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2008年1月 9日 (水)

小田原散歩―その2

さて、三の丸小学校の横を通り、海の方に向かって歩きます。
この海に近い一帯が寺町になっているようで、複数の寺院が集まっています。

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そんな中のひとつが、真宗大谷派の正恩寺です。
入口の鐘楼門が、特徴的な姿をしています。

門前にある案内板によると、正恩寺は尾張国で創建された後、三河国に移転しています。
そして、天正18年(1590)に大久保忠世が小田原に入った際、その子・忠隣の妻・妙賢院がこの寺を小田原に移し、菩提寺としました。
移転は文禄2年(1593)。
寛永元年(1624)に亡くなった妙賢院の墓所が、本堂の左隣にあります。

この正恩寺が小田原時代の吉川家の菩提寺で、過去帳および墓石が残っています。

尾崎秀樹の調査によれば、過去帳には延享5年(1748)に没した吉川銀右衛門から始まって、明治15年に没した吉川英治の異母姉・文までの7代13人の名が確認できます。
当主の名でたどると

銀右衛門→銀右衛門→銀右衛門→勇助→銀兵衛→直広

と続くことになります。

昨日触れたように、吉川英治が父・直広から聞いた吉川家の先祖の話では、関ヶ原の合戦の頃に大久保家に身を寄せたことになっていますが、過去帳が延享5年までしかさかのぼれないことから、尾崎は大久保家が一時改易された後、大久保忠朝の代に改めて佐倉から移封されてきた時にこれに従って小田原に来て、定着したものだろうと推測しています。

墓石の方は、直広が小田原から横浜に移ったことで無縁墓となっていたものを、後年、寺の人や郷土史家たちが見つけ出し、改めて据え直したもの。

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「伝記吉川英治」の中で尾崎は、墓石は2基と書いていますが、訪ねてみると、そこには3基の墓石がありました。
1基は後に見つかったものなのでしょう。

右の墓石には正面右に≪常閑信士≫、左に≪妙顔信女≫とあり、右側面には≪吉川氏/享和元酉歳八月廿八日≫、左側面には≪寛政二庚戌十二月十七日≫とあります。
これは3代目銀右衛門とその妻の墓になります。
なお、「伝記吉川英治」では、妻の戒名は≪妙願≫となっていますが、墓石では≪妙顔≫に見えます。
また、3代目銀右衛門の命日を≪八月二十九日≫にしていますが、私には上記のように読めました。
私の見間違いかもしれませんが、あるいは過去帳と墓石で齟齬があるのかもしれません。

左の墓石には、正面右に≪惠光信士≫、左に≪妙宣信女≫とあり、右側面には≪文政四巳年七月十七日/吉川勇助之墓≫、左側面には≪安政六未年/三月二十八日≫とあります。
こちらは勇助夫妻の墓です。

「伝記吉川英治」に言及のない中央の小さな墓石には≪秋月≫の文字が見えます。
過去帳によれば、これは3代目銀右衛門の子の墓ということになるようです。
戒名の左右にかすかに見える文字は≪寛政十一年/八月十四日≫であるようです。

3基とも、周囲の墓石に比べて、非常に小さいもので、小田原藩士としての吉川家の立場がうかがえます。

この墓に参った吉川英治は次のような短歌を残しています。

各々も足軽共かそれがしの祖先も交る足軽の墓
足軽の墓群れ小さく彼方には大殿様の墓奥方の墓
無縁ぼとけあはれ起すな幾世かも雨露の眠りの安けらしきを
小田原やここ父祖の地とみるからに松のすがたもたれやらに似る

最後の歌の通り、小田原には、特にこの寺町のあたりには、立派な松の木が何本も見られました。

吉川英治も同じ松を眺めたのではないかと思うと、感慨深いものがありました。

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