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2007年8月31日 (金)

春波楼筆記

昨日、「鳴門秘帖」は司馬江漢の「春波楼筆記」をヒントにしていると書きました。
そのことは、いくつかの随筆で、吉川英治本人が触れています。

その言をまとめると、ヒントになった記述とはこういうものです。

ある年、江漢が熱海へ入湯に行ったところ、宿の裏手に大名の風呂屋敷があった。その屋敷からは、朝早くから音吐朗々と経書を読む声が聞こえ、それが終ると弓弦が鳴り響き、竹刀を振る音が聞こえる。そんなことが毎日欠かさず続くので、宿の者に隣の屋敷は誰の屋敷かと聞くと、蜂須賀重喜だと言う。それを聞いて江漢は、蜂須賀重喜は幕府から蟄居を命じられるほどの暗君と聞いたが、この様子では世評と違い、随分な名君に違いないと思った。

これをきっかけに、蜂須賀重喜の蟄居には何か裏があるのではないかと見て調べた結果が「鳴門秘帖」になったというわけです。

当館で所蔵する吉川英治の旧蔵書に、有朋堂文庫「名家随筆集 下」(大正3年)というものがあり、その中に司馬江漢の「春波楼筆記」が収録されています。
もちろん、吉川英治が読んだ本です。
そこから、問題の箇所を以下に抜き出して見ます。

阿波侯の世子伊豆の熱海に湯治す。かへらん事を忘れて数日を経たり。其の頃吾も同じく此の湯に浴す。二十余日を歴て帰る。時に阿波侯の行蹟、常に朝は夜の丑の時を以て起き、読書、弓馬、兵術を、世子をして学ばしむ。故に之が為に僅の日を熱海に遯る。

荒っぽく現代語訳すればこんなところでしょうか。

阿波侯の世継ぎが伊豆の熱海に湯治に行った。帰ることを忘れて数日を過ごした。その頃、私も同じ湯に入りに行っていた。二十日ほど過ごしてから帰った。その間の阿波侯の行動だが、いつも朝は丑の時(1時~3時)のうちに起き、読書、弓馬、兵術を、世継ぎに学ばせていた。そのために僅かな日々を熱海に人目を避けて過ごしていたのだ。

ちょっと吉川英治が書いていることとは違っています。
司馬江漢は、名君かどうかなどという評価めいたことは書いていません。

ただ、斜め読みしていると、別の箇所に阿波侯について書いている部分がありました。

心の底を明かして付き合うことが出来る相手が≪信友≫であるが、自分と立場が同じ同輩でなければ、なかなかそうはいかないものだ、相手が諸侯貴客であれば、相手が間違っていてもついへつらってしまうし、と言って、はっきりと真実を述べれば遠ざけられてしまうものだ、ということを書いた後に、

かつて阿侯(=阿波侯)のみ幼君の時より、予と会して物談す。わが本心を以て悪しきは悪しきと云ひ、善きは善きと云ひければ、一々是を聞き容れ感ぜられしに、今に至りては四十近くならせられ、大才智の稀なる侯とはなりぬ。

と書いています。

しかし、ここまで文章を書き写してきて、なんだか妙な気がしてきました。

江漢は「阿波侯」あるいは「阿侯」と書いていますが、蜂須賀重喜とは書いていません。
江漢が言及しているのは蜂須賀重喜なのでしょうか。

蜂須賀重喜の生没年は元文三年(1738)~享和元年(1801)で、宝暦四年(1754)に藩主となり、明和六年(1769)に隠居させられています。
後を継いだのは重喜の長男の治昭で、文化十年(1813)まで藩主を務めています。生没年は宝暦七年(1758)~文化十一年(1814)です。
一方、司馬江漢の生没年は延享四年(1747)~文政元年(1818)で、「春波楼筆記」は文化八年(1811)にまとめられたものです。

上記の引用箇所がいつの出来事なのかの明記はありませんが、別の箇所に熱海から日金山に登ったという話が出ており、それが文化八年九月だとしています。

あれ、そうなると、この「阿波侯」というのは、蜂須賀治昭とした方が話しのつじつまが合うんじゃないでしょうか?
私が浅学ゆえの勘違いでしょうか?

エピソードを簡単に紹介するつもりで書き始めた軽い文章のつもりだったのに、調べなければいけない変な宿題が出来てしまいました。

まいったな。

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