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2008年1月31日 (木)

伊藤整

昨日触れた講談社の雑誌『日本』にまつわる面白い話が、「終戦後文壇見聞記」(大久保房男 紅書房 2006年)の中で紹介されています。

昭和33年1月号をもって創刊された『日本』ですが、その創刊号から吉川英治は「新・水滸伝」を連載します。

その同じ創刊号にエッセイを寄稿していたのが伊藤整。
これは連載エッセイの予定だったのですが、創刊号を見た伊藤整が「連載をやめる」と言い出したため、当時講談社社員だった著者が、連載継続の説得に向かいます。

そこで、伊藤整が著者に述べた連載をやめる理由というのが、吉川英治の連載が9ポイント3段組なのに、自分の連載が8ポイント4段組なのは気に入らない、ということでした。

ワープロソフトでも用いる言葉ですから、出版に詳しくなくてもご存知でしょうが、ポイントというのは文字(当時ですから“活字”)の大きさで、数が大きいほど文字も大きくなります。
段組は、もちろんページ内に文字を何段に組むかということで、段数が多いほど、文字がぎっしり詰まった感じになります。

大きな文字でゆとりを持って掲載する方が≪格上≫で、小さい文字でギッチリ詰め込む方が≪格下≫という意識が当時はあり(そういう印象は今でも持つでしょうが)、それに照らして、伊藤整は、俺を吉川英治より格下扱いするとはけしからん、となったわけです。

しかし、格下扱いは我慢ならないといっても、吉川英治と伊藤整では吉川英治の方が13歳年上(明治25年と明治38年)です。
また、伊藤整が郷里の北海道で処女詩集「雪明りの路」を自費出版するのは大正15年で、吉川英治はその時、既に専業の作家として連載を複数抱えていました。
つまり、人としても作家としても吉川英治の方が先輩です。

また、著者が、吉川英治のものは小説で、こちらはエッセイだから、と言っても、伊藤整は聞き入れなかったそうです。

とどのつまりどういうことかと言えば、

芥川龍之介が「中央公論」に対して、読み物作家の村松梢風と目次に並ぶのは厭だと言ったように、大衆作家より自分を優遇せよとは言わないけれど、純文学作家として大衆作家の風下に立つようなことはしたくない、と伊藤さんは私に言った。(P99)

人としても、作家としても先輩だけど、アイツは大衆作家じゃないか、俺は純文学作家なんだぞ、ってことです。

ははぁ、純文学作家ってエライんですね(笑)

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2008年1月30日 (水)

ピンチヒッター

杉本健吉による吉川英治作品の挿絵と言えば、「新・平家物語」の他に「私本太平記」も有名ですが、実は、「私本太平記」も、「新・平家物語」同様、途中から挿絵を担当することになった作品なのです。

「私本太平記」は『毎日新聞』に連載(昭和33年1月18日~36年10月13日)されましたが、その当時担当編集者だった松本昭が「吉川英治 人と作品」の中で、その様子に詳しく触れています。

当初、挿絵を担当していたのは菅楯彦。
菅楯彦はかつて谷崎潤一郎の「聞書抄」の挿絵を担当したことがあり、その挿絵の印象から、「私本太平記」の挿絵を依頼した。
しかし、「聞書抄」は昭和10年の作品で、昭和30年代の菅楯彦は、年月を経て画風が変化していた。

昔の画風をイメージしていた吉川英治としては、どうしてもそれが気に入らない。

吉川英治は、朝、毎日新聞を手にとると、「私本太平記」が掲載された面を確認し、じりじりしながら午前8時になるのを待ち、8時になった途端に、毎日新聞の当時の学芸部長・高原四郎に、「今日の挿絵も作品のイメージに合わない」という苦情の電話をかける。

それが毎日続くので、とうとう挿絵画家の交代が決まり、連載第34回から登板したのが杉本健吉であった。

それ以後、高原四郎への苦情の電話はなくなり、高原は「最初から杉本さんにしておけばよかった」とぼやいたといいます。
と言っても、毎日新聞としては、長年『週刊朝日』の「新・平家物語」を担当していた杉本健吉をそのまま起用するのは避けたかったはず。
印象がダブりますから。

しかし、結局はそこに落ち着いた、という話。

ちなみに、同じ年に講談社が創刊した雑誌『日本』に連載が始まった「新・水滸伝」は、初めから杉本健吉を挿絵に起用していました。

ところが、こちらは、吉川英治の体調悪化のため昭和36年12月号で連載が中断。
そのまま、吉川英治は帰らぬ人となったため、中断したまま絶筆となってしまいました。

つまり、杉本健吉は、吉川英治作品について、連載の最初から最後まで全て完全に担当したことがないのです。

不思議な縁と言えるでしょう。

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2008年1月27日 (日)

前田青邨

今日は前田青邨の誕生日だそうです(明治18年)。

現在、吉川英治の「新・平家物語」の挿絵といえば、杉本健吉ということになっていますが、実は連載開始当初は違っていました。

『週刊朝日』に「新・平家物語」の連載が決まった時、実は、吉川英治の希望もあって、前田青邨に連載挿絵を依頼していたのです。

しかし、週刊誌連載にカットと挿絵2、3枚も描くのでは、これにかかりきりになってしまうし、体力的にもキツイから、というので、前田青邨はこの依頼を固辞します。
そこで妥協案として、前田青邨の弟子である守屋多々志が挿絵を担当し、前田青邨はタイトルカットのみを描く、ということになりました。
吉川英治も、前田青邨が監修しながらであるならば、として、これを受け入れます。

かくして、「新・平家物語」は、カット=前田青邨、挿絵=守屋多々志という体制で連載を開始します。

ところが、守屋多々志の挿絵が、どうしても吉川英治の意識にしっくり来ない。
再三再四、注文をつけるものの、どうしても吉川英治にとって納得できるものにならない。

そこで仕方なく、連載途中で挿絵画家を交代させることになり、新しく採用されたのが、杉本健吉だったのです。

そのため、連載第36回までは守屋多々志の挿絵、37回以降は杉本健吉の挿絵というふうになっています。

そんなわけで、後に「画帖 新・平家」という挿絵画集を出した時には、その守屋多々志の担当した部分について、杉本健吉が描き直しています。

ちょっと微妙な感じではありますが、吉川英治と前田青邨には、こういう関わりもありました。

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2008年1月25日 (金)

写真展開催

本日から富士フイルムフォトサロンで「第10回吉川英治記念館写真コンテスト入賞作品展」が開催されています。
1月31日までの1週間です。

富士のフォトサロンは、前回までは有楽町の首都高速の高架下にある銀座ファイブの中にありましたが、昨年、六本木の防衛庁跡地に出来た東京ミッドタウンに移転し、今回はそこが会場になります。

六本木と言えば、昔は都バスと地下鉄日比谷線ぐらいしかアクセスがなく、繁華街なのに陸の孤島(ご存じないと思いますが『六本木島』なんて曲があったくらいで)という場所でしたが、今は都営大江戸線、少し離れますが東京メトロ南北線も利用できるようになり、随分出かけやすい場所になりました。

東京の新名所(笑)を見物がてら、ぜひお運び下さい。

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2008年1月22日 (火)

椋鳩十

今日は椋鳩十の誕生日だそうです(明治38年)。

椋鳩十が、吉川英治全集の月報に寄稿した「叱られた話など」という文章があります。

昭和8年に『山窩調』という短編集を自費出版し、それを色々な人のところに送りつけた。
送りつけられた相手からは返事は届いたものの、印刷したものに署名だけ自筆という、形だけの返事だった。
そんな中にあって、吉川英治の返事は巻紙に毛筆で書いた分厚い手紙で、そこには「今度弟に出版社をやらせようと思っているが、その処女出版に君の作品集を出したい」ということが書かれていた。
結局、諸事情から作品集は別の出版社から出ることになったが、出た途端に発禁処分を受けてしまった。
その発禁の通知を受け取った時、「もし吉川先生の弟さんの出版社から出して発禁になっていたら、吉川先生に多大なご迷惑をおかけしたに違いない」と思い、「ああよかった」と思った。

そんな話です。

この時の椋鳩十の書簡が、当館の資料の中にあります。

最初に本を送った時の添え状が、昭和8年6月5日付。
吉川英治からの手紙を受け取って、それに対して送った礼状が、昭和8年6月17日付。
その間12日。

ということは、椋鳩十から本を送られた吉川英治は、またどこぞの文学青年が送って寄こしたのか、と放置したりせず、届いてからあまり日をおかずに本を手に取り、目を通して、返事を書いたということになります。
もちろん、この時の椋鳩十は教師のかたわら創作している無名の若者であって、既に名を成していたわけではないにもかかわらずです。

調べてみると、この昭和8年6月というのは、「燃える富士」(『日の出』昭和7年8月号~8年12月号)、「お千代傘」(『婦人公論』昭和7年9月号~8年12月号)という2本の月刊連載があるだけで、読み切り短編の執筆もなく、吉川英治にしては仕事量が少ない月だったようです。
その分余裕があったことは確かでしょう。

タイミングが良かったのは、椋鳩十の運というものでしょうが、吉川英治の対応も、なかなかできるものではありません。

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2008年1月19日 (土)

青梅草

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ここしばらく寒い日が続いていますね。

マイナス何十度というようなレベルではないものの、ご覧の通り、つくばいの水も凍ってしまいました。

ちなみに、このつくばいは吉川英治の熱海の別荘にあったものを移設したものだそうです。

Img_0646
そんな中、今年もオウメソウが咲き始めました。

今のところまだ数は多くありませんが、徐々に花開いていくでしょう。

ぜひ一度ご覧下さい。

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2008年1月18日 (金)

半焼

ともに作家の藤田宣永・小池真理子夫妻の自宅が火災で半焼したそうですね。

実は吉川英治の自宅も半焼したことがある、という話は以前少し触れました。

火災が起ったのは昭和16年3月。
当時、吉川英治は赤坂区表町〈現港区赤坂〉の旧江木翼邸に住んでいました。
この家の正門側には、道路を挟んで向かいに高橋是清邸があり、その反対側には、敷地を接して料亭・常盤園がありました。

火災はこの料亭で発生し、吉川英治の自宅は、それに類焼して半焼したのでした。

もっとも、この旧江木翼邸というのは、実に広大な屋敷で、半焼しても十分に大きな家でした。
何しろ、半焼した焼け跡に家が2軒建てられたくらいですから。

ちなみに、その2軒の家の一方には、吉川英治と親しかった安藤徳器が住み、もう一方には安藤の陸士時代の後輩である憲兵将校が住んでいたそうです。

そんなわけで、火災以後は焼け残った部分のみで生活していました。
くどいようですが、それが可能なほどの大邸宅だったわけです。

この火災の直後、吉川英治は仕事に必要なものを抱えて、一時的に近くの旅館に避難します。

親交のあった茶人・堀越梅子〈宗円〉に対してその旅館から送った書簡が残っています。

そこには火事見舞いに来てくれたことへの礼とともに、次の3句が記されています。

明るさや母屋の焼けて薮の梅
焼あとの梅は近所に見られけり
罹火一虚たゞ白々と梅の夜

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2008年1月17日 (木)

初雪

朝、家の外を見たら、ほんの少し雪が積もっていました。
この冬の初雪です。

初雪といえば、

初雪やニの字二の字の下駄のあと

という有名な句があります。

この句をめぐる思い出話を当館館長で長男の吉川英明が講談社文庫の「吉川英治の世界」の中に書いています。

小学生の頃、ちょうど戦後の断筆中だった父・英治が、お前たちも少し俳句を勉強しろ、と言って俳句の手ほどきをしてくれた。
最初に作った数句をほめられたことに調子づき、弟と2人で俳句を作っては英治に見せていたことがあった。

初雪が降ったある日、学校で先生が黒板に上記の句を書いた。
てっきり先生の自作の句だと勘違いした英明は、そんなものを英治が知っているわけはないと思い、学校から帰ると、また一句できたと言って、英治の前でこの句を口にした。

それを聞いた英治は、「まことに変な顔」をして、「むー」とうなってしばらく黙っていたが、それは昔の人が作った句で、たまたま似てしまったのだろうが、そうならないようによく勉強しないといけない、と静かに英明を諭した。

そんな話です。

吉川英明は、その「まことに変な顔」のことを、

息子の“盗み”を見つけた時の父親の顔だった。

と書いています。

ちなみに、英治の方は、これとは逆に、自作の俳句を先生から盗作と決めつけられて泣いてしまった話というのがあって、以前ご紹介したことがあります。

不思議な対比ですね。

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2008年1月14日 (月)

二十歳

今日は成人の日です。

日本では成人とは20歳ですが、さて、20歳当時の吉川英治というのはどういう様子だったのでしょうか。

明治25年(1892)生れの吉川英治にとって、満20歳の年というのは明治45年(1912)になります。
7月に明治天皇が崩御、大正天皇が即位し、大正元年となる年です。

明治43年12月30日に横浜から東京に出てきた吉川英治にとっては、実質的に東京生活2年目の年になります。

この年の大きな出来事としては、英治以外の家族が横浜を引き払って皆で東京に出てきたことが挙げられるでしょう。
といっても、この時の英治は会津蒔絵師の徒弟となって、その家に住み込んでいたので、家族全員が同じ家に同居するようになったわけではありませんでしたが。

もうひとつ、当時のことなので、20歳に達したことで徴兵検査がありました。

徴兵検査は浅草区役所でうけた。一家の戸籍もそのとき東京へ持ってきた。検査日の当日、徴兵司令官というか、さいごの認定をうける所へ来たら、いかめしき人が、つらつらぼくの裸身と検査表とを見くらべて、
「今日の有為な青年が、そんな弱さで君どうするんか。体重といい身長といい、なんたるヘッポコか。しっかり鍛えい」
と、大勢の中で、ぼくを見本において、一場のお説教を垂れた。体重十二貫、丙種であった。

「忘れ残りの記」に、こう書いています。

徴兵検査では甲種・乙種が合格で、丙種は身体的な欠陥ありとして現役に適さないと判断されたということになります。

明治6年に制定された徴兵令では、身長が5尺1寸(約155cm)に満たない者は欠格とされたようなので、吉川英治の身長はそれ以下、150cmくらいだったのでしょう。
十二貫は45kg。

吉川英治は小柄であったとは聞いていますが、こうして数値で見ると、本当に小柄だったことが実感できます。

この徴兵検査の年には北清事変、2年後には第一次世界大戦が勃発、6年後にはシベリア出兵もあるなど、軍隊が活発に動いていた時代でありながら、吉川英治は軍隊経験はないまま、20代を過ごすということになるわけです。

小柄が幸いしたと言えるでしょう。
本人がそれを幸いと考えていたかはわかりませんが。

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2008年1月12日 (土)

武蔵の刀

昨日、宮本武蔵の刀がどのようなものだったか知りたいというお問い合わせの電話がありました。

私にとっての宮本武蔵は、吉川英治が作品に書いた人物というレベルであって、通り一遍なことしか知りませんので(いや、そんなことではいかんのですが)、≪武蔵の刀≫というようなことになってくると、お手上げです。

恥ずかしながらそういう次第で、と正直に申上げて、他をあたっていただくようにお願いしました。

電話を切った後、でも、一応はこの随筆のことをお教えした方が良かっただろうかと、ちょっと後悔しました。

吉川英治の「随筆宮本武蔵」の中に、実は武蔵の刀について書いた『佩刀考』という文章があるのです。

吉川英治がそこに名を挙げている刀にはこういうものがあります。

・武蔵正宗

岩倉家所蔵で、重要美術品。
武蔵が愛用した刀というので、この通称があるそうだと吉川英治は書いていますが、異説もあるようです。
吉川英治は徳川吉宗が諸国の名刀を集めた際のひとつとしていますが、徳川家から岩倉家に渡った経緯については「維新の頃か明治になってから後か、新聞の記事で知ってふとそんなことを考えてみたりした」と書いています。

今ちょっとネット検索した限りでは、明治15年に徳川家達が、江戸城無血開城における功績から山岡鉄舟に「武蔵正宗」を下賜したが、鉄舟が自らには過分として岩倉具視に贈ったのだそうです。

吉川英治がこの随筆を書いたのは昭和14年なのですが、その頃には知られていない事実だったのでしょうか?

・伯耆安綱

・兼重

この二つは「八代聞書」に記載があるものとしています。
このうち兼重は長岡佐渡に形見分けされたものなのだそうです。

・国宗

武蔵から春山に形見分けした刀、と吉川英治は書いていますが、根拠は書かれていません。

この他、熊本の島田家所蔵の刀とか、武蔵顕彰会の「宮本武蔵」に掲載されている吉岡伝七郎(実際には顕彰会本では又七郎となっているが)を斬った刀にも触れています。

それぞれの刀が本当に武蔵のものだったのかどうかは、私にはわかりません。

ただ、吉川英治も触れているように、宮本武蔵は「独行道」に

兵具は格別、余の道具たしなまず

と書いていますから、他のものはともかく刀へはこだわったと思われます。

経済状態や身分によって持ち得る刀には制限はあるのかもしれませんが、中には名のある刀もあって不思議はない、という気はします。

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2008年1月11日 (金)

基本図書

昨日、コメント欄に、吉川英治が「我以外皆我師」という言葉を残した経緯や考え方を学びたいという書き込みがありました。

それには吉川英治の人生観を知っていただくのが一番です。
そこで、コメント欄には、そのために必要な基本図書を数冊、とりあえず名前を挙げておきましたが、せっかくなのでこの機会にもう少し詳しくご紹介しておこうと思います。

「忘れ残りの記」

何度もこのブログで取り上げている吉川英治の自叙伝です。
吉川英治の考え方の背後にある人生経験を知る、もっとも基本的なものです。
ただし、大正10年に母親が亡くなるまでのことしか書かれていませんので、人生全体を見ることは出来ません。
30歳までの≪青春記≫というべきものです。

現在でも吉川英治歴史時代文庫の第77巻として講談社から刊行されています。

「伝記吉川英治」(尾崎秀樹 昭和45年 講談社)

著者は、先年亡くなられた大衆文学研究の開拓者です。
吉川英治の最初の本格的伝記で、当時まだ存命だった多くの関係者から聞き取った様々なことが記録されています。
ただ、序章を除いて14章あるうちの12章までが昭和20年以前の戦前の記述に費やされており、戦後についてはやや手薄な感じを受けます。

なお、著者には「吉川英治 人と文学」(昭和56年 新有堂)という作品論集もあります。

「人間吉川英治」(松本昭)

著者は吉川英治が毎日新聞紙上に「私本太平記」を連載していた当時の担当編集者。
これも吉川英治の伝記ですが、「伝記吉川英治」が紙幅を割いた少年時代は、重複を避けるように簡略に描き、逆に戦後については自身の直接的な経験を踏まえて丁寧に描いています。
その意味では、この2冊は補完的なものですので、両方読むことをお薦めします。

元々は「吉川英治 人と作品」というタイトルで昭和59年に刊行されたものを改題したもの。
何度か刊行されており、平成12年に学陽書房から出たものが最新のはずです。
おそらくまだ購入できると思います。

「父吉川英治」(吉川英明)

著者は吉川英治の長男で、当館館長。
家族から見た吉川英治の姿を描いたものですが、著者本人の年齢的な制限もあり、主に吉野村時代(現在記念館のある青梅に住んでいた時代)以降の戦後のことが中心になっています。

これも何度か刊行されていますが、平成15年に学研から出たものが最新になります。
また、講談社のオンデマンド出版のラインアップにも入っています。
購入可能です。

著者にはこの他、やはり家族から見た吉川英治像を描いた「吉川英治の世界」(昭和59年 講談社文庫)や、吉川英治の名言を集めた「いのち楽しみ給え 吉川英治人生の言葉」(平成14年 講談社)もあります。

「吉川英治 下駄の鳴る音」(大野風太郎 平成9年 葉文館出版)

著者は川柳家。
吉川英治は青年時代に川柳家・雉子郎として活躍しましたが、その時代に交流をもった川柳の仲間たちとの関わりが詳しく記述された評伝です。

「新潮日本文学アルバム29 吉川英治」(昭和60年 新潮社)

吉川英治の文学アルバムは講談社からも昭和48年に出ていますが、こちらの方がコンパクトで、参照しやすいと思います。

このあたりの書籍をお読みいただくと、吉川英治の人生の流れが理解でき、おのずと「我以外皆我師」という言葉を座右の銘とした意味が見えてくると思います。

ご一読下さい。

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2008年1月10日 (木)

小田原散歩―おまけ

家族で宿泊した宿のある場所から小田原まで鉄道で移動する途中、JR東海道線の根府川駅を通りました。

家族がいたので降りませんでしたが、この根府川駅の近くに根府川の関所跡があるそうです。

先日触れた中野敬次郎の調査では、吉川家の先祖の中には、この根府川の関所番を勤めた人物もいたそうです。

根府川関所で六尺棒を持って案山子みたいに立っていた先祖とぼくとを見くらべたら、おかしくなってしまったのもむりはない。あとでぼくが壇に立つと聴衆はまた笑い直した。けれど笑われたあとは一ぺんに気らくになり、それだけ親しみぶかく話もでき、ひどく愉快な会となって終った。

「忘れ残りの記」に書かれた、小田原での講演会についての述懐です。

これは、この根府川の関所のことではありませんが、吉川英治は『英傑と凡物』という随筆の中で、ある逸話を紹介しています。

「土佐の吉井行二が敵討をした話」と書いていますが、こういう話です。

幕末維新の戊辰戦争の中、小田原藩の小泉彦蔵と山田龍兵衛が土佐の吉井顕蔵を斬るという事件が起きます。

この時、小田原藩は、藩論が佐幕と倒幕の間で二転三転していました。

旧幕臣らによって構成された遊撃隊の伊庭八郎や人見勝太郎らは、江戸を脱出し、箱根の関所を押さえようとしますが、関所を守る小田原藩は当初、遊撃隊を攻撃します。
ところが戦闘中に小田原藩は佐幕に転じ、遊撃隊と和解、遊撃隊を迎え入れます。
しかし、これに対して新政府軍から問罪使が送られると、あっけなく態度を翻し、新政府軍の命に服して遊撃隊を攻撃します。
伊庭八郎は、この小田原藩の態度を「反復再三、怯懦千万、堂々たる十二万石中、また一人の男児なきか」と罵ったと言われます。

吉川英治の父・直広も、このような経緯を持つ小田原藩士であったことを、生涯人に恥じていたと、英治は書いています。

そんな混乱の最中、新政府軍軍監である吉井は斬られました。

正確な史実は調べていませんが、英治の書くところによれば、小田原の入口である光明寺口を偽名を使って押し通ろうとしたため、小泉と山田に斬られたということのようで、吉井にも過失はあると言えるわけですが、結局、斬った二人は罪に問われ、鈴ヶ森の刑場で斬首と決まります。

この時、吉井顕蔵の子・行二が、許されて斬首の太刀取りとなります。
しかし、人の首を斬った経験などない行二は、山田の首をうまく斬ることができず、「西瓜を潰したようにしてしまった」。

それを見ていた小泉彦蔵、自分の番になった時に、吉井行二の顔を振り仰いで、

坊ちゃん、上手にやって下さい

と冗談を言ったのだそうです。

「小田原で少し武士らしい男といえば、この冗談をいった小泉ぐらいより他に誰も残っていない」という一文で、随筆を締めくくっています。

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2008年1月 9日 (水)

小田原散歩―その2

さて、三の丸小学校の横を通り、海の方に向かって歩きます。
この海に近い一帯が寺町になっているようで、複数の寺院が集まっています。

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そんな中のひとつが、真宗大谷派の正恩寺です。
入口の鐘楼門が、特徴的な姿をしています。

門前にある案内板によると、正恩寺は尾張国で創建された後、三河国に移転しています。
そして、天正18年(1590)に大久保忠世が小田原に入った際、その子・忠隣の妻・妙賢院がこの寺を小田原に移し、菩提寺としました。
移転は文禄2年(1593)。
寛永元年(1624)に亡くなった妙賢院の墓所が、本堂の左隣にあります。

この正恩寺が小田原時代の吉川家の菩提寺で、過去帳および墓石が残っています。

尾崎秀樹の調査によれば、過去帳には延享5年(1748)に没した吉川銀右衛門から始まって、明治15年に没した吉川英治の異母姉・文までの7代13人の名が確認できます。
当主の名でたどると

銀右衛門→銀右衛門→銀右衛門→勇助→銀兵衛→直広

と続くことになります。

昨日触れたように、吉川英治が父・直広から聞いた吉川家の先祖の話では、関ヶ原の合戦の頃に大久保家に身を寄せたことになっていますが、過去帳が延享5年までしかさかのぼれないことから、尾崎は大久保家が一時改易された後、大久保忠朝の代に改めて佐倉から移封されてきた時にこれに従って小田原に来て、定着したものだろうと推測しています。

墓石の方は、直広が小田原から横浜に移ったことで無縁墓となっていたものを、後年、寺の人や郷土史家たちが見つけ出し、改めて据え直したもの。

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「伝記吉川英治」の中で尾崎は、墓石は2基と書いていますが、訪ねてみると、そこには3基の墓石がありました。
1基は後に見つかったものなのでしょう。

右の墓石には正面右に≪常閑信士≫、左に≪妙顔信女≫とあり、右側面には≪吉川氏/享和元酉歳八月廿八日≫、左側面には≪寛政二庚戌十二月十七日≫とあります。
これは3代目銀右衛門とその妻の墓になります。
なお、「伝記吉川英治」では、妻の戒名は≪妙願≫となっていますが、墓石では≪妙顔≫に見えます。
また、3代目銀右衛門の命日を≪八月二十九日≫にしていますが、私には上記のように読めました。
私の見間違いかもしれませんが、あるいは過去帳と墓石で齟齬があるのかもしれません。

左の墓石には、正面右に≪惠光信士≫、左に≪妙宣信女≫とあり、右側面には≪文政四巳年七月十七日/吉川勇助之墓≫、左側面には≪安政六未年/三月二十八日≫とあります。
こちらは勇助夫妻の墓です。

「伝記吉川英治」に言及のない中央の小さな墓石には≪秋月≫の文字が見えます。
過去帳によれば、これは3代目銀右衛門の子の墓ということになるようです。
戒名の左右にかすかに見える文字は≪寛政十一年/八月十四日≫であるようです。

3基とも、周囲の墓石に比べて、非常に小さいもので、小田原藩士としての吉川家の立場がうかがえます。

この墓に参った吉川英治は次のような短歌を残しています。

各々も足軽共かそれがしの祖先も交る足軽の墓
足軽の墓群れ小さく彼方には大殿様の墓奥方の墓
無縁ぼとけあはれ起すな幾世かも雨露の眠りの安けらしきを
小田原やここ父祖の地とみるからに松のすがたもたれやらに似る

最後の歌の通り、小田原には、特にこの寺町のあたりには、立派な松の木が何本も見られました。

吉川英治も同じ松を眺めたのではないかと思うと、感慨深いものがありました。

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2008年1月 8日 (火)

小田原散歩―その1

昨年末に家族旅行で近くまで行ったので、神奈川県小田原市を少し歩いてみました。

実は、吉川英治の父・直広は小田原の出身なのです。
と言うよりも、直広の代まで少なくとも6代にわたって、吉川家は小田原に住んでいました。

吉川英治自身にとってはともかくとして、小田原は吉川家にとってのゆかりの地なのです。

まずはJR小田原駅から程近い小田原城に行ってみます。

小田原城と言えば、戦国時代の北条氏の居城として有名ですが、豊臣秀吉の小田原征伐の後、北条氏の旧領を得た徳川家康が家臣の大久保忠世をこの城に入れています。

江戸時代、小田原藩となった後、忠世の息子・大久保忠隣の時に大久保長安事件のため改易となり、以後は阿部家、稲葉家が藩主となります。
しかし、貞享3年(1686)に忠世・忠隣の子孫である大久保忠朝が藩主となり、以後幕末まで大久保家が藩主を務めます。

ちなみに、大久保忠朝が小田原藩に移封になる前の任地は千葉の佐倉藩でした。
吉川英治の母・いくの実家・山上家は幕末まで佐倉藩主であった堀田家の家臣であり、直接のつながりは無いにしても、ちょっとした縁を感じなくもありません。

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なお、写真の天守閣は、昭和35年(1960)に再建されたもので、宝永3年(1706)に修築され幕末まで存続した天守を模したものだそうです。

この小田原藩大久保家に仕えたのが、吉川家でした。

自叙伝「忘れ残りの記」によると、吉川家の先祖について、英治は父親からこう聞いていたそうです。

吉川は橘香(きっこう)という地方名が起りで、何でも富士の裾野にそんな所があったという。戦国の吉川元春もその他の吉川もここから分れたものであり、自分の家も、関ヶ原役の前後、敵方から大久保藩を頼って身を寄せた沢山な浪人の一人だった。それらの人間は、外者といわれて下士待遇以上には出られなかった。

下士待遇というのが、どの程度のものなのか、父親からは具体的には教えられていなかったようですが、作家となった後、小田原の人たちに招かれて講演会を行った際に、地元の郷土史家・中野敬次郎から≪五石十人扶持≫であったと聞かされて、笑ってしまったという話が、「忘れ残りの記」に見えます。

この講演会ですが、中野敬次郎著「小田原近代百年史」によれば、行われたのは昭和16年10月24日。
「吉川英治氏歓迎記念講演会」という名称で、小田原市本町小学校講堂において開催されました。

その時の写真が残っており、そこに写っている式次第を解読すると、「開会の辞 中野敬次郎」「歴史と文学 近藤□□」「支那雑感 安藤徳器」「今日の新聞□□ 永井省三」「挨拶 市長 益田信世」「挨拶 水谷八重子」「ピアノ独奏 井上ヨシ子」「舞踏 吾妻春代 鈴木□子□中 横井□子」「物語 宮本武蔵 守田勘弥」と読めます(□は判読できなかった文字)。
随分盛大な会だったようです。

会場となった本町小学校は、平成4年(1992)に近くの城内小学校と統合され、現在は三の丸小学校となっています。
現在の三の丸小学校は小田原城址の西南に隣接していますが、ここがかつての本町小学校の場所なのかどうかは、調べきれませんでした。

ちなみに、下調べなしで出かけたので、三の丸小学校の前を通りながら、写真は撮り忘れました。
残念。

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2008年1月 6日 (日)

新年

あけましておめでとうございます。

年末年始の休館を終え、本日から営業を開始いたしております。
今年もよろしくお願いいたします。

実は、休館中に、展示室内の壁のクロスの張替え工事を行いました。
長年の汚れで少し黒ずんでいたものが新しくなって、展示室内が明るくなった感じがします。

工事のために、一旦展示中の資料を全て引き上げたので、この機会にと思い、わずかながら展示の構成をいじりました。
大きな変化ではありませんが、少し以前とは違います。

今年は、これを端緒に、少しずつ構成を変えていこうと思います。

マイナーチェンジではありますが、前に来た時とは違う、と思っていただけるようにしたいと考えています。

もちろん、残すべきものは残しながら、新しい発見が出来るように、調整していきたいと思います。

「どうせ前に来た時と同じでしょ?」などと言わずに、ぜひご来館下さい。
お待ちしています。

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