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2007年9月 4日 (火)

墨田電話局殉職者慰霊碑

タイトルの碑の碑文下書きを軸装したものを、「吉川英治の意匠」展では展示しています。

この地は
大正十二年九月一日の関東大震災
の殉難者二名と またかつての
昭和二十年三月九日夜半における
大戦の大空襲下に ブレストも身
に離たず劫火のうち相擁して斃れ
た主事以下の男職員三名 女子交
換手二十八名が その崇高な殉職の
死を永遠にした跡であります
日常 ふとここに佇み給ふ折には
なにとぞ一顧の歴史と共に泉下の
可憐な霊へも 寸時の哀悼を惜ま
せ給ふなと 謹而之を誌す

そう書かれています。

実は、東京大空襲で殉職した女子交換手の中の一人が、吉川英治が最初の妻・やすとの結婚中に引き取った養女・園子でした。

挺身隊として墨田電話局に動員されていた園子が、空襲で行方不明となったことを聞いた英治は、疎開先であるここ青梅から、数日間、来る日も来る日も都心に出かけては園子の消息を訪ね歩きました。
しかし、ついに消息はわからず、遺骨を見つけることも出来ませんでした。

そうした縁から、英治は昭和33年3月10日に行われた慰霊碑の除幕式に招かれ、出席しました。

除幕式から3日後、当時の電電公社の職員が吉川邸を訪ね、慰霊碑のそばに碑の由緒を記した碑文を置きたいので、その撰文と揮毫を英治に頼みたい、と依頼します。
そうして書いたもののひとつが、上記の下書きということになります。

何度か書き直し、最終的に碑文として設置されたものは、上記のものより少し長くなっています。
おそらく上記のものが第一稿で、最終的な碑文はこれに加筆したもののようです。

しかし、このシンプルな文章にも、そうでありながら深い悲しみを読み取ることが出来ますね。

(20161217追記)
この文章には、大きな間違いがあります。
それを修正した文章を公開しました。

こちらです。

この文章を参照して、間違った内容を書いている方もいらっしゃるようですので、これが間違いの源であるということがわかるように、この文章は修正せずに残します。

ご容赦ください。

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