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2007年9月 5日 (水)

碑文

先日触れた山崎闇斎木像の≪奉献の辞≫についての文章で、この木像を発見し、山崎町への寄附への道を開いた嘉治隆一が、「亡くなった吉川さんの遺された碑文は天下に三つしかない」と書いています。

その中で真っ先に挙げているのが竹内栖鳳の筆塚の碑文です。

神奈川県の温泉地・湯河原にある保善院にあります。

日本画家の竹内栖鳳は昭和17年に亡くなっていますが、その栖鳳の晩年に仕えた女性・六人部貞栄が長年溜めた栖鳳の使い古しの筆と切り溜めた爪を埋め、昭和19年に供養のため碑を建てたました。
嘉治は筆塚と書いていますが、正確に言えば、筆塚および爪塚となります。

今回の≪吉川英治の意匠≫展では、その碑文の下書き(軸装)を展示しています。

この栖鳳にまつわるあるエピソードを吉川英治は書き残しています。

吉川英治は、昭和17年8月に朝日新聞社特派員として南方戦線の前線地帯を飛行機で一巡する旅をしています。
この旅に同行したのが橋本関雪。

関雪は、栖鳳が開いた『竹杖会』に学んだ、いわば弟子に当たるわけですが、やがて対立し、晩年の栖鳳とは不和な関係にありました。

この旅の途中の8月23日に栖鳳は死去します。

旅中の飛行機の中でそれを知った関雪が、吉川英治に何か書いた紙を渡してきました。
旅に使用したのは朝日新聞社の所有する飛行機で、小型のためエンジン音がうるさくて機内では会話が出来るような状態ではなかったため、二人は何かあると筆談していたのです。
英治がそれを見ると、栖鳳への悪態が一面に書きなぐられていたというのです。

随筆集「折々の記」に収められた『トラの関雪さん』という文章に記されたエピソードです。

ちなみに、嘉治が「碑文は天下に三つしかない」と書いているのは間違いです。

嘉治の言う三つとは、上記の筆塚・爪塚と、青梅に残したもの=万年橋碑文、≪奉献の辞≫のことで、昨日触れた墨田電話局の碑文が抜けています。

それが碑そのものを構成しているかどうかという点では、墨田電話局のものは確かに慰霊碑そのものとは別に設置されてはいますが、やはり数には含めておいて欲しいですね。

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