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2008年1月 8日 (火)

小田原散歩―その1

昨年末に家族旅行で近くまで行ったので、神奈川県小田原市を少し歩いてみました。

実は、吉川英治の父・直広は小田原の出身なのです。
と言うよりも、直広の代まで少なくとも6代にわたって、吉川家は小田原に住んでいました。

吉川英治自身にとってはともかくとして、小田原は吉川家にとってのゆかりの地なのです。

まずはJR小田原駅から程近い小田原城に行ってみます。

小田原城と言えば、戦国時代の北条氏の居城として有名ですが、豊臣秀吉の小田原征伐の後、北条氏の旧領を得た徳川家康が家臣の大久保忠世をこの城に入れています。

江戸時代、小田原藩となった後、忠世の息子・大久保忠隣の時に大久保長安事件のため改易となり、以後は阿部家、稲葉家が藩主となります。
しかし、貞享3年(1686)に忠世・忠隣の子孫である大久保忠朝が藩主となり、以後幕末まで大久保家が藩主を務めます。

ちなみに、大久保忠朝が小田原藩に移封になる前の任地は千葉の佐倉藩でした。
吉川英治の母・いくの実家・山上家は幕末まで佐倉藩主であった堀田家の家臣であり、直接のつながりは無いにしても、ちょっとした縁を感じなくもありません。

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なお、写真の天守閣は、昭和35年(1960)に再建されたもので、宝永3年(1706)に修築され幕末まで存続した天守を模したものだそうです。

この小田原藩大久保家に仕えたのが、吉川家でした。

自叙伝「忘れ残りの記」によると、吉川家の先祖について、英治は父親からこう聞いていたそうです。

吉川は橘香(きっこう)という地方名が起りで、何でも富士の裾野にそんな所があったという。戦国の吉川元春もその他の吉川もここから分れたものであり、自分の家も、関ヶ原役の前後、敵方から大久保藩を頼って身を寄せた沢山な浪人の一人だった。それらの人間は、外者といわれて下士待遇以上には出られなかった。

下士待遇というのが、どの程度のものなのか、父親からは具体的には教えられていなかったようですが、作家となった後、小田原の人たちに招かれて講演会を行った際に、地元の郷土史家・中野敬次郎から≪五石十人扶持≫であったと聞かされて、笑ってしまったという話が、「忘れ残りの記」に見えます。

この講演会ですが、中野敬次郎著「小田原近代百年史」によれば、行われたのは昭和16年10月24日。
「吉川英治氏歓迎記念講演会」という名称で、小田原市本町小学校講堂において開催されました。

その時の写真が残っており、そこに写っている式次第を解読すると、「開会の辞 中野敬次郎」「歴史と文学 近藤□□」「支那雑感 安藤徳器」「今日の新聞□□ 永井省三」「挨拶 市長 益田信世」「挨拶 水谷八重子」「ピアノ独奏 井上ヨシ子」「舞踏 吾妻春代 鈴木□子□中 横井□子」「物語 宮本武蔵 守田勘弥」と読めます(□は判読できなかった文字)。
随分盛大な会だったようです。

会場となった本町小学校は、平成4年(1992)に近くの城内小学校と統合され、現在は三の丸小学校となっています。
現在の三の丸小学校は小田原城址の西南に隣接していますが、ここがかつての本町小学校の場所なのかどうかは、調べきれませんでした。

ちなみに、下調べなしで出かけたので、三の丸小学校の前を通りながら、写真は撮り忘れました。
残念。

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