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2007年12月 1日 (土)

海野十三と佐野昌一

休暇と出張が連続したためしばらく館を不在にしていました。

その間に届いた郵便物をチェックしていたら、その中に徳島県立文学書道館の特別展のチラシがありました。

「生誕110年記念 日本SFの父 海野十三展」

開館6年目でようやくか、という感じがします。
徳島ゆかりの文学者として、もっと早い段階で企画展に取り上げられて良かったはずの人物だと、私は思うのですが、まあ、≪生誕110年≫という区切りを待ったのかもしれません。

ところで、2000年5月17日に海野十三の≪歿後五十年追悼特別出版≫と銘打って『海野十三メモリアル・ブック』という冊子が出版されました(発行:海野十三の会 発売:先鋭疾風社)。

そこに掲載された「科学小説の未来」という単行本未収録随筆は、初出誌が『衆文』昭和9年3月号で、当館から資料を提供したものです。

細かいやりとりは忘れましたが、この本の監修者の方から問い合わせがあり、その求めに応じてコピーを差し上げたものです。

その時、問い合わせを受けて色々と調べてみたところ、面白いことがわかりました。

『衆文』には、上記の他に

「探偵小説管見」(昭和8年11月号)
「僕の書きたい題材と人物 科学的犯罪」(昭和9年6月号)
「ハガキ回答 少年時代に愛読した小説とその感想」(昭和9年10月号)

という文章が見つかります。
これは、『衆文』が大衆文学の評論雑誌であったことを考えれば、何の不思議もないことです。

しかし、実は、やはり吉川英治が主宰した雑誌『青年太陽』にも、文章が掲載されていました。

ただし、こちらは≪海野十三≫名義ではなく、本名の≪佐野昌一≫名義でのものです。
肩書きは≪工学士≫となっており、その内容は科学的知識を紹介する軽いエッセイです。

『青年太陽』が地方農村の青年たちを精神的、文化的に教化しようという意図をもった雑誌であることを考えると、彼らのために科学的知識を平易に解説しようとしたものでしょう。
事実、創刊号の「僕は低気圧である」と題した文章には≪気象知識は現代青年の常識だ≫、翌2月号では≪科学は現代人の常識だ≫という角書きがあります。

昭和10年1月の創刊号から同年11月号まで、メインタイトルを少しずつ変えながら(科学講座→青年科学講座→ユーモア青年科学読本→ユーモア科学読本)、断続的に連載されています。

ざっと内容を紹介すると、

「僕は低気圧である」(昭和10年1月創刊号)
「国際電話の話/氷の秘密」(昭和10年2月号)
「紫外線の話/赤外線の話」(昭和10年4月号)
「飛行機はなぜ飛ぶ/煙突はなぜ高い/ダイヤモンドを大きくする法?」(昭和10年5月号)
「インチキ避雷針/時計とポマード/エレベーター病」(昭和10年7月号)
「ドライアイスの立腹/ソーダ水の失敗/裏切る簾」(昭和10年8月号)
「追駈けてくる人魂/硫黄泉の意地悪/火傷の不思議」(昭和10年11月号)

ちなみに、連載がない号のうち昭和10年9月号・10月号・12月号には川端勇男による「青年科学新聞」が掲載されており、創刊から1年間は科学エッセイの枠が維持されていたことがうかがえます。

しかし、この雑誌、創刊から1年間はおよそ200ページあったものが、昭和11年1月号以降は70~80ページに縮小されてしまいます。
その結果、誌面からはこうした科学エッセイが消え、精神論的な文章ばかりが残ることになります。

なお、佐野昌一の文章は科学エッセイではないものがもうひとつ掲載されています。

「清涼読本 整理シーズン」(昭和11年8月号)

がそれです。
≪逓信省電気試験所 工学士≫の肩書きで書いている文章です。

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