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2008年1月22日 (火)

椋鳩十

今日は椋鳩十の誕生日だそうです(明治38年)。

椋鳩十が、吉川英治全集の月報に寄稿した「叱られた話など」という文章があります。

昭和8年に『山窩調』という短編集を自費出版し、それを色々な人のところに送りつけた。
送りつけられた相手からは返事は届いたものの、印刷したものに署名だけ自筆という、形だけの返事だった。
そんな中にあって、吉川英治の返事は巻紙に毛筆で書いた分厚い手紙で、そこには「今度弟に出版社をやらせようと思っているが、その処女出版に君の作品集を出したい」ということが書かれていた。
結局、諸事情から作品集は別の出版社から出ることになったが、出た途端に発禁処分を受けてしまった。
その発禁の通知を受け取った時、「もし吉川先生の弟さんの出版社から出して発禁になっていたら、吉川先生に多大なご迷惑をおかけしたに違いない」と思い、「ああよかった」と思った。

そんな話です。

この時の椋鳩十の書簡が、当館の資料の中にあります。

最初に本を送った時の添え状が、昭和8年6月5日付。
吉川英治からの手紙を受け取って、それに対して送った礼状が、昭和8年6月17日付。
その間12日。

ということは、椋鳩十から本を送られた吉川英治は、またどこぞの文学青年が送って寄こしたのか、と放置したりせず、届いてからあまり日をおかずに本を手に取り、目を通して、返事を書いたということになります。
もちろん、この時の椋鳩十は教師のかたわら創作している無名の若者であって、既に名を成していたわけではないにもかかわらずです。

調べてみると、この昭和8年6月というのは、「燃える富士」(『日の出』昭和7年8月号~8年12月号)、「お千代傘」(『婦人公論』昭和7年9月号~8年12月号)という2本の月刊連載があるだけで、読み切り短編の執筆もなく、吉川英治にしては仕事量が少ない月だったようです。
その分余裕があったことは確かでしょう。

タイミングが良かったのは、椋鳩十の運というものでしょうが、吉川英治の対応も、なかなかできるものではありません。

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