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2008年1月30日 (水)

ピンチヒッター

杉本健吉による吉川英治作品の挿絵と言えば、「新・平家物語」の他に「私本太平記」も有名ですが、実は、「私本太平記」も、「新・平家物語」同様、途中から挿絵を担当することになった作品なのです。

「私本太平記」は『毎日新聞』に連載(昭和33年1月18日~36年10月13日)されましたが、その当時担当編集者だった松本昭が「吉川英治 人と作品」の中で、その様子に詳しく触れています。

当初、挿絵を担当していたのは菅楯彦。
菅楯彦はかつて谷崎潤一郎の「聞書抄」の挿絵を担当したことがあり、その挿絵の印象から、「私本太平記」の挿絵を依頼した。
しかし、「聞書抄」は昭和10年の作品で、昭和30年代の菅楯彦は、年月を経て画風が変化していた。

昔の画風をイメージしていた吉川英治としては、どうしてもそれが気に入らない。

吉川英治は、朝、毎日新聞を手にとると、「私本太平記」が掲載された面を確認し、じりじりしながら午前8時になるのを待ち、8時になった途端に、毎日新聞の当時の学芸部長・高原四郎に、「今日の挿絵も作品のイメージに合わない」という苦情の電話をかける。

それが毎日続くので、とうとう挿絵画家の交代が決まり、連載第34回から登板したのが杉本健吉であった。

それ以後、高原四郎への苦情の電話はなくなり、高原は「最初から杉本さんにしておけばよかった」とぼやいたといいます。
と言っても、毎日新聞としては、長年『週刊朝日』の「新・平家物語」を担当していた杉本健吉をそのまま起用するのは避けたかったはず。
印象がダブりますから。

しかし、結局はそこに落ち着いた、という話。

ちなみに、同じ年に講談社が創刊した雑誌『日本』に連載が始まった「新・水滸伝」は、初めから杉本健吉を挿絵に起用していました。

ところが、こちらは、吉川英治の体調悪化のため昭和36年12月号で連載が中断。
そのまま、吉川英治は帰らぬ人となったため、中断したまま絶筆となってしまいました。

つまり、杉本健吉は、吉川英治作品について、連載の最初から最後まで全て完全に担当したことがないのです。

不思議な縁と言えるでしょう。

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