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2007年8月21日 (火)

イモ

先日触れた卵や残飯の話は、吉川家がどうこうではなく、時代がそういう時代だったということですが、貧困ゆえの食の話というのも、吉川英治は色々書いています。

ついこの間の『天声人語』にも紹介された、こんな話があります。

投獄されていた父親が出所して、家で酒を飲むようになり、それが家計を圧迫し始めた頃の話です。

そんなとき、もちろん母も朝飯は喰べていない。それでも働きに出るぼくには二銭銅貨一枚を詫びるように握らせて出してくれる。ぼくは途中で焼芋を買い、半分は途々喰べ、半分は昼飯時の為に残しておいた。ほかの仲間の手まえ、何も喰べずにうろついているのは、空腹を我慢している事よりもその時間が辛かった。
(「忘れ残りの記」『父帰る』より)

ちなみに、『天声人語』では、この頃に≪貧しさもあまりの果は笑ひ合ひ≫という句を詠んだというふうに書かれていましたが、この焼芋のエピソードは、英治の自筆年譜に従うならば13歳、明治38年のこと。一方、≪貧しさも・・・≫の句は、大正3年発行の「大正川柳」28号に「紅生姜」の題詠として掲載されています。焼芋のエピソードの含んだ、その頃の経験が句の下敷きになってはいるでしょうが、時期は異なります。

閑話休題。

焼芋ならサツマイモでしょうが、ジャガイモの思い出もあります。
何度か触れたように、吉川英治は、どうしようもなくなって芋畑でジャガイモ泥棒をして、どうにか食いつないだ時期があります。

からだじゅうは、罪の意識にそそけたち、不気味な闇が、まだ明るすぎる気がした。けれど、爪のさきが深々とはいってゆくほど、土はまるで、人肌みたいであった。(略)指にふれる丸い大小の物にも高い体温があった。どんな恋にも、あんな烈しい動悸は打つまい。夢中でぼくは風呂敷一ぱいの新ジャガを抱えて逃げた。走った道も、覚えはない。しかしたしかに、七人の露命は、梅雨の間を、それでつないだ。
(「折々の記」所収『罪と新ジャガ』より)
その晩、飢餓の一家は、塩ユデの馬鈴薯をふウふウいって喰べあった。元よりぼくの薯泥棒を父は知ろうはずがない。だが、母にもその行為を叱られたような覚えがないのをみると、母も背に腹は更えられぬ思いで子の盗みを許容していたものだろうか。とすれば、ぼくの一家はその頃じつに危うい淵にあったというほかはない。ぼくはその夏、おなじ事を二、三度やった。
(「忘れ残りの記」『わが盗児像』より)

自筆年譜からすると、このジャガイモ泥棒は焼芋の話の少し後のことのようです。
この頃が、英治の人生の中で経済的にどん底の時期だったのだと言えるでしょう。

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