んだ本です。
そこから、問題の箇所を以下に抜き出して見ます。

阿波侯の世子伊豆の熱海に湯治す。かへらん事を忘れて数日を経たり。其の頃吾も同じく此の湯に浴す。二十余日を歴て帰る。時に阿波侯の行蹟、常に朝は夜の丑の時を以て起き、読書、弓馬、兵術を、世子をして学ばしむ。故に之が為に僅の日を熱海に遯る。

荒っぽく現代語訳すればこんなところでしょうか。

阿波侯の世継ぎが伊豆の熱海に湯治に行った。帰ることを忘れて数日を過ごした。その頃、私も同じ湯に入りに行っていた。二十日ほど過ごしてから帰った。その間の阿波侯の行動だが、いつも朝は丑の時(1時~3時)のうちに起き、読書、弓馬、兵術を、世継ぎに学ばせていた。そのために僅かな日々を熱海に人目を避けて過ごしていたのだ。

ちょっと吉川英治が書いていることとは違っています。
司馬江漢は、名君かどうかなどという評価めいたことは書いていません。

ただ、斜め読みしていると、別の箇所に阿波侯について書いている部分がありました。

心の底を明かして付き合うことが出来る相手が≪信友≫であるが、自分と立場が同じ同輩でなければ、なかなかそうはいかないものだ、相手が諸侯貴客であれば、相手が間違っていてもついへつらってしまうし、と言って、はっきりと真実を述べれば遠ざけられてしまうものだ、ということを書いた後に、

かつて阿侯(=阿波侯)のみ幼君の時より、予と会して物談す。わが本心を以て悪しきは悪しきと云ひ、善きは善きと云ひければ、一々是を聞き容れ感ぜられしに、今に至りては四十近くならせられ、大才智の稀なる侯とはなりぬ。

と書いています。

しかし、ここまで文章を書き写してきて、なんだか妙な気がしてきました。

江漢は「阿波侯」あるいは「阿侯」と書いていますが、蜂須賀重喜とは書いていません。
江漢が言及しているのは蜂須賀重喜なのでしょうか。

蜂須賀重喜の生没年は元文三年(1738)~享和元年(1801)で、宝暦四年(1754)に藩主となり、明和六年(1769)に隠居させられています。
後を継いだのは重喜の長男の治昭で、文化十年(1813)まで藩主を務めています。生没年は宝暦七年(1758)~文化十一年(1814)です。
一方、司馬江漢の生没年は延享四年(1747)~文政元年(1818)で、「春波楼筆記」は文化八年(1811)にまとめられたものです。

上記の引用箇所がいつの出来事なのかの明記はありませんが、別の箇所に熱海から日金山に登ったという話が出ており、それが文化八年九月だとしています。

あれ、そうなると、この「阿波侯」というのは、蜂須賀治昭とした方が話しのつじつまが合うんじゃないでしょうか?
私が浅学ゆえの勘違いでしょうか?

エピソードを簡単に紹介するつもりで書き始めた軽い文章のつもりだったのに、調べなければいけない変な宿題が出来てしまいました。

まいったな。

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2007年8月30日 (木)

頭巾

先日、コメント欄を通じて質問が寄せられました。

吉川英治が「鳴門秘帖」の中で挙げている頭巾がどういうものか知りたい、というものでした。

「鳴門秘帖」の、最初の章である『夜魔昼魔』に、確かにいくつか頭巾の名称が出てきます。

すりの見返りお綱がしている≪のしお頭巾≫。
そのまま登場人物の名にもなっているお十夜孫兵衛の≪お十夜頭巾≫。
それに合わせて地の文で列挙されているのが、≪岡崎頭巾≫≪露頭巾≫≪がんどう頭巾≫≪秀鶴頭巾≫≪お小姓頭巾≫≪なげ頭巾≫。

≪のしお頭巾≫と≪お十夜頭巾≫は挿絵でわかるとして、≪露頭巾≫≪秀鶴頭巾≫≪お小姓頭巾≫がわからない、とのお尋ねでした。

そう言われてみると、私もさっぱりわかりません。

とりあえず、館で所蔵している吉川英治の旧蔵書の台帳を見て、それらしいことの出てきそうな書籍をピックアップして、確認してみました。
書誌は省きますが、「江戸生活辞典」「日本服飾史」「服装史」「日本衣服史」「古今服装の研究」といった書籍には、頭巾についての記述がなかったり、あってもごくあっさりしたものであったりで、必要な記述が見出せませんでした。

ある程度まとまった記述があったのは、「嬉遊笑覧」です。

言及されている様々な頭巾のうちに≪おかさき頭巾≫≪がんどう頭巾≫≪なげ頭巾≫の名が見えます。
もっとも、文章を読んでも、全く形状の想像がつきません。

≪こしやう頭巾≫というものもありますが、英治が挙げている≪小姓≫とは音が通じるものの、≪胡椒≫の字があてられており、同じものなのかどうかは判然としません。

ちなみに言えば、「嬉遊笑覧」には≪のしお頭巾≫≪お十夜頭巾≫の記述もありません。

吉川英治が所蔵していたことのある書籍全てが当館に収められているわけではありませんので、必要な記述が見つからない可能性はあるなとは思っていたのですが、本当にかすりもしませんでした。

あまり返答が遅くならないよう、とりあえず、ここまでしかわかりませんでした(というより、わかりませんでした)というメールを質問者の方にお送りしましたが、どうにも気持ち悪い話です。

上記のような総論的な書籍には記載がないのなら、江戸時代の随筆類(「鳴門秘帖」自体が、司馬江漢の随筆「春波楼筆記」をヒントにしています)に、何か記載があるのかもしれません。

別のことを調べている時に、ひょっこり見つかるかもしれない、ということに期待をかけてみますかね。

ちなみに、講談社の「江戸語大辞典」には、ここまで揚げた頭巾のうち≪がんどう頭巾≫≪胡椒頭巾≫の項目があります。

≪がんどう頭巾(強盗頭巾と書くんですね)≫については≪からむし頭巾≫と同じものとあり、≪からむし頭巾≫の項目を見ると、「両眼だけ残し頭部・面部をすっぽり包む」とあります。
しかし、≪胡椒頭巾≫は「未詳」となっています。

そして、肝心の≪のしお頭巾≫≪お十夜頭巾≫≪露頭巾≫≪秀鶴頭巾≫≪お小姓頭巾≫は項目がありません。

困りました。

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2007年8月29日 (水)

供養の風呂敷

「チェリオ帰牧記念風呂敷」の他に、もう1点風呂敷を展示しています。

供養の品お届けいたします。
この風呂敷は 主人が一時快方に向かっておりました折
快気祝にと 自分で特に気に入った図柄を選んで染めさ
せたもので 見本が出来上りました時 大変喜んでおり
ました
どうぞ 故人の好みと思召してお使い戴ければ幸いに存
じます

このような吉川文子夫人の言葉が、この風呂敷には添えられています。

昭和37年9月7日に吉川英治は世を去り、9日に自宅で密葬の後、12日に佐左木茂索を葬儀委員長として葬儀・告別式が行われました。

風呂敷は香典返しとして、会葬者に送られたものです。

快気祝のはずだったものが、そのような形で配られることになるとは。

こういうことでもないと展示する機会も余りありませんので、今回展示してみました。

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2007年8月28日 (火)

チェリオ帰牧記念風呂敷

今回の企画展は「吉川英治の意匠」と銘打っていますが、厳密に言えば「意匠」と呼ぶには無理のあるものも含まれています。

その中にあって、比較的≪意匠≫らしいものをいくつかご紹介してみましょう。

「チェリオ帰牧記念風呂敷」

昭和30年、所有していた愛馬・チェリオが競走馬を引退することになり、その記念に関係者に配ったものです。

風呂敷の中央に、『君が駒わが駒遊ぶ春野かな』という自作の句を書いた色紙と、『チェリオ帰牧記念』と書いた色紙が重なるように配置されている、というデザインで、赤地と緑地の2種類があります。

1枚ずつ桐箱に入れて贈られましたが、そこには「ごあいさつ」という文章(印刷)が同封されていました。

体裁はチェリオから贈られた各人へのあいさつ文となっていますが、もちろん、馬が文章を書くわけはなく、英治が文案を考えたものです。

わたくしはチェリオでございます
西も東もわからない二歳の秋 母のオーマツカゼに別れて都へ出て来た北海道の本桐娘でございましたが 早いもので 皆様の名馬逸駿のなかに立ち交じって レースをさせていただいてから もう三春秋になりました

で始まる、1行35字×33行のなかなか長文のあいさつです。
チェリオへの愛着のほどと、この時期の英治の競馬熱がよく感じられる文章です。

全文は、是非ご来館の上、展示をご覧下さい(笑)

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2007年8月27日 (月)

「吉川英治の意匠」展

明日8月28日から10月8日まで、「吉川英治の意匠」展を開催します。

吉川英治が依頼されて揮毫した碑や看板、デザインした風呂敷やのれん、趣味で作った茶杓や楽焼、そういったものばかりを集めた企画展です。

少々地味な感じは否めませんが、あまり展示したことがない資料が出ていますので、この機会にご覧下さい。

お待ちしています。


ということで、ただいま展示作業中です。

休日出勤だから、早く終わらせて帰ろう(苦笑)

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2007年8月25日 (土)

川柳250年

今年の8月25日、つまり今日、川柳は誕生から250年を迎えるのだそうです。

先日、「川柳二五〇年」というイベントのチラシが送られてきたのですが、それによると、柄井八右衛門が「川柳」の号を名乗り、初めての万句合を開いたのが宝暦7年(1757)8月25日だそうで、そこから数えて250年目ということのようです。

チラシが送られてきたのが、8月に入ってからなので、気がつきませんでしたが、「川柳発祥の地」記念碑の除幕式が今日行われるようですし、東京・北海道・新潟で巡回展も行われるようです。
というか、東京会場は明日までの展示ですが。

川柳関係の取材はしばしば受けますし、大野風柳さんのところから『柳都』という川柳雑誌を毎号送っていただいているにもかかわらず、全く気づいていませんでした。
お恥ずかしい。

それはそれとして、いま「川柳」は盛んだと言えるのでしょうか。

「川柳」と名の付くものは世の中に溢れてはいます。
しかし、川柳は最も庶民に近い文芸であるが故に、最も誤解されている文芸でもあるのではないかという気がします。

しばらく前にテレビで、あるアイドルタレントが、ある川柳のコンテスト(「うなぎ川柳」とかいうもののようです)で賞を取ったという話題を目にしたことがあります。
その川柳というのが

ひつまぶし箸でつついて暇つぶし

というものでした。

まじめに川柳と向き合っている人からすれば、これはただの語呂合わせの狂句にしか見えないでしょう。
いや、狂句以前のダジャレですね。

もちろん、語呂合わせだから悪い、とは必ずしも言い切れませんが、この句に関しては、「初めに語呂合わせありき」の句であることは間違いないでしょう。

これは極端な例ですが、すっかり定着した「サラリーマン川柳」に対しても、同様な理由から反発を覚える川柳家の方は少なくないと思います。

結局、一般の人にとっては、上記のアイドルタレントの作品のような語呂合わせの言葉遊びが「川柳」だと思われているのでしょう。
「俳句」は高尚な芸術で堅苦しいから近づきにくいが、「川柳」は自由な言葉遊びだから誰でも作れる、という感覚。

しかし、その極北には鶴彬のように「川柳」で死んだ人もいるわけで、あまりにも意識の幅が広すぎます。

そんな中にあって、川柳の250年を振り返ろうという今回の各種イベントは、一体どのような視点から、何を見ようとするのか、興味深いところです。

と言いつつ、東京での展示は見損ねてしまいましたが。

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2007年8月24日 (金)

おふくろの味

どうも貧乏育ちのせいか、総じてわたしなどは、茶懐石でも料亭の物でも、うまいといつまでもおぼえていて、あとあと、またの邂逅を舌が待ちかねるというほどな物にはめったにお目にかかっていず、かえって貧窮時代に母がくるしさの余りに作ったおかしな安惣菜などが、ふと、この年になっても郷愁されてくるのはどういうわけのものだろうか。

吉川英治の『舌のすさび』という随筆の一節です。
初出は「あまから」昭和35年5月号ですので、書いた時点で67歳、亡くなる2年半ほど前のものということになります。

この随筆の中には≪母がくるしさの余りに作ったおかしな安惣菜≫と思われるものが、いくつか列挙されています。
自叙伝の「忘れ残りの記」には、あまり「おふくろの味」や、子供の頃食べたものの話があまり出てきませんので、ちょっと抜き出してみます。

≪タラコブ≫=糸昆布と鱈を合わせた汁物。

鱈も安いもんだったし糸こぶなどはなお安い。だから貧乏世帯で子沢山には持ってこいのお惣菜であったのである。汁かげんもシタジの勝った、いわゆる“ショッパ”めな汁だった。

≪ごじる≫=大豆のすりつぶしたものに刻み葱を加えた味噌汁。

もっとりと重い味だが、なかなか捨てがたい。あれこれ味噌汁の添えに飽いた一ト朝など、ふとよいものである。

≪蕗の佃煮≫

蕗といえば、茎ばかりでなく、あの蕗の葉までを細かに刻んで、母は佃煮にしてたべさせた。珍重はできないが、そうまずいものではない。

料理らしいのはこんなもので、あとはいくつかの食材を取り上げています。

鮭は切り身は買わず、一山いくらのあらを買っていたけれども、その中に混じっている≪鎌≫や尻尾の端が美味いと言い、「ひそかに貧者へ与えられていた貧者の味にはそんな余徳があったのである」と書きます。

顧みられなくなって残念だということを書いている食材には、≪揚ゲ玉≫や≪おから≫を挙げています。

もっとも、昭和40年生れの私でも≪おから≫はよく食べた記憶があります。
昭和30年代にはもうノスタルジックな食材になっていたのでしょうか?

≪大根の茎≫もお気に入りのようです。

夏の細根大根が出はじめると、私は大根の葉のぬかみそ漬を好んでお新香に添えさせる。大根では茎がいちばん美味い。(略)私の子供時分にはただでもくれた。そして細かに刻んだのを飯にまぶしては掻っ込んだ。その童味が忘れられないのである。

高級な料理より、結局はこういう食べ物の方が心に残るというのは、よくわかる気がします。

いや、高級料理なんて食べたことはありませんが、私は。

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2007年8月23日 (木)

第9回みたけふるさと祭り

本日から26日まで、御岳渓谷周辺で≪第9回青梅みたけふるさと祭り≫が開催されます。
詳しいことはリンク先をご覧下さい。

吉川英治記念館では、御岳商店会が行う抽選会に賞品を提供している他、みたけふるさと祭りのパンフレット持参の方は入場料金の割引をいたします。

ぜひお運び下さい。

ちなみに、噂によると、25・26日に運行されるJRの展望型電車≪四季彩号≫ですが、遠からずこの型の車両は廃止されるとか。
乗れるのは今のうちですから、乗り鉄の方、今のうちにぜひ。

また、今回の車両は御岳山の名物であるレンゲショウマの絵に外装がリニューアルされているそうですから、撮り鉄の方もこの機会に。

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2007年8月22日 (水)

魚の骨

≪貧乏食≫話を続けます。

吉川英治は18歳の時、貧困の辛酸をなめた横浜から東京へ出ます。
その際に、会津出身の塚原という蒔絵師の下に弟子入りし、金属象嵌製品の製作に携わります。

この塚原氏は随分な吝嗇家だったようで、弟子となった英治に買出しをさせるのにも、「味噌二銭、塩鮭の切り身、一銭五厘のを二切れ」などと、小銭を数えて指図するほどだったそうです。
そんな人の食生活はどうだったかというと、

たとえば、婚礼の折詰でも提げて帰ると、その鯛一尾を、幾日間も茶だんすから出し入れして、焼き直しては一人で喰べ、あとの骨でも、味噌汁に入れろと、ぼくへ命じる、といった風であった。
(「忘れ残りの記」『人生中学通信簿』より)

「横浜ッ子の放漫な気質に馴れていたぼくには、初めは何とも奇異な人にみえた」と書いていますが、しかし、魚の骨というと、英治自身にも、こんな話が残っています。

吉川文子夫人の名で「吉川英治全集」の月報に掲載された『蕗のとうと鮎』という文章にこうあります。

戦後の食糧事情がまだ悪かった頃、遠来の客をもてなしている時の話です。
あ、いま記念館がある吉野村時代の話です。

「文子、鮎を焼いて差上げなさい」と、その点、すこしも物惜しみをしない人で、子供の分までなくなりましても、
「いいさ、子供たちには頭や骨をこんがり焙って食べさせなさい。カルシュームの補給になって、育ちざかりにはいいよ」
私が鮎を焼きはじめよい香りがただよいますと、庭で遊んでいた子供達が飛んで来て、
「あとで骨を焼いてね」と、大声で云われては苦笑いたしておりました。

私が記念館に勤め始めてしばらくした頃に、存命だった文子夫人にこの話を聞いてみたことがありますが、「子供たちにはちゃんとした鮎を食べさせていたのに、こんな話ばかり広まってしまって」と、苦笑いしておられました。
決して毎度毎度のことではなかったようです。

でも奥様(私たちは文子夫人をこう呼んでいました)、ご自分で書かれた文章ですよ(笑)

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2007年8月21日 (火)

イモ

先日触れた卵や残飯の話は、吉川家がどうこうではなく、時代がそういう時代だったということですが、貧困ゆえの食の話というのも、吉川英治は色々書いています。

ついこの間の『天声人語』にも紹介された、こんな話があります。

投獄されていた父親が出所して、家で酒を飲むようになり、それが家計を圧迫し始めた頃の話です。

そんなとき、もちろん母も朝飯は喰べていない。それでも働きに出るぼくには二銭銅貨一枚を詫びるように握らせて出してくれる。ぼくは途中で焼芋を買い、半分は途々喰べ、半分は昼飯時の為に残しておいた。ほかの仲間の手まえ、何も喰べずにうろついているのは、空腹を我慢している事よりもその時間が辛かった。
(「忘れ残りの記」『父帰る』より)

ちなみに、『天声人語』では、この頃に≪貧しさもあまりの果は笑ひ合ひ≫という句を詠んだというふうに書かれていましたが、この焼芋のエピソードは、英治の自筆年譜に従うならば13歳、明治38年のこと。一方、≪貧しさも・・・≫の句は、大正3年発行の「大正川柳」28号に「紅生姜」の題詠として掲載されています。焼芋のエピソードの含んだ、その頃の経験が句の下敷きになってはいるでしょうが、時期は異なります。

閑話休題。

焼芋ならサツマイモでしょうが、ジャガイモの思い出もあります。
何度か触れたように、吉川英治は、どうしようもなくなって芋畑でジャガイモ泥棒をして、どうにか食いつないだ時期があります。

からだじゅうは、罪の意識にそそけたち、不気味な闇が、まだ明るすぎる気がした。けれど、爪のさきが深々とはいってゆくほど、土はまるで、人肌みたいであった。(略)指にふれる丸い大小の物にも高い体温があった。どんな恋にも、あんな烈しい動悸は打つまい。夢中でぼくは風呂敷一ぱいの新ジャガを抱えて逃げた。走った道も、覚えはない。しかしたしかに、七人の露命は、梅雨の間を、それでつないだ。
(「折々の記」所収『罪と新ジャガ』より)
その晩、飢餓の一家は、塩ユデの馬鈴薯をふウふウいって喰べあった。元よりぼくの薯泥棒を父は知ろうはずがない。だが、母にもその行為を叱られたような覚えがないのをみると、母も背に腹は更えられぬ思いで子の盗みを許容していたものだろうか。とすれば、ぼくの一家はその頃じつに危うい淵にあったというほかはない。ぼくはその夏、おなじ事を二、三度やった。
(「忘れ残りの記」『わが盗児像』より)

自筆年譜からすると、このジャガイモ泥棒は焼芋の話の少し後のことのようです。
この頃が、英治の人生の中で経済的にどん底の時期だったのだと言えるでしょう。

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2007年8月19日 (日)

私の弟はイギリスで生活していますが、たまに日本に帰ってくると、よく一人で卵かけご飯を作って食べています。
イギリスでも米は買えますし、卵ももちろん売っているので、「あちらでも卵かけご飯ぐらい食べようと思えば食べられるんじゃないか?」と聞くと、イギリスでは卵を生食する習慣が無いため、販売されている卵が十分に殺菌されておらず、下手に卵かけご飯なんか食べると腹をこわす可能性があるので、ダメなのだと言われました。
イギリスでは食べられないので、日本に帰国したら食べると決めているいくつかの食べ物のひとつが、彼にとっては卵かけご飯なのです(ちなみに、その他には刺身、焼肉、ラーメンなど)。

そんな日本人の≪国民食≫と言える卵かけ御飯ですが、「忘れ残りの記」には、こんな記述があります。

たとえば、ぼくらのそんな家庭でも、頭数六、七人もの子供の朝食の膳に、よく生卵を割ったものだが、大きな丼に、きまって卵は三個しか女中が割らない。それへ醤油はたくさん目に注いで掻廻し、七つの御飯茶碗へ等分にかけ分ける。だから「そっちへ黄味ばかり入った」とか「こっちが少ない」とか、よく食膳のいざこざになった。どうかして、卵を一人でまるごと一ツ御飯へかけて食べてみたいとは、ぼくらの念願だったものである。

「女中が」とあるので分かるように、これは家が没落して貧困に喘ぐようになる以前、女中を雇う経済力があった頃の話です。
明治後半の頃の消費生活など、この程度に地味で質素なものだった、という思い出です。

続けて、こんなことも書いています。

(略)ちょっと建てこんでいる住宅地の横へ入れば、そこの勝手口や縁先などの日向に、お飯櫃や釜底の御飯つぶを流し元で掬った物が、ていねいに目ザルに並べられ、白い干し飯として干し上げて保存してゆく習慣のあることが軒毎によく見られた。それが大きな紙袋に蓄まると、賽の目に切った寒餅や黒豆など加えて、母が砂糖煎りにしてくれたのを、ぼくらはあられと呼んで、冬の菓子によろこび合ったことだった。

いま手元に無いのですが、紀田順一郎さんの本か何かで、当時の東京の貧民街では残飯売りというものがいたことが書かれていました。
確か、残飯回収の方法の一つに、排水溝を流れてくるものをザルで濾して集めるというのがあったと記憶します。

一般家庭の台所でも、個々に、それに似たようなことをしていたということでしょうか。

卵を一人で一つ食べたいと願った明治の子供の目からは、卵かけご飯専用の卵や醤油すら売られている現在の日本は、夢の国でしょうね。

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2007年8月18日 (土)

金銭感覚

館の職員の女性が、某百貨店のクラブ会員になって割引ポイントを貯めていて、あと140円の買い物をすれば2000円の割引が受けられたのに、有効期限切れでふいにしてしまったと騒いでいるので、思わず、ケチくさいこと言ってますね、と笑ったのですが、それでこんな話を思い出しました。

吉川英治の末弟・晋の遺した文章(「兄・吉川英治」、『草思堂だより』第6巻第1号所収)の中で、こんなエピソードが紹介されています。

昭和五、六年ごろの円タク氾濫時代、兄とよく銀座あたりを飲み歩いての帰り、私がタクシーを拾う役で「芝公園まで」「八〇銭」「OK」と、新しい外車かなんかをつかまえ気分よく帰宅すると、
『晋、ちょっと』
と兄のきびしい顔が私を呼んでいる。
『見ていると、お前はいつもタクシーの云い値をそのまま乗っているが、なぜ値段の交渉をしない、そんな殿様みたいな気持ちでどうする』
と、きついお叱言があった。

英治は、家の没落のため小学校を中退させられ、わずか11歳で奉公に出され、以後、30歳を過ぎて作家として成功するまで苦しい生活を余儀なくされました。
一方、晋は英治より15歳年下。
吉川家がどん底に喘いでいた時代にはまだ物心がついていませんでした。
底を脱した後も、英治が作家として成功するまでは決して裕福ではありませんでしたが、英治は晋に対しては色々気を配って、高級な文房具や上質な本を買い与えていたということが、上記の引用部分の前で書かれています。

そういう育ってきた環境の差が、現れているのでしょう。

ところで、こんなエピソードがあります。

いよいよ家計も切りつめなければ(略)、と遅まきながら母も考えてきたらしい。(略)ところが、母はまもなく近所の人から、物珍しげな笑い者にされていた。というのは、母が外へ出る姿を見ると、長年の習慣から、斜向いのカゴ虎の若い衆が、黙っていても、すぐ足許へ、人力車の梶棒をもって来て下ろすのだった。それが母には、どうしても断れないで、じつは初音町付近まで、ネギや片肉の買出しに行くのでも、ついそれに乗ってしまうのである。だから、女中を廃したくせに、八百屋や乾物屋の買物にも、人力車に乗ってゆくといって、界隈の人目が蔭で笑っていたのもむりはない。

自叙伝「忘れ残りの記」の中で、家運が絶頂から急転、どん底へ向けて転落し始めた頃の話として、書いているものです。

絶頂期に買い込んだ家財を、少しずつ道具屋や質屋に持ち込んで、どうにか体面を保つといった状況の中でのことですから、滑稽であり、物悲しくもあります。

晋を叱る英治の脳裏には、この時の情景が思い出されていたのかもしれません。

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2007年8月17日 (金)

恐妻

昭和10年の8月、吉川英治は東北にいました。
自らが会長となって設立した日本青年文化協会の岩手県宮古町支部の結成式に出席し、それに合わせて、その周辺何ヶ所かで講演を行うためのものでした。

同行したのは倉田百三、白鳥省吾ら。
宮古には、吉川英治の妹・ちよの夫の兄が住職を勤める本照寺という寺があり、そこに宿泊しています。

この時に読んだ「寺を出て寺までかへる盆の月」という句の句碑があることは、以前触れました

日本青年文化協会の機関誌『青年太陽』の記事によると、8月11日に上野駅発の夜行列車に乗り、12日に盛岡を経由して宮古に到着、13・14日は周辺の町で講演、15日は原稿執筆に費やし、16日が宮古町支部結成式ということになっています。

以前の文章でも触れたように、8月15日に執筆していた原稿というのは、「宮本武蔵」のもの。

朝日新聞紙上での連載第1回の掲載が8月23日。
吉川英治が、この8月23日のどれくらい前から作品の執筆に取り掛かり、どのくらい書き溜めた状態で連載がスタートしたのか、詳細はわかりません。
しかし、いずれにせよ、ごく最初の部分をこの時執筆していたことは間違いありません。

ところで、2年前にも書いたネタを再び持ち出したのは、72年前の今日の出来事に触れるためです。

この日の朝、英治に宛てて「夫人病気」という内容の電報が届きます。
そのため、英治は一人予定を切り上げ(他の一行は21日まで東北に滞在した)、急遽、東京に戻ります。

ところが、これは偽りで、夫人は病気でも何でもなく、夫・英治の長期の不在に癇癪をおこし、偽電報を送らせたというのが実際だったと言われています。

ちなみに、この夫人は、この2年後に離婚することになる最初の妻・やすのことです。

やすとの夫婦関係では、当時、吉川英治は文壇きっての恐妻家とされていました。
これもその一例と言えるでしょう。

なお、現在、当館の館報『草思堂だより』では、ちょうどその時期に吉川英治の書生をしていた故田中義一氏(戦前に首相になった人物とは同姓同名の別人です)の遺稿を連載中です。
夫婦仲がギクシャクしていた頃の英治とやすの姿が、色々と書き綴られています。

今年6月に発行した号に第1回を掲載し、3年かけて12回連載する予定です。

興味のある方はご連絡下さい。

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2007年8月16日 (木)

戦争にまつわる詩歌

8月は日本人にとって、戦争に思いをめぐらせる月です。

そんなわけで、現在、吉川英治の戦争にまつわる書や詩歌を、いくつか展示しています。

常設としていつも展示しているのが次の2句。

はずかしや昭和二十の秋の月
いくさやみぬ薮鶯もなきいでよ

次の2点は「昭和二十年八月」と記されたもの。

百忍自無憂
果て知れぬかすみの野べの道とても 分けゆくままにかぎりこそあれ

「果て知れぬ……」の方には、歌の上に大きく≪忍≫の一文字が書かれています。
また、この歌は、英治の作ではなく、古歌を記したものです。

同じように、「終戦の頃」として書かれたもの。

はからずも見るや都にそばの花

次のものには特に何も但し書きはありません。

かつもほろぶ
まくるもほろぶ
ちよのため
かみはとらすらむ
からき負け剋ち

次のものは、ちょっと見には戦争と関係があるようには見えませんが、戦後の世相を詠んだものです。

案山子いつか鵯や雀と仲のよさ

敵味方であったものがいつしか馴染んでいる、ということです。
もちろん、占領軍の兵士と日本人が、です。

次は、昭和25年、広島を訪ねた際、ある女性から、原爆の後遺症で毛が抜けるという話を聞いて、書き贈った歌。

くしけずる朝な朝なの黒髪に 平和の祈り持つ命かな

他にもありますが、現在はこれらを展示しています。

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2007年8月15日 (水)

長野(5)

最後にご紹介するのは「あるぷす大将」ですが、これについては、このブログで何度か言及しているので、あらすじ紹介はやめておきます。
代わりにここここをご覧下さい。

初出は『日の出』昭和8年8月号から9年6月号。ただし、「高野の巻」のみ『文藝春秋』昭和9年4月号に掲載。

「吉川英治全集10 あるぷす大将」(昭和58年 講談社)が、現時点では最後の単行本化になります。

この他に長野が作品の舞台として登場する作品には、例の本でも取り上げられた「剣難女難」があり、また、「月笛日笛」「やまどり文庫」「左近右近」「萬花地獄」などもありますが、主要な舞台は別にあるので、そちらでご紹介します。
もちろん「宮本武蔵」「新書太閤記」にも登場しますが、これらについても触れません。

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2007年8月14日 (火)

長野(4)

続いては「恋山彦」。

京・大坂に四国も登場し、しかも、物語が一番派手に展開する舞台は江戸ではありますが、重要な場所が信州なので、ここでご紹介します。

事の始まりは柳沢吉保の下屋敷で開かれた三弦の会。
請われて出席した十寸見源四郎が持参した名器≪山彦≫に惚れ込んだ吉保の愛妾・おさめの方が、山彦を譲るよう源四郎に申し入れてきたのであった。
それを拒絶したため、吉保の権力に追われる破目になった源四郎は、娘・お品とともに関西に落ち延びるが、吉保配下の市橋采女・藍田喬助によって殺害されてしまう。
坂田藤十郎の、「その道の名人となることが権力の非道への敵討ちでもある」という言葉に励まされたお品は、藤十郎のおかけで難を逃れた山彦を持って修業の旅に出る。
だが、執拗な吉保による探索や、その美貌に邪念を抱く男たちに翻弄され、放浪を続けることになる。
そんな彼女がたどり着いたのは、木曽の奥にある虚空蔵山であった。
神域として誰も近寄らぬその場所には、世から隠れて暮らす平家の落人の村があった。
お品がはからずも村に迎えられたのと同じ頃、もうひとつの難題が起こっていた。
吉保が自らの別邸・六義園建設のために、江戸城二の丸普請に名を借りて、虚空蔵山の檜の巨木を上納するよう飯田藩に命じたのである。
藩主・堀美作守の嫡男・鶴之丞は、それに応じることで幕閣としての出世をもくろむ。
かくして、お品と山彦、そして虚空蔵山の檜を求める外部からの圧力によって、深山の平家村はその平和を乱される。
そこで決然と立ったのが、伊那平家の後継者・伊那小源太。
争いの中で捕虜とした鶴之丞を人質とし、先祖が受けた天皇家からの院宣を楯に飯田藩の支配を拒む伊那一党。
そこで、策をめぐらせた吉保らは、小源太たちを江戸城におびき寄せ、まんまと鶴之丞を奪還し、その上、お品と山彦を奪い、切り札である院宣を取り上げてしまう。
罠に落ちたことを知った小源太は、その野性を爆発させ、江戸を恐慌に陥れるのであった。

ちょっと、一昨日の「さけぶ雷鳥」と似ていますね。
柳沢吉保がらみの女のわがままがきっかけで、主人公たちが流浪を余儀なくされる点はそっくりですし、あらすじでは触れませんでしたが、実はどちらの作品でも英一蝶がちょっと絡んできます。

ただし、作品の狙いは異なります。
「恋山彦」では、綱吉治下の腐乱した泰平の世に、純粋な野性の男(英治いわく≪大善魔の巨人))放り込むというところに趣向があります。
伊那小源太をキング・コングになぞらえていることは以前触れた通りです。

初出は『キング』昭和9年1月号~10年3月号。

単行本は「吉川英治全集11 松のや露八・恋山彦・遊戯菩薩」(昭和57年 講談社)が最新となります。

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2007年8月12日 (日)

長野(3)

続いては「さけぶ雷鳥」。

物語は江戸や大阪でも展開しますが、鍵を握る場所は信州なので、ここでご紹介します。
長編であり、しかも事の発端から大団円までには、実に40年ほどの歳月が流れる作品なので、設定と人物紹介だけのあらすじになりますが。

事の発端は、高野山の悩める僧・慈嶽が女と恋に落ち、山から脱走したこと。
その時、慈嶽は高野山の蔵に眠っていた性欲について説いた秘経を持ち出していた。
以来、高野山では慈嶽の消息を追い、秘経を取り戻そうと手を尽くしていた。
俗名の青地林左衛門に戻った慈嶽は、流浪の末、館林藩の祐筆となるが、そこに悲劇の種があった。
藩主が、彼の美しい妻に懸想し、我が物にしようとしたため、妻が自害したのである。
その藩主こそ、後の将軍綱吉。
世を恨んだ彼は、わが子を捨てて、刀の鍔を打つ彫金師・青地光親として、人を避けて生きる道を選ぶ。
それから幾星霜、ある女が光親と出会うことで物語は動き出す。
その女・おちゃら様は、元は町娘のお秀といったが、その美貌に目を留めた柳沢吉保が養女とし、将軍綱吉に差し出した女で、狙い通りに綱吉の寵女となったのであった。
比類なき権力を背にわがまま放題のおちゃら様は、遊びに出かけた信州別所の湯で偶然出会った光親から「将軍のお茶菓子女」と手厳しく面罵されたことを恨み、光親への復讐に執念を燃やす。
一方、柳沢吉保の家臣としておちゃら様に仕える細川圭之介とその妹・仮名江は、実は慈嶽と秘経を探し出すために高野山から送り出された密使であったが、光親こそが捜し求める慈嶽であるとは気づかぬまま、おちゃら様の手駒として使嗾されることになってしまう。
さらに、おちゃら様がお秀だった頃に、将来を誓い合った冬吉とその弟の滝太郎は、かつて光親が捨てて行ったわが子なのであった。
かくして、光親=慈嶽をめぐる因縁は、愚かな悪女の登場で激しく捻じ曲げられ、各人の運命は大きく変転する。
そして、秘経のありかを示す光親作の≪雷鳥の鍔≫に、人々は翻弄されていく。

という見事な伝奇小説です。

初出は『婦人倶楽部』昭和5年7月号~6年12月号。

物語を動かすのが、おちゃら様と仮名江という二人の女であるのは、女性誌への連載だからでしょうか。

「吉川英治全集 補巻4 自雷也小僧・さけぶ雷鳥」(昭和59年 講談社)の後、単行本化されていません。

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2007年8月11日 (土)

長野(2)

次は、これも先日名を挙げた「山浦清麿」。

山浦家の次男・環は、庄屋の長岡家の娘お咲と恋仲になり、長岡家に養子に入った身だが、ある日、所用で松代に出かけたついでに、兄の山浦真雄の後援者である柘植嘉兵衛を訪ねる。
真雄は一介の素人鍛冶に過ぎなかったが、嘉兵衛の後押しもあって、次第に声望を得つつあった。
そんなところへ、藩のお抱え鍛冶・荘司直胤の刀は折れやすいという噂が広まったため、今日、刀試しが行われるという嘉兵衛の言葉を聞き、環もその会場へ見物に行くことにする。
刀試しでは、直胤の刀は無事課題をこなしたが、真雄の刀は曲がりや刃こぼれを生じた。
それを見て、この刀試しには不正があると叫びながら乱入した環は、成り行きから、兄と自分の合作の刀で兜割りに挑むことになるが、老獪な直胤の姦計にはまり、失敗してしまう。
その屈辱を雪がんとする環は、長岡家を飛び出し、実家に戻って真雄とともに刀作りに心血を注ぎたいと望むが、真雄は、妻子のいる長岡家へ戻るべきだとして、それを拒絶する。
しかし、既に刀のことしか脳裏に無い環は、家も郷里も捨てて出奔してしまう。
江戸に流れ着いた環は、窪田清音の助力と薫陶を受け、刀鍛冶として次第に頭角を現し、四谷正宗と称されるまでになり、その名も清麿と改めた。
その頭角を現すきっかけになったのは、清音の主催による「武器講百刀会」だが、百振り打つはずの刀を四分の一も打たぬうちに行き詰ってしまう。
何のために刀を打つのかという悩みを抱えているところへ、金子重輔ら志士たちに接し交流をもったことで、勤王派の理想に目覚めたためであった。
それに気づいた清音は、このままでは勤皇派として捕縛されることもありうるので、江戸から出るよう清麿に勧めるのであった。
恩人の言葉に従い、江戸を離れた清麿は、長州などを放浪し、数年後、江戸に戻る。
しかし、それからまもなく、信州以来の縁がある佐久間象山からの手紙を吉田松陰に届けた清麿は、松陰が黒船への密航事件を起こしたことで、幕吏にその事を知られ、目をつけられてしまう。
やがて、捕り手が家に殺到すると、清麿は自ら命を絶ってしまうのであった。

山浦清麿は兄の山浦真雄ともども実在の刀鍛冶で、作中に出て来る「試刀会」も「武器講」も史実とされていますが、一方で吉田松陰や、松陰とともに密航事件をおこす金子重輔と交流し、その影響で勤王思想を持っていたように書かれているのは、全くのフィクションであるようです。

初出は昭和13年9月発行の『講談倶楽部』臨時増刊号。

単行本としては「吉川英治全集48 短編集2」(昭和58年 講談社)が最後となります。

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2007年8月10日 (金)

長野(1)

昨日「信州歴史時代小説傑作集」に触れたので、九州がまだ終っていませんが、ちょっと長野に先回りしてみます。

まずは、昨日も名を挙げた「銀河まつり」から。

信州松代藩の戸狩村は、昔から煙火師の里として知られていた。
この度、やはり名の知られた三河国の煙火師と、信州・三州それぞれの威信をかけた煙火試合が行われることになり、村はその準備に追われている。
藩からもその督励のため、狼火方の役人が村に入っている。
その一人、蜂屋慎吾は次席家老の息子だが、洋学かぶれの偏屈者のため、父である家老の依頼で狼火方に組み入れられた男。
村の煙火師を差配する郷士の教来石兵助の娘・お芳を見初め、妻にと申し入れている。
そのお芳は、実は兵助の目を盗んで煙火師の七之助と関係を持っていた。
花火製作の打ち合わせの会合の席で、洋学かぶれの慎吾は、「西洋の薬品など使わぬ、おれは日本流でやる」と言う七之助を時勢遅れと非難し、大喧嘩となる。
後日、お芳が七之助にこっそり貸し与えていた教来石家に伝わる秘蔵の書物を、兵助の命で取り返しに行こうとすると、それを知った慎吾が無理やりお芳に付き添って七之助の小屋にやって来る。
そこでお芳をめぐって争いになった二人は、意地づくから、事の決着を花火の打揚げ勝負で決することとした。
勝った者がお芳を得、負けた者は勝った側の制裁に服すと決めて。
さて、学問に秀でた慎吾の弁術に接するうち、七之助を頑迷な職人と感じるようになったお芳は、勝負のための花火製作の間に、慎吾と逢瀬を重ねる間柄になる。
勝負の日、七之助の花火は、不発の「黒玉」であった。
実は、慎吾が七之助のものと自分のものをすり替えていたのだった。
勝ち誇る慎吾が打揚げ筒に火を入れた瞬間、七之助が「しまった」と声を上げる。
その声につられて、うっかり筒を覗き込む慎吾。
次の瞬間、慎吾の首は花火とともに吹き飛ばされていた。

吉川英治の「穂波村から」という随筆に、信州を旅行中に戸狩村出身の老人から煙火師にまつわる伝承をいろいろ聞いた中に、自分の首を打上げてしまった男の話があったことが書かれています。
それを元にした小説です。

初出は昭和5年11月10に発行の『サンデー毎日』臨時増刊号。

現在も刊行中の「吉川英治歴史時代文庫75 治郎吉格子 名作短編集(一)」に収録されています。

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2007年8月 9日 (木)

信州信濃の

「信州歴史時代小説傑作集第三巻 剣の道忍の掟」(2007年6月30日 しなのき書房)という本を見つけたので購入しました。

タイトルの通り、信州=長野県に関係のある歴史時代小説を集めたアンソロジーです。

たまたまこの巻に吉川英治の作品が掲載されていたので入手しました。
他に取り上げられている作家は伊藤桂一・柴田錬三郎・笹沢左保・隆慶一郎・南條範夫・永岡慶之助・池波正太郎・五味康祐・嵐山光三郎・南原幹雄・山田風太郎です。

吉川英治の作品として収録されているのは「大妻籠無極の太刀風」とありますが、これは「剣難女難」という作品の一部分です。
雑誌『キング』大正14年1月創刊号から15年9月号まで、21回にわたって連載された作品の第20回目に相当する章です。

一応、長編作品の一部分であることはわかるようにして収録されていますが、中途半端な感じは否めません。
あらすじがついているわけでもありませんから、背景がわかりませんし。

吉川英治の初期の伝奇小説の雰囲気だけは味わえますが。

近世の信州は、東西日本を結ぶ街道である中山道が通る要衝でしたから、部分的にでも登場する吉川作品ということなら、結構な数があります。
ある程度は物語が動く、というレベルで見ても13作品ほどが挙げられます。

そのうち、短編としては、戸狩村(現山ノ内町)の煙火師についての伝承を下敷きにした「銀河まつり」、信州出身の刀工・山浦清麿を主人公にした「山浦清麿」という作品があります。

アンソロジーならそのあたりの作品を選択した方が、中途半端さがなかったと思うのですが。

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2007年8月 8日 (水)

探して

こんなお問い合わせがありました。

祖父が吉川英治の作品で読みたいものがあると言うのだが、タイトルがわからないので教えて欲しい。

おじいさんのために本を探し、そのためにわざわざ問い合わせもするなんて、とてもいい話です。
ぜひご協力差し上げたいところです。

では、それはどんな作品なんですか?

美男美女の出てくる作品だと言うんですが。

・・・・・・うーむ(苦笑)

たいていの小説は、ヒーローやヒロインを美男美女にするものです。
そうでなかったとしても、登場人物の中には必ず美男美女が含まれているものです。

これだけではさすがに作品を特定することは出来ません。

しかし、他には何もヒントが無いということで、少し思案して「剣難女難」と「鳴門秘帖」を紹介しておきました。

大雑把に言えば、前者は、美男だが剣はからっきしの男が、兄の遺恨を晴らすために剣の修行を始めることになるが、美男ゆえに女の影が付きまとい・・・・・・という作品で、後者は、身分違いの恋から身を引いた美男の隠密が、陰謀に巻き込まれたその恋人を救うために活躍する・・・・・・という作品。

おじいさんがお探しの作品が、どちらかであればいいのですが。

もし違ったら、またお問い合わせ下さい。
出来れば、もう少し詳しいヒントとともに。

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2007年8月 7日 (火)

佐賀(3)

最後は「彩情記」。

鍋島藩の陶工・鶴太夫は、仁和寺宮へ献上品を届けるため、娘・曾女をともなって京都にやって来ていたが、仁和寺の寺侍の親戚である槙宗次郎に弟子入りを懇望され、国許に連れ帰ることとなる。
帰路、長崎に立ち寄った鶴太夫は、秘かに密貿易を手がける十右衛門に接触し、自作の陶器の売り捌きを依頼する。
家計を裁量していた妻を亡くして以来、芸術家肌の放漫経営で鶴太夫の窯は破産寸前だったため、たった一度のつもりで密貿易に手を染めたのであった。
そんな鶴太夫を突然ならず者が襲うが、駆けつけた宗次郎と謎の虚無僧によって鶴太夫は助けられる。
だが、そのどさくさにまぎれて虚無僧は宗次郎を斬り、彼の持つ身元保証の書付を奪う。
翌日、鶴太夫の元に現れた虚無僧は、自分を宗次郎として鍋島藩に入国させるよう要求し、鶴太夫と曾女はこの偽宗次郎とともに帰国の途に着く。
以来三年。
まじめに働く宗次郎の姿に曾女が心を開き始めた頃、十右衛門が鶴太夫を強請りにやって来る。
宗次郎が秘かに十右衛門を斬り捨て、事なきを得たかに見えたが、曾女に懸想する奉行の息子・大田黒哲馬は、恋敵を葬り去ろうという野心も手伝って宗次郎を捕縛する。
しかし、自分は仁和寺宮の家中の者であるという宗次郎の主張が通ったばかりか、その問い合わせをきっかけに仁和寺宮から鶴太夫に改めて献上品製作の依頼が来たため、哲馬の思惑ははずれ、しかも、いつのまにか曾女が宗次郎の子を身ごもっていたため、曾女を自分の妻にするという願いも適わなくなる。
その頃から、怪しい人物が鶴太夫の周辺をうろつき始める。
彼こそ、あの日、虚無僧に斬られ、死んだと思われた本物の宗次郎であった。
偽宗次郎に恨みを持つ哲馬と本物の宗次郎は結託して、偽宗次郎と鶴太夫を破滅させようとする。
しかし、哲馬は地位を利用して密貿易に関わっていたことがばれ、本物の宗次郎は関所破りの罪で、逆に身を滅ぼす。
だが、鶴太夫もわが身を恥じて自害、その鶴太夫の血書による訴えにより、偽宗次郎こと伍堂大三郎と曾女は領外への追放という温情ある沙汰を受けることとなったのであった。

初出は『婦人倶楽部』昭和15年1月号~16年1月号。

「隠密色絵奇談」というタイトルで単行本化されたこともあります。

「吉川英治文庫38 きつね雨・彩情記」(昭和52年 講談社)が最後の単行本です。

それにしても、この佐賀を舞台にした3作品は、陶工に美しい娘がいて、その娘に横恋慕した男によって苦境に立たされるという点が共通していて、物語としては同工異曲に見えてしまいますね。
特に「増長天王」と「彩情記」は、色絵の秘法を盗みに来た男と陶工の娘が恋に落ち、陶工もわざと秘法を漏らすという同じ展開があり、読み切り短編だった「増長天王」に肉付けしながら1年余の連載に引き伸ばしたのが「彩情記」だと言っても、あながち的外れではないような気がします。

もちろん、書かれていることは同じではないのですが。

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2007年8月 5日 (日)

佐賀(2)

次は「皿山小唄」。

鍋島藩の御陶器方・柴作左衛門は苦悶していた。
将軍家より伊万里の名工・久米勇七を名指しで下命の絵皿百客を、期日間近になっても勇七が焼こうとしないのだ。
ついに、最後の催促のため息子の彦七をともなって勇七の窯を訪ねる作左衛門。
芸術家肌の勇七は、権力づくで刻限を切って良いものを作れと言うのが無法だと嘯き、催促を聞き入れない。
居続けで催促する作左衛門と勇七の間で心を配る勇七の娘・お和歌と彦七は、いつしか恋仲となる。
しかし、相変わらず仕事に手をつけない勇七の雑言にカッとなった作左衛門は、思わず勇七に斬りつけてしまう。
勇七は一命を取りとめるが、作左衛門は責任をとって切腹する。
作左衛門から勇七にあてた遺書には、わが子を思う父の情がこもっていた。
同じ子を持つ親として、それを読んで改心した勇七が、死ぬ気で百客の皿を焼く決意をした時、弟子の三次郎が思わぬことを告げる。
どうせ今からでは期日までに百客もの皿は焼けない、そこで奉行と相談して、今までに窯出しの際に不出来として刎ね除けたきず物から百客を選んで、もう荷出しした、と。
その言葉に激怒した勇七は三次郎に脇差で斬りつけると、出奔してしまう。
勇七を通して伊万里の色絵の秘密が流出しては藩の一大事と、藩は密偵を出してまで勇七の行方を追う。
彦七にも勇七を討てば帰参を許すという条件で所払いの沙汰を下す。
以来十数年。
勇七は伊予の砥部にいるらしいとの情報で、鍋島藩の密偵とその手先となった三次郎が砥部に向かうと、確かに勇七はそこにいた。
勇七を召し取ろうとする彼らを斬り伏せて勇七を助けたのは彦七であった。
お和歌と夫婦になり、勇七にとっては孫となる子もなしたことを告げ、その二人を勇七に引き合わせようとする彦七。
だが勇七は、俺の首を持って国へ帰れ、と言って自害して果てるのであった。

初出は『講談倶楽部』昭和13年6月号。

単行本化は「吉川英治文庫131 松風みやげ(短編集七)」(昭和51年 講談社)の一度だけです。

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2007年8月 4日 (土)

佐賀(1)

佐賀県を舞台にした作品は3作品ありますが、いずれも有田焼が関わってくる作品です。

まずは「増長天王」。

鍋島藩の山目付・鈴木杢之進が藩窯のある皿山を見回っていると、陶工・久米一の娘・棗と弟子の兆二郎の逢引に出くわす。
そこで杢之進に声をかけてきたのは、窯焚きの百助。
兆二郎は色鍋島の秘法を探りに来た加賀の回し者に違いない、という百助の言葉に、久米一の屋敷まで同行する杢之進。
百助は久米一の前に兆二郎を呼び出して詰問するが、久米一は、棗に懸想した挙句の作り事であろうと、逆に百助を足蹴にする。
さて、奥用人・刈屋頼母を通して、藩からの特別注文を受けた久米一は、増長天王の像の制作を始める。
一方、腹のおさまらない百助は、兆二郎の件を藩へ訴え出る。
しかし、田沼意知への賄賂とするため、どうしても久米一の作品を手に入れたい藩では、この事態に困惑する。
久米一が陶工の名人なら、百助は窯焚きの名人。両者が反目していては望むような作品が焼き上がらないからだ。
そのため頼母は、当面は兆二郎の件は不問とし、百助に大金を積んで久米一と和解させる。
その久米一は、兆二郎が密偵であることを薄々承知しながら、色絵の秘法を秘かに伝授する。
やがて、作品は完成し、久米一は捕らえられるが、肝心の兆二郎は棗とともに姿を隠した後であった。
増長天王の窯焚きを任された百助だが、先日の久米一への恨みをまだ忘れておらず、火の調節をわざと間違えることで作品を失敗させようと企む。
その百助を斬り、企みを阻止したのは兆二郎と棗であった。
二人は百助の代わりに増長天王を焼き上げると、どこへともなく姿を消した。
二人を捕らえるべきはずの杢之進は、二人に気づきながら、その逃亡を黙認する。
その脳裏にあったのは、百助を足蹴にした際に久米一が叫んだ「おれのわざはこんな山の中に封じられて終る小さなものではない。偉大なものは世の中へ溢れ出ずにはいない」という言葉であった。

初出は昭和2年4月1日発行の『サンデー毎日 春季特別号』。

現在も刊行中の「吉川英治歴史時代文庫75 治郎吉格子 名作短編集(一)」に収録されています。

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2007年8月 3日 (金)

彰義隊とあらかわの幕末

荒川区立荒川ふるさと文化館で上記タイトルの企画展が開催中です(7月28日~9月9日)。

この展覧会に、吉川英治の「飢えたる彰義隊」の初版本と、「松のや露八」の初出誌(『サンデー毎日』)を出品しています。

どちらも彰義隊を正面から描いた作品ではなく、≪その後の彰義隊≫というべき作品です。
内容はそのうちに『吉川英治作品紹介』で取り上げます。
いつになるかわかりませんが(苦笑)

展覧会については、こちらをご覧下さい。

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2007年8月 2日 (木)

受付終了

10月21日に開催する「吉川英治賞受賞作家と語るひととき 第1回 宮部みゆきさん」ですが、受付初日の8月1日18時30分現在で定員を超えるお申し込みがございましたので、受付を終了させていただきます。

間もなく当館サイトの申し込み案内のページを削除し、申し込みメールアドレスも閉鎖いたします。
ご了承下さい。

お申し込みが通った方には近日中にハガキをお送りいたしますので、当日まで大事に保管し、当日受付でお示し下さい。
ご来場をお待ちしております。

また、今回はお申し込みが通らなかった方は、残念ですが、次回をお待ち下さい。

たくさんのお申し込み、ありがとうございました。

8月2日追記

申し込み案内のページの削除、および申し込みメールアドレスの廃止は完了いたしました。

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2007年8月 1日 (水)

コウノトリ

昨日、46年ぶりにコウノトリのヒナが巣立ったという話題が、新聞各紙やテレビで報道されています。
場所は兵庫県豊岡市です。

実は昨年度の吉川英治文化賞を受賞なさった松島興治郎さんは、この豊岡でのコウノトリの保護増殖と野生復帰の活動に40年以上にわたって取り組んでこられた方です。

当時、松島さんは「コウノトリがそばにいても気にならず、生活に溶け込んだそんな鳥になってほしい」とコメントなさっていますから、今回の巣立ちは、まだまだ第一歩だと思っておられることでしょう。
放鳥が順調に進んで、ヒナの巣立ちがいちいち報道されることがないような当り前の状況になった時が、松島さんの永年の夢がかなう時なのでしょうね。

やはり吉川英治文化賞の受賞者で、アホウドリの保護増殖活動を行っている長谷川博さんとお話しした時に、アホウドリとトキを比較して、トキがいまだにケージから出ることができず、アホウドリがどうにか自力回復可能なレベルまで増殖できたのは、アホウドリの場合は繁殖地が無人島で、生活の場が広い海であるため、生活環境が全体として保全できていたことが大きいのだ、ということをおっしゃっていました。
人に近いところで暮らすトキやコウノトリでは、その生活環境を保全することがどうしても困難である、と。

人間と切り離された生活環境を持つアホウドリは、特定の人の努力でも、増殖させることが可能でした。

しかし、人間の近くにいるコウノトリは、松島さんたちだけでなく、豊岡の地域の人たちが、さらには日本人全体が、環境保全に心を配らなければ、野生復帰はかなわないでしょう。

そこは肝に銘じておきたいところです。

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