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2007年8月22日 (水)

魚の骨

≪貧乏食≫話を続けます。

吉川英治は18歳の時、貧困の辛酸をなめた横浜から東京へ出ます。
その際に、会津出身の塚原という蒔絵師の下に弟子入りし、金属象嵌製品の製作に携わります。

この塚原氏は随分な吝嗇家だったようで、弟子となった英治に買出しをさせるのにも、「味噌二銭、塩鮭の切り身、一銭五厘のを二切れ」などと、小銭を数えて指図するほどだったそうです。
そんな人の食生活はどうだったかというと、

たとえば、婚礼の折詰でも提げて帰ると、その鯛一尾を、幾日間も茶だんすから出し入れして、焼き直しては一人で喰べ、あとの骨でも、味噌汁に入れろと、ぼくへ命じる、といった風であった。
(「忘れ残りの記」『人生中学通信簿』より)

「横浜ッ子の放漫な気質に馴れていたぼくには、初めは何とも奇異な人にみえた」と書いていますが、しかし、魚の骨というと、英治自身にも、こんな話が残っています。

吉川文子夫人の名で「吉川英治全集」の月報に掲載された『蕗のとうと鮎』という文章にこうあります。

戦後の食糧事情がまだ悪かった頃、遠来の客をもてなしている時の話です。
あ、いま記念館がある吉野村時代の話です。

「文子、鮎を焼いて差上げなさい」と、その点、すこしも物惜しみをしない人で、子供の分までなくなりましても、
「いいさ、子供たちには頭や骨をこんがり焙って食べさせなさい。カルシュームの補給になって、育ちざかりにはいいよ」
私が鮎を焼きはじめよい香りがただよいますと、庭で遊んでいた子供達が飛んで来て、
「あとで骨を焼いてね」と、大声で云われては苦笑いたしておりました。

私が記念館に勤め始めてしばらくした頃に、存命だった文子夫人にこの話を聞いてみたことがありますが、「子供たちにはちゃんとした鮎を食べさせていたのに、こんな話ばかり広まってしまって」と、苦笑いしておられました。
決して毎度毎度のことではなかったようです。

でも奥様(私たちは文子夫人をこう呼んでいました)、ご自分で書かれた文章ですよ(笑)

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