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2007年12月24日 (月)

年末年始休館のお知らせ

吉川英治記念館の年内の営業は本日までとなります。

12月25日から1月5日までは休館とさせていただきます。


今年も色々とお世話になりました。
来年もよろしくお願いいたします。

皆様も良いお年をお迎え下さい。

ありがとうございました。

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2007年12月23日 (日)

アンケート

こんな記事を見つけました。

年何回美術館に行った?=東京1.9回で最下位-世界5都市を比較・民間調査(時事通信)

 ロンドンっ子は東京の2倍美術館好き?-。不動産開発大手の森ビル(本社東京)が、世界5都市の市民を対象に美術館へ行く頻度について尋ねたところ、東京は年1.9回とロンドンの半分で最下位という結果が出た。
 同社は先月、インターネットを通じて2都市のほかニューヨーク、パリ、上海に住む18歳以上の市民各200人の計1000人を対象にアンケートを実施、それぞれの芸術意識を探った。
 その結果、年1回以上美術館を訪れる人の割合と年間平均回数ともロンドンがトップ(91%、3.9回)で、東京が最下位(76%、1.9回)だった。
 ほかの都市は、ニューヨークが78%と2.6回、パリが87%と3.1回、上海が90%と3.1回だった。
 美術館に求めるものについては、東京では「気分転換」が多かったのに対し、ロンドンやニューヨークでは「非日常的な刺激」、パリでは「教養」が他都市と比較して多かった。上海では「心の安らぎ」のほか、「ビジネスにおけるヒント」という回答も目立った。

[時事通信社:2007年12月22日 15時10分]

これは美術館に限ったものなのでしょうが、そうなるとわれわれ文学館も含めた博物館全体を対象にしたら、割合も回数も増えるはず。
美術館には行かなかったが、博物館には行った、という人もいるでしょうから。

うーん、この数字、本当かな?

東京都民の76%と言えば、900万人を越えます。
その人たちが、年間2回美術館に行ったとしたら、累計で1800万人。
これは東京都民だけですから、日本全体で考えれば、もっと数は増えることになります。
それだけの人が美術館にやって来るのなら、美術館は結構潤っているはずだと思うのですが。

いや、私が美術館関係者とあまり交流がないから知らないだけで、潤っているのかもしれませんが。

しかし、全国文学館協議会に出席しても、聞こえてくるのは窮状ばかり。
年間の来館者が1000人に届かない館もあれば、電気代を節約するために照明の電球を間引いているという館もあるという有様。

美術館と文学館は違いますが、本当にアンケートの数字通りであれば、むしろ上出来だと思えるのは、私の思い違いでしょうか。

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2007年12月18日 (火)

耐震

建築関係の雑誌『ディテール』の最新号(175号)が送られてきました。

ここに掲載されている「改修・耐震補強の現在」という小特集に吉川英治記念館ミュージアムショップの事例が取り上げられています。

私も建築の専門家ではないので、詳しい説明は出来ませんが、長屋門の袖部屋をミュージアムショップに改修するにあたって、十分な耐震強度を得るために≪ガラス制震壁≫というものを使用しました。

これは、制震のための構造部分を隠すように設置すれば、ガラス戸にしか見えません。
耐震のために壁を作るとその分どうしても空間が狭く感じられてしまいますが、これを使えばガラス戸に出来ますので、空間に広がりも出ますし、採光も出来ます。

当館のミュージアムショップのような小空間では、耐震性を持たせつつ、壁面にガラス戸を多用できるので、有効な手段となります。

今後、歴史的建造物などで耐震補強が問題になることもあるでしょう。
確か武者小路実篤の旧宅も耐震工事をしたはず。

耐震補強のために元々窓があった所を壁にしなければならない、などという場合があったら、使える手かもしれません。

いや、そんな場合があるのかどうか知りませんが。

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2007年12月13日 (木)

脳トレ?

人間、目でものを見ているようで、意外と見えていないものです。

当館は開館から30年も経っているので、施設がとにかく古い。
特に冬の暖房は利きが悪くて苦情が出るほど。

そこでせめてもと思い、展示室の入口の戸に

暖房しています。開け放さないで下さい。

という札を下げてみました。
外の冷気が少しでも入ってこないように、ということです。

さて、先日、数人のグループで来館した方々が、展示室に入らず素通りして、遊歩道を戻ってこられたので、「展示はご覧にならなかったのですか?」と声をおかけしたところ

何か札が下がってるから入っちゃいけないのかと思って。

・・・・・・「立ち入り禁止」と書いた覚えは無いのですが(苦笑)

普段から、入場門に掲げている「再入場の際には入館券をお見せ下さい」というパネルを見て

再入場禁止かぁ。

と、書いてもいないことをつぶやいて行かれる方は多いんですよ、意外にも。
まあ、これに関してはたいていの展覧会会場がそうなっているので、先入観があるのでしょうが。

とりあえず、何か書いてある札は、脳トレだと思って、ちゃんと読んでみて下さい。

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2007年12月12日 (水)

国立文学館

台湾のネタを続けますが、台南市の市街地を観光バスで走っている時、車窓に≪台湾文学館≫という文字が見えました。

ホテルに到着後、ロビーで、台南についての資料が何かないか物色していると、こんなパンフレットが見つかりました。

Img_9705

パンフレットの表紙にある立派な建物は、日本統治時代の台南州庁の庁舎で、竣工は1916年。
終戦後は台南市政府の庁舎として、そのまま利用されてきました。
1997年から改修工事を始め、2003年に≪国立台湾文学館≫として開館したものだと、パンフレットに記載されています。

台湾では、日本統治時代の古い建物が保存、利用されている例が多く見られますが、これもそのひとつのようです。

日本には今のところ国立の文学館はありません。
台湾に先を越されましたな。

まあ、あれば良いというものでもありませんが。

せっかく見つけた国立台湾文学館ですが、旅の目的に入っていなかったので、立ち寄ることは出来ませんでした。

というような話を、先日、山梨県立文学館で行われた全国文学館協議会総務情報部会の懇親会で神奈川近代文学館の方にお話ししたところ、神奈川近代文学館と国立台湾文学館で何かしようという話が持ち上がっているというようなことをおっしゃっていました。

もし、向こうで何かするという話なら、それを見学するという名目で、もう一度台南に行ってみようかな。
どさくさまぎれに出張扱いにして(微笑)

いや、それよりも、台南で全国文学館協議会の部会をやりませんか、中村稔会長?

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2007年12月11日 (火)

二度目の台湾

二度目の台湾は、『南方紀行』の旅の行きと帰りに1泊ずつしています。

吉川英治が書いた日記を見ると、こんな様子です。

昭和17年8月10日の3時半に台北に到着。
宿泊したのは、日本統治時代の温泉旅館が現在も残っていることで有名な温泉地・北投(現・台北市北投区)です。
夜は、同行した橋本関雪、従軍画家として台湾に派遣されていた吉岡堅ニ・川端實とともに会食。
深夜、塚越迷亭が英治を訪ねて来ています。

塚越迷亭は、川柳時代からの友人で、一時期は英治のもとで秘書めいたこともしていました。
この頃は台湾で、台湾川柳社を興し、『国姓爺』という川柳雑誌を発行していました。
この時は台湾東部の宜蘭にいたようで、英治が台北到着後かけた電話をうけて、はるばる北投まで来たようです。

宜蘭から台北までは、今は新しく出来た高速道路で1時間ぐらいです。
先日の私の台湾旅行では、当時からある海岸沿いの道を使いましたが、台北から宜蘭まで、車に乗っていた時間だけで5時間ほどありました。
塚越迷亭も、同じような道のりで台北まで来たのでしょう。
お疲れ様でした。

翌朝は、7時に宿を出て、マニラに向けて空港を飛び立ったのは9時。
見送りに来たのは、塚越迷亭ただ一人だったと書いています。

帰りは8月27日。
行きと違い、中国の広州から高雄に到着しています。
到着は午後1時。
宿泊は市内の春田という旅館だったようです。
3、4日前に敵潜水艦の奇襲を受けたということで、「夜ハ一灯の微光もゆるさず」と書いています。
翌朝は8時に高雄を出発。
機上から阿里山山脈を見たと書いています。

飛行機は給油の関係か、直接日本には向かわず、上海を経由して別府に飛んでいます。

先日の旅行で台北・宜蘭・高雄には足を運んでいますので、吉川英治の記述に、少しばかり実感が湧きました。

旅の目的が別だったので、あくまで少しばかりですが。

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2007年12月 9日 (日)

台湾

先日、休暇をとって台湾を旅行してきました。

台湾には吉川英治も出かけたことがあります。
一度ここで紹介したことがありますが、この機会にもう少し詳しく見てみましょう。

昭和15年の台湾行きについては、『文藝銃後運動講演集』(昭和16年5月14日 文藝家協会刊)の巻末の「文藝銃後運動の経過」という文章で概要がわかります。

それによると、12月13日~21日にかけて、文藝銃後運動の講演会のため台北・台中・台南・高雄・新竹の各都市を廻ったということになっています。
これは講演を行った都市名ということでしょう。
当館には、この旅の途中で高砂族の集落を訪問した際の記念写真が残されていますが、この文章では触れられていません。

講師として台湾に行ったのは菊池寛・中野實・久米正雄・火野葦平・吉川英治の5名。
その他に、吉川英治の弟・晋が同行していたことが、上記の写真からわかります。
ちなみに、菊池・中野は沖縄での講演会を行ってから現地で合流しており、また久米・中野はこの後、中国の広東、仏印の河内(ハノイ)、西貢(サイゴン)に移動したとあります。

吉川英治の講演タイトルは「心構への話」となっていますが、文藝銃後運動の講演会では、どこへ行っても全てこのタイトルを使っています。
ただし、話の内容がどこへ行っても同じだったのかまではわかりません。
たぶん、どこに行っても必ず話す芯の部分があって、あとは場所に応じた話をしたのでしょう。

当館に残されている写真は2枚で、いずれもオリジナルではなくて複写です。
しかし、そのうちの1枚に、旅に同行した吉川晋のものと思われるメモがあります。

昭和十五年暮(十二月)
台湾総督府の招待での文春講演会で場所は台南附近の高砂族の部落と気憶してゐます
一行には菊池寛氏もおられましたがこの日はホテルで休息されてゐました
(表現は原文のまま)

私は今回、吉川英治が足を運んだ都市のうち、台北・台南・高雄に行きました。
そこで、台湾神社(台北)、台南神社、高雄神社の跡地を訪ねました。

おそらく、吉川英治たちも、旅の目的が目的なので、神社を訪問した可能性が高いと思います(少なくとも台湾神社に行った記録はあるようです)。

旅の目的は別にあったのですが、70年近く前に、この同じ場所に吉川英治他の作家たちがいたかと思うと、感慨深いものがありました。

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2007年12月 8日 (土)

翻訳

こんなお問い合わせがありました。

『The Leadership Within  Learning Enough About Yourself to Lead Others』という本の第1章の冒頭に吉川英治の文章の引用があるが、その出典は?

というものです。

この本は2005年に出版された管理職・ビジネスリーダーに向けてリーダーシップとは何かを教える本なのだそうです。

問題の引用文は

One's self is at the base of everything.Every action is a manifestation of the self.A person who doesn't know himself can do nothing for others.

というものです。

1981年に英訳が出たものなのはわかっている、と質問者の方がおっしゃるので、該当するのが『宮本武蔵』であることはすぐにわかりました。

調べてみると、日本語版では、二天の巻の「大事」という章に該当部分があることがわかりました。
現行の吉川英治歴史時代文庫版では第7巻に含まれます。

盗賊・奈良井の大蔵の手下となって、将軍秀忠暗殺の片棒を担ごうとしている城太郎に対して、沢庵が語る言葉で、

自己が基礎(もと)ではないか。いかなる業(わざ)も自己の発顕(ほつげん)じゃ。自己すら考えぬなどという人間が、他のために何ができる。

という文章です。

何というか、英文の方はなんとなく明解すぎて、含蓄に欠けますな。

ちなみに、お問い合わせと時を同じくして、講談社インターナショナルから吉川作品の新たな翻訳本が送られてきました。

『宮本武蔵』のロシア語版とフランス語の新装版、それと『新書太閤記』のルーマニア語版です。

フランス語版については、以前こんなことを書きましたが、今回の新装版は上下巻に分かれていたものを合併したもので、ついに総タイトルとして『MUSASHI』と表記されるようになりました。

とうとう折れたかフランス人(笑)

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2007年12月 7日 (金)

講師

昨日、八王子市生涯学習センター川口分館で行われた市民自由講座で、「吉川英治 人と作品」というタイトルで講師をしてきました。
来館した団体客の方々に簡単な解説をすることは日常的に行っていますが、2時間もの時間を使って行う講座の講師というのは、初めての経験でした。

まず、どういう方がいらっしゃるのかわかりません。
吉川作品なら読破している、それも何度も読み返している、という方なのか、名前は知っているけど、作品は読んだことがない、という方なのか。
それによって準備していく資料の精度をどのレベルにするかが決まってきますが、それがよくわかりません。
興味の置き所も違うと思いますが、それも見えません。

そもそも、2時間をどう使っていいのかわかりません。
どのくらいの内容のことを話せば2時間になるのか、1時間半ぐらいで話はやめて質疑応答にするべきなのか、話の合い間にこちらから問いかけをしてみたりするべきなのか。

タイトルそのままに吉川英治の人生を生い立ちから順番に話して、その人生と作品の間にどのような関係性が見られるのか、というような話をすることにして、それを原稿を書いてみました。
そして、リハーサルとして、それを声に出して読んでみたところ、作家になる直前までで2時間になってしまいました。

それで、実際の講座も、吉川英治の前半生と作品の関係、というテーマにして話をしてみました。

結局ノンストップで2時間話しっぱなしで、大正14年に初めて「吉川英治」のペンネームを使用した、というところまで話して終了しました。

途中、一本調子で話し続けたせいか、「あ、アクビしてる」とか、「ヤバイ、寝てるよ」とか思いながら、しかし、目の醒めるような面白い話もできず、興味を持ってもらえたのか、退屈したのかもよくわからないまま、終ってしまいました。

ちなみに、館のPRをかねて館報『草思堂だより』を持って行って皆さんに配り、話のつかみとして

もし私の話がつまらなかったら、この館報でも読んでいてください

とやったら、その場では受けたのですが、最後の質疑応答で唯一なされた質問が、

いただいた『草思堂だより』に安岡正篤の名がありますが、吉川英治と知り合いだったのですか

というものだったのには、苦笑してしまいました。

まだまだ未熟だな。

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2007年12月 1日 (土)

海野十三と佐野昌一

休暇と出張が連続したためしばらく館を不在にしていました。

その間に届いた郵便物をチェックしていたら、その中に徳島県立文学書道館の特別展のチラシがありました。

「生誕110年記念 日本SFの父 海野十三展」

開館6年目でようやくか、という感じがします。
徳島ゆかりの文学者として、もっと早い段階で企画展に取り上げられて良かったはずの人物だと、私は思うのですが、まあ、≪生誕110年≫という区切りを待ったのかもしれません。

ところで、2000年5月17日に海野十三の≪歿後五十年追悼特別出版≫と銘打って『海野十三メモリアル・ブック』という冊子が出版されました(発行:海野十三の会 発売:先鋭疾風社)。

そこに掲載された「科学小説の未来」という単行本未収録随筆は、初出誌が『衆文』昭和9年3月号で、当館から資料を提供したものです。

細かいやりとりは忘れましたが、この本の監修者の方から問い合わせがあり、その求めに応じてコピーを差し上げたものです。

その時、問い合わせを受けて色々と調べてみたところ、面白いことがわかりました。

『衆文』には、上記の他に

「探偵小説管見」(昭和8年11月号)
「僕の書きたい題材と人物 科学的犯罪」(昭和9年6月号)
「ハガキ回答 少年時代に愛読した小説とその感想」(昭和9年10月号)

という文章が見つかります。
これは、『衆文』が大衆文学の評論雑誌であったことを考えれば、何の不思議もないことです。

しかし、実は、やはり吉川英治が主宰した雑誌『青年太陽』にも、文章が掲載されていました。

ただし、こちらは≪海野十三≫名義ではなく、本名の≪佐野昌一≫名義でのものです。
肩書きは≪工学士≫となっており、その内容は科学的知識を紹介する軽いエッセイです。

『青年太陽』が地方農村の青年たちを精神的、文化的に教化しようという意図をもった雑誌であることを考えると、彼らのために科学的知識を平易に解説しようとしたものでしょう。
事実、創刊号の「僕は低気圧である」と題した文章には≪気象知識は現代青年の常識だ≫、翌2月号では≪科学は現代人の常識だ≫という角書きがあります。

昭和10年1月の創刊号から同年11月号まで、メインタイトルを少しずつ変えながら(科学講座→青年科学講座→ユーモア青年科学読本→ユーモア科学読本)、断続的に連載されています。

ざっと内容を紹介すると、

「僕は低気圧である」(昭和10年1月創刊号)
「国際電話の話/氷の秘密」(昭和10年2月号)
「紫外線の話/赤外線の話」(昭和10年4月号)
「飛行機はなぜ飛ぶ/煙突はなぜ高い/ダイヤモンドを大きくする法?」(昭和10年5月号)
「インチキ避雷針/時計とポマード/エレベーター病」(昭和10年7月号)
「ドライアイスの立腹/ソーダ水の失敗/裏切る簾」(昭和10年8月号)
「追駈けてくる人魂/硫黄泉の意地悪/火傷の不思議」(昭和10年11月号)

ちなみに、連載がない号のうち昭和10年9月号・10月号・12月号には川端勇男による「青年科学新聞」が掲載されており、創刊から1年間は科学エッセイの枠が維持されていたことがうかがえます。

しかし、この雑誌、創刊から1年間はおよそ200ページあったものが、昭和11年1月号以降は70~80ページに縮小されてしまいます。
その結果、誌面からはこうした科学エッセイが消え、精神論的な文章ばかりが残ることになります。

なお、佐野昌一の文章は科学エッセイではないものがもうひとつ掲載されています。

「清涼読本 整理シーズン」(昭和11年8月号)

がそれです。
≪逓信省電気試験所 工学士≫の肩書きで書いている文章です。

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