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2007年9月29日 (土)

営業再開

当館とともに「青梅ミュージアム協議会」のメンバーである、たましん御岳美術館が本日から営業を再開したので、挨拶に行ってきました。

実は、先日の台風9号の被害を受けて、3週間ほど臨時休館していたのです。

当館は、ほとんど被害も受けず、9月7日の英治忌も無事に開催できたのですが、御岳美術館は多摩川渓谷の下、河原のすぐそばに位置しているため、増水の影響を受けて、フェンスが壊れるなどの損害を受けたそうです。

それでも、建物そのものや資料への被害はなかったため、本日に営業再開にこぎつけたというわけです。

御岳渓谷が紅葉のシーズンを迎えるのは、まだ1ヶ月以上先になりますが、その頃には、川沿いの遊歩道なども補修が終っているでしょう。

ぜひ、安心して、秋の御岳に足を運んでいただければと思います。

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2007年9月28日 (金)

一人さびしき

いま、不名誉なことで話題になっている大相撲の時津風部屋は、かの大横綱・双葉山に始まる部屋だそうですね。

その双葉山について、吉川英治は『勝負師の涙』という随筆で、こんなことを書いています。

戦前の双葉山全盛時代に、ひいき筋の人間が設けた席に吉川英治も招かれ、宴席を共にしたことがあるそうです。
席上、双葉山に対して出席者で寄書きをしようということになって、自分の順番がまわってきた時、吉川英治は即興でこんな句を書いたといいます。

江戸中で一人さびしき勝相撲

皆、「淋しい」という語感にヘンな顔をしたが、双葉山だけは英治の眼を見て黙礼をしたのだそうです。

私は、別に勝負師でも何でもありませんが、無敵であることの孤独をよく掴んだ句だと思います。

ところで、私は不勉強で、双葉山の著書など相撲関係の本には目を通していないのですが、双葉山が吉川英治から受けたアドバイスというか、忠告のような言葉が、伝わっているようです。

人気とは、低いところから、落とせば欠けないものを、勝手に高いところまで持ち上げて落とすのが特質だ

という言葉がネット上に流れています。

これについてですが、同様のことを『虚名と人気』という随筆に書いています。

人気というものは、低気圧のようなものでまるであてにならないものだ。第三者として見物している分にはあるいは面白いかも知れない。その反面、人気に乗せられたために、自分で自分の方向がわからなくなり、一生を誤ってしまうことになった天才的な人がいくらもいる。気の毒なことだ。持ちあげても、二尺か三尺のところで落としてくれればまだいい、それならば怪我をせずにすむのだが、当人の思惑も考えずにワッショイ、ワッショイと天井までかつぎあげておいて、いきなりドスーンと落としてしまう。人気というものはそういういたずらものである。

なんだか朝青龍問題を思い浮かべてしまう文章です。

まあ、最近のマスメディアは落とした上にさらに踏みつけている感じもしてしまいますが。

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2007年9月24日 (月)

近代文学の至宝

日本近代文学館から「近代文学の至宝 永遠のいのちを刻む」というタイトルの図録が送られてきました。

日本近代文学館創立45周年・開館40周年・成田分館開館を記念して、現在開催されている同名の展覧会の図録です(9月15日~10月21日 成田山書道美術館)。

図録には「大衆文学のひろがり」という章があり、そこに吉川英治の「檜山兄弟」の原稿と河合卯之助との合作色紙が掲載されています。

図録の章立てと展示の際のコーナー分けが同じになっているのかどうかは、足を運んでいないのでわかりませんが、日本近代文学館の展示室で初夏に行った同名の展覧会には出品されていましたから、今回も出ているでしょう。

ご興味のある方は是非。


追記

噂をすればなんとやら。
今朝、埴谷雄高の展覧会の招待券が、とうとう無くなりました。
一昨日、並べたばかりのさいたま文学館の展覧会にも先を越されはしましたが。

皆さん、持って行ったからには必ず行って下さいね(微笑)

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2007年9月22日 (土)

物故作家と現役作家

前にも書きましたが、当館では他の博物館施設から送られてきた広報用のチラシは、展示室ロビーの目立つ場所に置いて、来館者の方に自由にお持ち帰りいただけるようにしています。
チラシと共に招待券・割引券が同封されてきた場合には、それも置いています。

しばらく前に神奈川近代文学館の埴谷雄高の展覧会のチラシが送られてきた際に招待券が2枚同封されていたので、チラシと並べて出しておいたのですが、いまだに無くなりません。
昨日、ようやく1枚お持ちになった方がいらっしゃいましたが、まだ1枚残っています。

つい先日、今度は姫路文学館から車谷長吉さんの展覧会のチラシと共に、やはり招待券が2枚同封されてきたので、チラシと一緒に出しておいたところ、1日で無くなりました。

世の中にはタダとみれば見境なしに持っていく人もいらっしゃいますが、そうは言っても、こんなにすぐに無くなることは滅多にありません。

当館の来館者は首都圏の方がほとんどですから、神奈川の方が圧倒的に近いはずなのですが。

この差は物故作家と現役作家の違いなのでしょうか。

それとも単に埴谷雄高だからでしょうか。

ちなみに世田谷文学館の植草甚一の展覧会についても、チラシと招待券2枚が送られてきたので、出しておきました。
埴谷雄高と同じ日でした。
こちらは10日ほどで無くなりました。

じゃあ、やっぱり埴谷雄高だからか(苦笑)

でも、車谷さんの無くなり方は文学展としては格段に早い無くなり方でした。

この反響の通りに来館者が多いといいですね>姫路文学館さん

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2007年9月21日 (金)

写真コンテスト入賞作品

大変遅くなりましたが、今年の写真コンテストの入賞作品のうち、金・銀・銅賞の上位7人の作品を館のサイトにアップしました。

ご興味のある方はご覧下さい。

こちらです。

入選作品を含めた全入賞作品を10月13日~11月4日の間、吉川英治記念館で展示いたします。
また、その後、富士フォトサロンにおいて2008年1月25日~31日の間、展示いたします。

会期が近づいたところでまたご案内いたしますが、富士フォトサロンは東京ミッドタウンに移転していますのでご注意下さい。

なお、作品の募集も始めましたので、こちらをご参照下さい。

ご応募お待ちしています。

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2007年9月20日 (木)

禁止事項

一昨日、都心に出かけたのは、国立科学博物館で開催されている「失われた文明 インカ マヤ アステカ展」を見学するためでした。
一昨日のような休日の翌日というのは、たいていの博物館施設は休館になるのですが、ありがたいことに開館していたので、見学することが出来ました。

入口で、アルバイトスタッフと思しき若い女性が、何かを繰り返し叫んでいます。

会場内ではガムやアメも含めて飲食は出来ませんのでご注意下さい

展示している会場内での飲食禁止は、私たち同業者からするとごく常識的なことではあるのですが、「ガムやアメもダメ」というのは、随分と念の入ったことだと、少々驚きました。

会場に入ればその理由もわかります。

石造品など、一部の展示品はケースに入れずに、その気になれば触れるような状況で展示してあります。
ガムやアメなどくっつけられたら、たまったものではありません。
本人にその気がなくても、くしゃみをした拍子にガムやアメが飛んでいくということはありうるわけですから、あらかじめ禁止したくなる気持ちはよくわかります。

会場に入るまでの数ヶ所でスタッフがそれを連呼しているにもかかわらず、それでもガムを噛んでいる人が見受けられたのには、大いに落胆しました。

それと、入口のところで、持参したペットボトルの水も飲んではいけないのか、とスタッフに食い下がっているご老人がいらっしゃいましたが、結局、トイレ近くの休憩室で鞄からペットボトルを出して飲んでおられました。
まあ、休憩所で水を飲むことに何の不都合もないと言えばないわけですが、やはり同業者としてはヒヤヒヤします。

何しろ、展示用ショーケースというのは、資料の出し入れの必要などもあり、あれで結構隙間があるものです。
当館のように古いものはもちろんですし、今回のような特設会場での仮設のものも同様です。
液体をこぼされたら、内部に浸透して資料を傷めかねません。

もちろん露出した状態で展示されている資料にかかってしまうのもありがたくありません。

水分補給は大事だとは言いますが、空調も入った会場内に1時間かそこら滞在するだけなんですから、少しぐらいは我慢していただきたいものです。

ちなみに当館の場合は、屋外の指定された場所でなら飲食も喫煙も可、だけれども展示室内では全て不可、としています。

ちゃんと理由のあることですから、守っていただきたいと思います。

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2007年9月19日 (水)

死体

昨日、館が定休日だったので、都心まで出かけるべくJRの青梅特別快速に乗車しました。
私は青梅市内に居住して、この記念館に通勤しているので、めったに鉄道を利用しないのですが、その割には頻繁に鉄道事故にぶつかります。
出張の朝にポイント故障、とか、年に一度の家族旅行で架線切断とか。

昨日も人身事故で立ち往生してしまいました。
たまたま事故現場となった駅にいた知り合いの奥さんが、事故後の轢死体を見てしまったようです。

私も昔、某有名アイドル歌手が飛び降り自殺した現場を直後に通りかかって、死体の一部を見てしまったことがあります。

人はいつか死にますから、亡くなった親兄弟の遺体を見ることは、誰にでもあるでしょうが、異常な状況の死体というのは、一種独特の嫌な感じがあります。

それで思い出しましたが、吉川英治が戦時中に南方圏を一巡した際の日誌に、死体を見たことに触れた箇所がありました。

昭和17年、朝日新聞社特派員としての旅の途中、広東(現 広州)でのこと。

市街騒然釜熱。途上、一二度ならず缺食行路病者ヲ見る。近頃コレラ蔓延とのこと。生物生果物凡て禁ぜられる。

空港からホテルに向かう途中の車中から、度々行き倒れの死体を見た、というわけです。

この旅には画家の橋本関雪が同行していましたが、関雪もこの旅について書いた画文集「南を翔ける」でその事に触れています。

戦地で戦死体を見ることは想定内でも、戦地でもない市街地の路上に死体が放置されている状況には、両者とも強い印象を受けたようです。

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2007年9月17日 (月)

痔と原稿料

お恥ずかしながら、痔になったようで、椅子に座っているとどうも痛くてやりきれません。

痔と言えば、吉川英治にこんな話があります。

英治が東京毎夕新聞という夕刊紙の記者をしていた時代。
大正11年頃のこと。

ある日英治が、どうにも痔の痛みが我慢できなくて、行き当たりばったりに鎌倉河岸にある東京肛門病院という所に駆け込んだところ、診察もしないうちに手術室に通され、あれよと言う間に麻酔をかけられ、手術されてしまった。
そのまま入院させられて、翌朝、看護婦長が「手術料は納めたか」と聞くので、「いいえ」と答えると、看護婦長が急に慌て始めた。
人違いか何かで、どうやら予定外の手術をしてしまったらしい。
責任問題になるので、一部でもいいからお金を払ってもらえないかと言われたが、英治の方も手術になるとは思っていなかったので、手持ちが無い。
新聞社には給料を前借していて、この上さらに前借は出来ない。
困っているところへ同じ新聞社の社会部の猪股という記者が現金を届けてくれた。
英治はすっかり忘れていたが、以前、猪股から頼まれて書いた原稿があって、その原稿料だと言う。
おかげで事なきを得た。

という話です。

ちなみに、この時の原稿料が、懸賞の賞金や新聞社の給料を除いて、文章を書いて貰った初めての原稿料だったそうです。

それにしても、今なら医療訴訟になりそうな事案ですね。


なお、本日は祝日のため開館しております。
明日火曜日が休館になります。

来週も同じですので、ご注意下さい。

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2007年9月16日 (日)

文壇句会

俳句といえば、久米正雄の肝いりで始まった≪文壇句会≫に、吉川英治は何度か出席しています。

昭和12年2月27日に行われた第1回、4月27日の第3回、5月27日の第4回には出席したものの、以後は出席しなかったようです。

このうちの第1回の時に高点をとった英治の句が

板前の飼ふ鶯の夜ふかしな

というものでした。

この同じ回に出席していた徳川夢声によると、句の最後の「な」というのがオカシイというので議論になったそうですが、英治は「な」でなければ意が伝わらぬとそのまま押し通したそうです。
ちなみに、夢声は、この時が英治と言葉を交わした最初だったと思うと書き残しています(徳川夢声『いろは交友録』より)。

やはり同じ回に出席していた安成二郎の文章には、その議論への言及はありませんが、当夜の英治の句として、別の句を挙げています(安成二郎『花万朶』より)。

水いつか春となり沼に生業あり

この2句は、確実に俳句を意図したものですが、昨日触れた「俳壇誌上句集」には掲載されていません。

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2007年9月15日 (土)

俳壇

発売中の総合俳句誌『俳壇』の9月号に「吉川英治句集 60句」というものが掲載されています。
連載されている「俳壇誌上句集」というものの21回目のようです。
解説を書いておられる戸恒東人氏が選もしておられるのでしょう。

吉川英治は若き日に井上剣花坊門下の川柳家として活動していましたから、川柳の雑誌にこうした形で取り上げられることはありましたが、俳句の雑誌でというのは、過去に例があったかどうか思い出せません。
たぶん初めてでしょう。

吉川英治は川柳界を離れ作家になった後も、5・7・5の作品を数多く残しています。
そうした作家となってからの作品は、川柳というよりは俳句寄りのものではありますが、あくまで余技のものであり、味はありますが、青春の心血を注いだ川柳とは同列にはできません。

そんなこともあって、結局のところ、俳句雑誌でありながら初期の川柳も数多く含まれています。

現在、吉川英治の川柳・俳句を集めた「川柳・詩歌集」「続川柳・詩歌集」とも、当館のショップでしか手に入りません。
ですから、手軽に吉川英治の川柳・俳句の一端に触れられるということでは、ありがたい特集です。

ご興味のある方はぜひお求め下さい。

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2007年9月14日 (金)

季語

こんなお電話をいただきました。

角川の「歳時記」には≪英治忌≫が含まれていないのですが。

俳句をなさっている方で、≪英治忌≫を季語に一句作ろうとしたが、参照した歳時記には掲載されていなかった、ということをおっしゃっておられるようですが、そう言われても私にはどうしようもありません。

「そうなんですか?知りませんでした。ただ、私どもが季語を決めているわけではないので……」とお返事したところ、

あ、そうですね。とっくに季語になっていると思っていたものですから。

そんな言葉で、電話を終えました。

いや、実際、季語というのは、誰がどうして決めているものなのでしょうか。
俳句のことはよく知らないので(文学のこともよく知りませんが)、わかりません。
出版されている季語集によって収録されている季語の数も違えば、それぞれが独自に収録している季語もあるようですから、たとえば俳人協会あたりが統一基準を設けているというものでもないようです。

多くの人が、その言葉と特定の季節を結び付けてイメージできるものなら、特に何かの機関が選定しなくても、季語として認められるということなのでしょうか。

だとすると、≪英治忌≫が季語になる可能性はあるのでしょうか。

忌日なので、いつも9月7日と決まっていますから、特定の季節(秋)と直結していることは確かですが、誰もがそこから秋をイメージできるほど浸透している行事なのかと言われれば、若干疑問が生じます。

ということで、誰か、≪英治忌≫を季語にして俳句の雑誌に句を投稿してみて下さいませんか?

却下されなかったら、季語として認められたってことで(微笑)

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2007年9月13日 (木)

アクセス解析

ブログに書くネタを探すのに疲れたので(苦笑)、先日来気になっていたことを。

ブログのアクセス解析で、過去4か月のアクセスを確認してみたところ、≪検索ワード≫のトップが『懸賞小説』でした。
つまり検索サイトに『懸賞小説』と書き込んで検索し、それでこのブログにやって来た人が、他の言葉を検索してやって来た人よりも多かったということです。
当然、≪ページアクセス≫の方も、トップページを別にすれば『懸賞小説』というタイトルで書いた文章でした。

≪検索ワード≫の2位が『道下俊一』であったのは、吉川英治文化賞受賞者である道下さんを主人公にしたドラマが放送されたからという理由がはっきりしていますし、3位が『我以外皆我師』なのは「我以外皆我師」という吉川英治の言葉について検索する人が多いということで納得いきますが、1位が『懸賞小説』とは。

おそらく小説を書きたいという人が、応募先を探して検索されたのでしょう。

ちなみに、この4ヶ月に何かを検索してこのブログにたどり着いた人が6300余で、そのうち、『懸賞小説』『懸賞 小説』『小説 懸賞』『懸賞小説 募集』といった言葉で検索して来た方が350弱。

多いと言うべきなのか、それほどでもないのか、判然としませんが。

吉川英治も上記のリンク先に書いたように懸賞小説に応募しています。
そこから作家になりました。

小説の応募先を探してアクセスなさった方の中にも、未来の大作家がいるのかもしれません。
がんばっていただきたいものです。

残念ながら、吉川英治賞は懸賞形式ではないのですが。

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2007年9月12日 (水)

福岡(2)

もう1作は「筑後川」。

安政の大獄の難を逃れた京都清水寺の勤王僧・月照は、薩摩の西郷吉之助の助力で薩摩へと落ち延びようとしていた。
その彼を追って、京都町奉行・小笠原長門守配下の中座者である甚太は太宰府までやって来ていた。
甚太は黒田藩の手を借りて、月照が隠れている駕籠屋の虎五郎の家を襲うが、一足違いで逃げられてしまう。
その虎五郎の家に残されていたのは、女房のお浜。
元はと言えば久留米の者である甚太とは恋仲だった女である。
甚太が故郷を捨てた後、虎五郎に無理やり女房にされたのがお浜であった。
懐かしい男の出現に、お浜は虎五郎との間にもうけた子も捨てて甚太に取り縋る。
お浜の口から、月照一行の逃走経路を聞き出した甚太は、事が成就したら一緒に京へ出る約束をして、追跡を続ける。
久留米で旧知の船頭・伝助に出会った甚太は、彼を仲間に引き入れると、柳河から船で薩摩へ向かおうとする一行に追いつくが、黒田藩の捕り手が出港に間に合いそうもない。
やむなく、甚太と伝助は船頭の中に紛れ込んだうえで、お浜を使って同行している虎五郎と警護の武士・平野二郎を船から引き離し、その隙に月照を捕らえようともくろむ。
しかし、虎五郎がつれていた我が子に情を移したお浜の挙動から策は破れ、ついに甚太は斬られてしまう。
月照の乗った船は出港し、浜に残されたのは虎五郎と我が子に乳をやるお浜だけであった。

初出は『オール読物』昭和8年1月号。

単行本は「吉川英治文庫127 退屈兵学者(短編集三)」(昭和51年 講談社)が最新になります。

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2007年9月11日 (火)

福岡(1)

福岡は、「私本太平記」に重要な舞台として登場します。
九州に落ち延びた足利尊氏一党が、菊池一族と戦って九州を押さえ、再び京を目指すという一連の場面でです。

しかし、それは例によってここでは取り上げません。

それを除くと、福岡は短編が2作あります。

ひとつは「恋祭」。

宗像郷の郷士・帆足半九郎は、庄屋の宇土兵衛の依頼で宇土兵衛の家に伝わる名物の茶入れを堺の商人に売渡しに行った帰路、便船の中で顔見知りの大黒屋と出会った。
実は半九郎、宇土兵衛に渡すはずの茶入れの代金をつい使い込んでしまい、死ぬ覚悟をしていたところだった。
しかし、二人が出会った翌朝、便船が蘆屋の港に着いた時、姿を消していたのは七左衛門の方であった。
しかも、集めてきたはずの売上金は消え、遺書が残されていた。
七左衛門を迎えに来ていた息子の長太郎と信二郎は、父が自殺したとは信じられず、不審な行動をとる半九郎を下手人と疑うが、もみ合ううちに長太郎は半九郎に斬られてしまう。
この騒ぎで半九郎は奉行所に連行されるが、決定的な証拠もなく、無罪放免となる。
この事件以来、大黒屋は家運が傾き、長太郎と信二郎の兄弟は分家の彦十の家に間借りするまでに落ちぶれる。
しかも、長太郎は半九郎に切られた怪我がもとで廃人となっており、信二郎が煎り豆売りなどをして細々と暮らしていた。
一方の帆足家は近郷一の長者となっていた。
もちろん、元手は七左衛門を殺して奪った金である。
宗像神社で武術の納額試合が行われた日、半九郎の息子・亀之助は、彦十の娘・お真砂を見初め、嫁にと所望する。
幼い頃から七左衛門に信二郎の許婚と言われてきたお真砂は、信二郎に操を立て、それを拒むが、半九郎と結託した奉行から、彦十に不当な圧力がかかるなどしたため、承諾せざるを得なくなってしまう。
お真砂が亀之助との結婚を承諾した日、自分への操立てより両親の恩に報いてくれとの書置きを残して、信二郎は長太郎と共にいずこかに姿を消した。
そして、亀之助との婚礼の夜、お真砂は自ら命を絶つのであった。

一応、最後に、事が露見して半九郎たちが裁かれる事になるということが書き足してありますが、文庫ではそれが2行分で、本当に付け足し程度。
実質的に悪人がそのままで話が終るという、やや後味の悪い作品です。

初出は『日の出』昭和13年8月号。

単行本は「吉川英治文庫131 松風みやげ(短編集七)」(昭和51年 講談社)が最後となっています。

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2007年9月 9日 (日)

トマト

≪吉川英治の意匠≫展では、吉川英治が焼物に絵や文字を入れたものをいくつか展示しています。

親交のあった河合卯之助のような本職の陶芸家がろくろをひいた茶碗に染筆した資料もありますが、今回は楽焼の茶碗を出しています。

それを見た吉川英明館長が、「これも出したの?」と言って指差したのが、そんな楽焼茶碗のひとつ。
茶碗の内外に柿を描き、その間を埋めるように

師の坊は今日も留守らし柿の菴

という句を書き込んだものです。

いやぁ、親父が一時期、軽井沢で楽焼に凝ってね。
よく香屋子を連れて行っていたんだよ。
これもその時のものだけど、これが焼きあがった時にね、先に見た香屋子が「美味しそうなトマト!」なんて大声で言ったもんだから、親父が「んっ・・・」って、何とも言えない顔をしてねぇ。

とは館長の言葉。

素地が粗い楽焼では微妙な形は描けませんし、しかも焼物は色の調整が難しいので、この茶碗の柿は、柿の色というにはちょっと赤すぎるとは思いますが、愛娘に≪トマト≫呼ばわりされて、さぞがっかりしたでしょう。

しかし、その≪何とも言えない顔≫というやつを、一度見てみたい気がします。

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2007年9月 8日 (土)

英治忌のお礼

昨日は、吉川英治の命日=英治忌でした。

台風の接近が心配されましたが、未明のうちに青梅周辺を通り過ぎたおかげで、無事に開催することが出来ました。

また、台風は通過したとは言え、様々な混乱が残る中、200名以上の方にご来館いただき、感謝いたしております。

様々なご協力をいただいた裏千家淡交会青年部、紅梅苑、講談社、博報堂の皆さんにもお礼申上げます。

ありがとうございました。

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2007年9月 7日 (金)

本日は英治忌

本日は英治忌です。

内容は昨日触れた通りです。

故人を偲びながら、ゆっくりと一日くつろいでお過ごしいただければ幸いです。

皆さんのお越しをお待ちしております。

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2007年9月 6日 (木)

明日は英治忌

明日9月7日は吉川英治の45回目の命日です。

吉川英治記念館では、29回目となる「英治忌」を開催致します。

英治忌は、吉川文学のファンや吉川英治に縁のある方々に、故人を偲んでいただく一日であり、皆様にくつろいで過ごしていただけるよう、ささやかなおもてなしをさせていただいております。

普段は非公開の母屋では、裏千家淡交会青年部の協力により、平成14年以来6回目となるお茶会が開かれます。席では昨年亡くなった故吉川文子ゆかりの紅梅苑が英治忌の日のみ製造する特製茶菓『菊一花』がふるまわれます。
このお茶会にはどなたでもご参加いただけますし、また、堅苦しいお茶席は苦手、とおっしゃる方には陰点てでお抹茶と『菊一花』をお出ししています。
なお、昨年より9月7日のみ『菊一花』の販売もミュージアムショップで行っております。
庭では、広島のにしき堂より毎年ご提供いただいている賀茂鶴の樽酒をお飲みいただける他、紅梅苑の紅梅饅頭を当日の来館者全員にお持ち帰りいただいております。

また、連日ご紹介している企画展≪吉川英治の意匠≫も開催中です。

是非、お運び下さい。

なお、開館は通常通り10時から17時(入館は16時30分まで)です。

特別に法要を行うといったことはございませんので、開館時間中であればいつでもご入館いただけます。

参加には入館料が必要ですが、それ以外に特別料金などはございません。

お待ちしております。

9月6日午後4時20分追記

明日は台風の接近が予測されますが、英治忌は実施いたします。

奮ってご参加を…と言いたいところですが、天候を見て、ご無理のない範囲でご参加下さい。
お待ちしています。

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2007年9月 5日 (水)

碑文

先日触れた山崎闇斎木像の≪奉献の辞≫についての文章で、この木像を発見し、山崎町への寄附への道を開いた嘉治隆一が、「亡くなった吉川さんの遺された碑文は天下に三つしかない」と書いています。

その中で真っ先に挙げているのが竹内栖鳳の筆塚の碑文です。

神奈川県の温泉地・湯河原にある保善院にあります。

日本画家の竹内栖鳳は昭和17年に亡くなっていますが、その栖鳳の晩年に仕えた女性・六人部貞栄が長年溜めた栖鳳の使い古しの筆と切り溜めた爪を埋め、昭和19年に供養のため碑を建てたました。
嘉治は筆塚と書いていますが、正確に言えば、筆塚および爪塚となります。

今回の≪吉川英治の意匠≫展では、その碑文の下書き(軸装)を展示しています。

この栖鳳にまつわるあるエピソードを吉川英治は書き残しています。

吉川英治は、昭和17年8月に朝日新聞社特派員として南方戦線の前線地帯を飛行機で一巡する旅をしています。
この旅に同行したのが橋本関雪。

関雪は、栖鳳が開いた『竹杖会』に学んだ、いわば弟子に当たるわけですが、やがて対立し、晩年の栖鳳とは不和な関係にありました。

この旅の途中の8月23日に栖鳳は死去します。

旅中の飛行機の中でそれを知った関雪が、吉川英治に何か書いた紙を渡してきました。
旅に使用したのは朝日新聞社の所有する飛行機で、小型のためエンジン音がうるさくて機内では会話が出来るような状態ではなかったため、二人は何かあると筆談していたのです。
英治がそれを見ると、栖鳳への悪態が一面に書きなぐられていたというのです。

随筆集「折々の記」に収められた『トラの関雪さん』という文章に記されたエピソードです。

ちなみに、嘉治が「碑文は天下に三つしかない」と書いているのは間違いです。

嘉治の言う三つとは、上記の筆塚・爪塚と、青梅に残したもの=万年橋碑文、≪奉献の辞≫のことで、昨日触れた墨田電話局の碑文が抜けています。

それが碑そのものを構成しているかどうかという点では、墨田電話局のものは確かに慰霊碑そのものとは別に設置されてはいますが、やはり数には含めておいて欲しいですね。

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2007年9月 4日 (火)

墨田電話局殉職者慰霊碑

タイトルの碑の碑文下書きを軸装したものを、「吉川英治の意匠」展では展示しています。

この地は
大正十二年九月一日の関東大震災
の殉難者二名と またかつての
昭和二十年三月九日夜半における
大戦の大空襲下に ブレストも身
に離たず劫火のうち相擁して斃れ
た主事以下の男職員三名 女子交
換手二十八名が その崇高な殉職の
死を永遠にした跡であります
日常 ふとここに佇み給ふ折には
なにとぞ一顧の歴史と共に泉下の
可憐な霊へも 寸時の哀悼を惜ま
せ給ふなと 謹而之を誌す

そう書かれています。

実は、東京大空襲で殉職した女子交換手の中の一人が、吉川英治が最初の妻・やすとの結婚中に引き取った養女・園子でした。

挺身隊として墨田電話局に動員されていた園子が、空襲で行方不明となったことを聞いた英治は、疎開先であるここ青梅から、数日間、来る日も来る日も都心に出かけては園子の消息を訪ね歩きました。
しかし、ついに消息はわからず、遺骨を見つけることも出来ませんでした。

そうした縁から、英治は昭和33年3月10日に行われた慰霊碑の除幕式に招かれ、出席しました。

除幕式から3日後、当時の電電公社の職員が吉川邸を訪ね、慰霊碑のそばに碑の由緒を記した碑文を置きたいので、その撰文と揮毫を英治に頼みたい、と依頼します。
そうして書いたもののひとつが、上記の下書きということになります。

何度か書き直し、最終的に碑文として設置されたものは、上記のものより少し長くなっています。
おそらく上記のものが第一稿で、最終的な碑文はこれに加筆したもののようです。

しかし、このシンプルな文章にも、そうでありながら深い悲しみを読み取ることが出来ますね。

(20161217追記)
この文章には、大きな間違いがあります。
それを修正した文章を公開しました。

こちらです。

この文章を参照して、間違った内容を書いている方もいらっしゃるようですので、これが間違いの源であるということがわかるように、この文章は修正せずに残します。

ご容赦ください。

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2007年9月 2日 (日)

山崎闇斎の碑

碑銘や碑文の揮毫というのは、「意匠」というにはやや違和感がありますが、今回の「吉川英治の意匠」展では、そういう類のものをいくつか展示しています。

過去にこのブログで紹介した蟹江の碑呼潮へんろ塚の写真や関連資料もあります。

そんな中からひとつご紹介。

≪山崎闇斎先生奉献の辞≫石碑

兵庫県宍栗市山崎町にある闇斎神社にあります。
闇斎神社はその名の通り山崎闇斎を祀った神社で、昭和15年に創建されています。

当時の新聞などの記事によると、経緯はこういうものです。

昭和35年、朝日新聞社の編集者で「新・平家物語」の成立にもかかわった嘉治隆一が、ある時、古書店で山崎闇斎の木像を発見。
その年、たまたま山崎町を訪ねた際に、その話をしたところ、入手したいとの申し入れがあった。
さらにその後、どうやらそれが伊藤仁斎の孫・伊藤善韶が所蔵していたものらしいということが判明。
一連の話を吉川英治に伝えたところ、吉川英治が「自分がそれを購入して寄付したい」と言い出した。
かくして、昭和35年11月22日に木像は山崎町に寄贈された。
これを記念して、石碑が造られ、昭和37年4月1日、山崎闇斎二百八十年祭に合わせて除幕式が行われた。

石碑には、吉川英治が書いた「山崎闇斎先生奉献ノ辞」という文章と、伊藤善韶が山崎闇斎の木像の背に書き込んだ文章の両者が刻まれています。
石碑の設計は森鷗外の娘婿である小森四郎によるものです。
また、同時に、川田順による山崎闇斎の像を詠んだ歌の碑も建てられました。

展示しているのは碑の写真と、「奉献の辞」の部分の拓本です。

なお、「奉献の辞」の碑文に記された日付は「昭和三十五年十一月 文化の日」となっています。
碑の序幕の日付と違っていますが、これは、碑文になった文章が、木像が寄贈される直前に嘉治隆一の乞いによって木像の箱に箱書きをした文章に肉付けしたものだからでしょう。

ちなみに、昭和35年11月3日の文化の日は、吉川英治が文化勲章を授与された日です。

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2007年9月 1日 (土)

サギソウ

Img_9388_2

サギソウです。

草思堂庭園の手入れに入っている植木屋が花の咲いた鉢を持ってきて借してくれました。
花が終ったら、また返します。

これだけ密生していると華やかですね。

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