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2008年2月28日 (木)

少年マガジン

講談社の『少年マガジン』と小学館の『少年サンデー』が、ともに創刊50周年を迎えるということで、共同で雑誌を発行するという報道がありました。

そんなになるんですね。

吉川英治とは関係が無いニュースのように思えますが、実は、『少年マガジン』の創刊号(昭和34年3月26日号)には、吉川英治作品を漫画化したものが掲載されているのです。

それも同時に2作品です。

創刊号の本誌には「左近右近」が掲載され、さらに「天兵童子」が別冊付録になっているのです。

「左近右近」はそのまま同年の第8号まで連載されました。
作画は創刊号のみ忍一平、第2号以降は波良章が担当しています。

連載の誌面を見ると、≪宮本製菓提供 カンロ劇場≫という枠でテレビ放映されていたことがわかります。
調べてみると、KRテレビ製作でこの年の3月9日~9月28日(30分番組 全30回)に放映されています。
主演は立花伸介と藤間城太郎となっています。

つまりこれ、テレビ放映と週刊マンガ雑誌連載を連動させた≪メディアミックス≫なんですね。

一方、「天兵童子」は第2号でも別冊付録となった後、本誌に移って、同年の第19号まで連載されました。
作画は矢野ひろし。

こちらも≪日本教育テレビ連続放送劇≫と記載されていて(放映は同年3月7日~6月27日、30分番組)、やはりメディアミックスとなっています。
主演は尾上左近。
記録によれば三田佳子も出演しています。

ちなみに、『少年マガジン』創刊号の別冊付録は、「天兵童子」の他に「新吾十番勝負」「西鉄稲尾選手物語」の2冊が付いていました。

マンガ文化の拡大のひとつのきっかけとも言える『少年マガジン』の創刊号に、大衆文学作品の漫画化が3作もあったというのは、ちょっと興味深い気がします。

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2008年2月26日 (火)

4月

そろそろ、梅の開花についての問い合わせが増えてきましたが、その梅の3月を飛び越えて、4月に2つばかりイベントがありますので、その告知を。

4月12日には、声優の銀河万丈さんの朗読ライブが行われます。

4月26日には、草思堂庭園で野点の会を行います。

いずれも詳しくはリンク先をご覧下さい。

多くの方のご参加をお待ちしています。

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2008年2月22日 (金)

数字のまやかし

昨日、今日、2日間にわたって館内の暖房が使えませんでした。

当館の本館展示室は温水循環式の暖房なのですが、昨日突然、お湯を沸かすボイラーに灯油を供給するサービスタンクに、地下の貯蔵タンクから灯油が上ってこなくなったのです。

慌てて業者を呼び、ポンプを点検するも、原因はわからず。
20時過ぎまであれこれ試した挙句、翌日仕切り直しということになって、今日再度点検。
地下タンクとサービスタンクを繋ぐパイプに亀裂でも無いかと検査してみる一方で、念のためタンクに給油してみると……

ちゃんと上ってきましたよ、灯油が orz

単純に、灯油の量が減って、油面が吸い上げ口より下がってしまったために、上ってこなかっただけでした。

1月に地下貯蔵タンクの気密試験をしたのですが、どうもその時に一部分部品を交換したりした結果、ボイラー室の油量計の表示が以前と少し変わってしまったようです。
今まで、表示がこの位置に来るまでは吸上げ可能と判断していた位置が、ズレちゃったんですね。

大山鳴動して鼠一匹。

お客様、寒い思いをさせて申し訳ありませんでした。

ああ、恥ずかしい(苦笑)

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2008年2月19日 (火)

卵かけご飯

時々のぞくブログに、こんな記事がありました。

岸田劉生の父で、ジャーナリストであり、実業家でもあった岸田吟香が、≪卵かけご飯≫を日本に広めた、という説にちなんで町おこしをしているところがあるようです。

水を差すつもりはありませんが、本当でしょうか。

岸田吟香の生没年は天保4年(1833)~明治38年(1905)。
Wikidediaによれば、明治10年(1877)頃に日本で初めて≪卵かけご飯≫を食し、人にも勧めたということです。

その一方、上でリンクをつけた新聞記事では

町によると、昭和初期の雑誌に、吟香が朝食で鶏卵をご飯に落とし、焼き塩と唐辛子を振って、かき混ぜて食べたとの記事が掲載され、こうした食べ方が世の中に広まったという。

と書かれています。

明治10年代と昭和初期では、随分隔たりがありますが、やるからには根拠を、ということで町が調べた結果、文献上に明記されているものは、そこまでしかさかのぼれなかったということでしょう。

ちなみに、以前こんなことを書きました。

吉川家の没落は、英治11歳の時で、明治36年のこと。
吉川家の≪卵かけご飯≫争奪戦は、それ以前のことだと思われます。

新聞記事の方では、昭和初期になってから広まったような書き方ですが、吉川英治の文章がフィクションでないなら、明治期には≪卵かけご飯≫がある程度は広まっていたであろうことがわかります。

岸田吟香が第一号となって広めたかどうかはともかく、ちょうどその存命中に普及したことは確かなのでしょう。

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2008年2月17日 (日)

新漫画派集団

新漫画派集団は、昭和7年に近藤日出蔵、横山隆一などの当時の若手漫画家が結成したグループです。
共同で事務所を構え、マネージメントなども行っていたようです。

その設立メンバーで「フクちゃん」で知られる横山隆一がこんな思い出話を書き残しています。

新漫画派集団の事務所にある日、仲間の吉田貫三郎がやってきて

おい、皆んなよろこべ・・・・・・吉川英治の新聞小説の挿絵を自分が描く事になった

と言うので、「お前の挿絵のために、どうして俺達が喜ぶんだ」と笑った。
それ以後、打ち合わせなどで吉川英治に会う度に、事務所にやって来ては、吉川英治の偉大さについて一席ぶっていくという張り切りぶりなので、皆で成功を祈っていた。
ところが、やがて連載が始まると、吉川英治の原稿が遅れて資料調べが出来ない上、編集部からとやかく言われると、泣いたりわめいたりするようになり、皆たまりかねて、「ここは漫画を描くスタジオだ、挿絵は自分の家で描け!」と大騒ぎになった。
結局、吉田貫三郎は挿絵を降り、別の画家に交代となった。

という話です(「南方を飛んだ吉川さん」『吉川英治全集月報52』所収)。

調べてみると、『時事新報』に連載(昭和9年1月10日~7月6日)された「大都の春」という作品の挿絵を吉田貫三郎が担当しています。

そして、このおよそ半年の短期連載の作品に、挿絵画家が3人も関わっています。

最初が吉田貫三郎(~67回)、以下、山上泉(68~97回)、富田千秋(98~174回)です。

先日の「続鳴門秘帖」同様、作家が苦しむと挿絵画家も困って、交代したり、一時的に代筆したりして複数が関与することになるのでしょう。

ちなみに、吉田貫三郎と山上泉は、吉川作品に関わったのはこの1作だけです(富田千秋だけはこの後に3作品を手がけています)。
他の作家の挿絵を描いたのかどうかはわかりませんが、吉川英治に関しては、「もうこりごり」というところでしょうか。

ここ数日、なんだか「吉川英治がいかに挿絵画家を苦しめたか」という同じ話を手を変え品を変えてしているような気がしますが、まあ、気のせいということで。

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2008年2月16日 (土)

小村雪岱氏を偲ぶ

吉川英治が挿絵画家について書いた文章は、あまり多くありません。

わかっているだけでも80人もの画家が吉川作品の挿絵に関わっているのですが、逆に多過ぎるのかもしれません。

画集の序文や推薦文といった類のものを除けば、ある一人の挿絵画家についてまとまって何か書いているものは、表題の追悼文ぐらいです。

何度も触れたように、吉川作品の挿絵画家として、担当した作品数が最も多いのが小村雪岱です。

以前書いた文章では30作品と書きましたが、その後、「きつね雨」という作品でも一部挿絵を担当していることがわかりましたので、31作品を担当していたことになります。

上記の追悼文で、吉川英治は、20歳前後の時期、泉鏡花の作品を貪り読んでいて、「日本橋」などの装丁画に接して、その頃から小村雪岱の画に親しみを感じていたと書いていますが、その一方で、その当時の雪岱がまだ23歳くらいだったという話を、通夜の晩に鏡花未亡人から聞いて驚いています。

調べてみると、雪岱は1887年生まれなので、1892年生れの英治とは5歳しか離れていません。

そして亡くなったのは昭和15年10月17日。

実はこの時、英治の「彩情記」(『婦人倶楽部』昭和15年1月号~16年1月号)の挿絵を雪岱は担当していました。
その連載中に亡くなったのです。

追悼文の記述によれば、亡くなる4、5日前に編集者から次号の挿絵が出来たという話を聞いたばかりだったと言いますから、これがほとんど最後の仕事に近かったろうと思われます。

ちなみに、連載途中で亡くなった雪岱の後を引き継いだのは神保朋世。
最終回の最後の挿絵には、わざわざ「雪岱氏代筆 朋世画」と書かれています。

自分の気に入つたといふよりは、作家の良心的な仕事ぶりを感じると、君自身もからだを忘れてむりな精進をされたらしい。さうした多くの場合のはなしを奥さんや友人達から聞かされるにつけ、私は十数年のあひだ、いつも遅い原稿に、期日のなやみを君におかけした事が思ひ出されて、ただただ済まないここちに打たれ、御焼香の時も、写真を仰ひで及ばないお詫を胸にくりかへした。

あらゆる作家が抱く慙愧でしょうが、英治の正直な気持ちが伝わってきます。

残念ながら、いま手に入る随筆集には収録されておらず、戦前に出た「草思堂雑稿」(富士出版社 昭和16年9月20日)か、「人生論読本8 吉川英治」(角川書店 昭和37年5月5日)でしか読むことが出来ません。

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2008年2月15日 (金)

絵型

挿絵画家は、作家が書いた原稿をもとに、それに相応しき絵を描きます。

もとになる原稿が仕上がらなければ、画家の方はお手上げです。

吉川英治も、書き出せば筆は早かったそうですが、その書き出しがつかずに原稿が大幅に遅れることがままあったようです。

そんな引け目があるのか、伊藤彦造に対して

貴下は生真面目過ぎる。三枚描くときは一枚だけに力を入れて、あとの二枚は手をはぶくんですよ。そうしないとからだをつぶしますよ・・・

などと言っていたそうです。

なんだか、小田富弥を不誠実だと憤慨していた同じ人の台詞とは思えないですね。

それはともかく、原稿がどうしても遅れてしまう時には、このような場面を書くのでこんな挿絵を描いて下さい、という指示書を先に画家に出すことがあります。

これが絵型です。

「吉川作品の挿絵・装丁画の世界」展では、参考資料としてそんな絵型も数種類展示しています。

例えば、「黒田如水」(『週刊朝日』昭和18年1月3・10日号~8月15日号)の絵型にはこうあります(改行位置は変えています)。

黒田如水第三十回絵がた
山深き中国陣
丸木組の山小屋に等しき陣屋ノ一室
月光廂より映して室の中央ニ病臥せる竹中半兵衛
枕頭の左右ニ秀吉官兵衛の二人
共ニ愁然と重態ノ半兵衛を見まもって座す

場面は竹中半兵衛の最後の戦場となった三木城攻め。
そこでの秀吉・竹中半兵衛・黒田官兵衛の三者を描いた挿絵を求めているわけですね。

ちょうど、この回の掲載された『週刊朝日』(8月1日号)を所蔵しているので、横に並べて展示しています。

掲載されている挿絵は、絵型の指示とは少し違います。
そのあたりが画家の工夫なのでしょう。

ちなみに、挿絵画家は江崎孝坪。

実際の挿絵がどういうものであるかは、ぜひご来館の上(笑)、ご自分の目でご確認下さい。

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2008年2月14日 (木)

心配

再び「吉川作品の挿絵・装丁画の世界」展について。

今回は挿絵そのもの以外に、挿絵に関連する資料も若干展示しています。

そのうちのひとつが吉川英治が新井弘城に宛てた葉書です。

これがどういう点で挿絵と関係しているかというと、文中にこんな一節があるのです。

絵はとみや氏ですが 同君は代作を使ふらしい懸念があるので 女房役にづぼられてはと それが心配です まだ旅行先なので発表を見ませんが 御批判を願ひます

昭和8年8月、吉川英治は高野山の宿坊にしばらく滞在し、そこで執筆をしていました。
葉書は8月9日に書かれたものです。

その前日の8月8日から朝日新聞紙上に吉川英治の「女人曼荼羅」という作品の連載が始まりました。
その作品の挿絵を担当したのが、小田富弥でした

つまり文意は、「旅行先のためまだ掲載紙面を見ていないが、小田富弥には代作を使うという噂があるので心配だ、もしそんな様子が見られたら批判して下さい」ということなのです。

小田富弥は、林不忘の「丹下左膳」の挿絵で知られる人気挿絵画家であり、吉川英治の作品でも「女人曼荼羅」以前に「処女爪占師」(昭和4~5年)、「勤王田舎噺」(昭和6年)を、以後にも「山浦清麿」(昭和13年)を担当しています。

その小田富弥に、吉川英治はそんな懸念を持っていたんですね。

実は、その懸念は当たってしまいます。

3日後、8月12日付で弟の晋宛に送った書簡には、こんなことが書かれています。

今日 例の小田富弥の第五回目の雪葉の絵にすっかり失望と 彼氏の不誠実な仕事ぶりにふんがいし 長文の警告文 原稿紙十一枚を一気に書いて 原稿と共にやす子に大阪へ持たせてやった
(略)
一体ああいう生ぬるッこい仕事をして よく大新聞に平気で出せると思って 僕は不思議でならないよ 下手上手は別問題 好評不好評も別問題 要は 仕事に対する男性の誠意があるか無いかだ

随分なご立腹ですね。

もっとも、以前触れた「新・平家物語」や「私本太平記」と違って画家の交代に至らず、昭和9年4月24日の最終回まで小田富弥が挿絵を務めたところを見ると、次第に吉川英治にとって満足のいくものになっていったのでしょう。

作家と挿絵画家の葛藤が垣間見える資料です。

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2008年2月13日 (水)

主婦の友

雑誌『主婦の友』が今年の6月号で休刊となるそうです。

吉川英治の主な読者層は、ものが時代小説ということもあって、男性が中心というイメージがあるのですが、作品の初出誌をみると、女性向けの雑誌にもたくさんの作品を書いています。

講談社との関係もあって『婦人倶楽部』が中心ですが、『主婦之友』にもいくつか作品を掲載しています。

母恋鳥」 昭和12年8月号~13年8月号
「大楠公夫人」 昭和15年1月号
「太閤夫人」 昭和15年3月号
「静御前」 昭和15年5月号
「細川ガラシャ夫人」 昭和15年7月号
谷干城夫人」 昭和16年1月号~2月号
「小野寺十内の妻」 昭和17年1月号

以上の7作品があります。

「母恋鳥」を除く≪婦人もの≫6作品は、「日本名婦伝」(全国書房 昭和17年1月)のタイトルでひとつの単行本にまとめられています。
時代も時代、そして取り上げた人物がいずれも戦いに赴く男の妻、という点では、その作品の意図について、考え込んでしまう部分が無きにしも非ずですが。

ちなみに、「日本名婦伝」には、この他に「山陽の母」(「梅颸の杖」〔『文藝春秋 オール読物号』昭和5年7月号〕を改題したもの)と「田崎草雲とその妻」(「田崎草雲とその子」〔『文藝春秋』昭和7年夏期増刊号〕を改題したもの)の2作品も収録されています。

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2008年2月11日 (月)

挿絵の8人

昨日の記事からもリンクをつけましたが、吉川英治の作品の挿絵を最も多く描いた画家は小村雪岱です。
今回の「吉川作品の挿絵・装丁画の世界」展でも、「遊戯菩薩」という作品の挿絵原画を展示しています。

では逆に、1作品で最も多くの画家が関わった作品は何になるのか調べてみました。

吉川英治の「太閤記」は、読売新聞に昭和14年1月1日~20年8月23日まで連載された作品です。

お分かりの通り、戦時下で書き継がれた作品です。
当時、新聞の連載小説は朝刊に現代小説、夕刊に時代小説という慣例がありました。
戦時中、用紙不足などから、新聞雑誌の統廃合が行われましたが、読売新聞では夕刊を廃止することになった際、この慣例を破って、「太閤記」を朝刊に移して連載を継続したという逸話の残る作品です。

ちなみに、吉川英治は、昭和20年8月15日の玉音放送を聞いて、その日から2年ほど小説を書かなくなるのですが、あらかじめ渡してあった原稿がそのまま掲載されたため、8月23日まで連載は続いています。

この「太閤記」の挿絵を担当した画家が、実に8人います。

近藤浩一路・江崎孝坪・福岡青嵐・木村荘八・玉村吉典・新井勝利・北村明道・森村宣永の8人です。

およそ6年8ヶ月に及ぶ連載ですから、挿絵画家の途中交代があっても、それ自体は不思議ではありません。
「宮本武蔵」だって、前半(矢野橋村)と後半(石井鶴三)で画家が代わっています。

ただ、8人というのは、いかにも多すぎます。
おそらく、戦時下ということもあって同じ画家が継続して担当することが難しかったのでしょう。

ところで、現在「新書太閤記」として単行本化されている作品は、この「太閤記」と昭和24年に地方紙に連載された「続太閤記」をあわせたものです(厳密にはその両者を繋ぐ部分を書き下ろしています)。

この「続太閤記」の挿絵画家の分を加えると、「新書太閤記」としては9人以上の画家が関与した、ということになるところなのですが、実は、こちらの挿絵は新井勝利が1人で担当しています。
新井勝利は「太閤記」の方でも挿絵を描いていますから、「新書太閤記」として考えても、やはり8人ということになります。

ちょっと残念(笑)

今回はその新井勝利による「続太閤記」の挿絵原画を展示しています。


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2008年2月10日 (日)

続鳴門秘帖

昨日から始まった「吉川作品の挿絵・装丁画の世界」展ですが、挿絵に関することでは、過去にこんなことやらこんなことをご紹介したりしてきましたが、展覧会に合わせて、またちょっとしたエピソードをご紹介してみます。

まずは、昨日、展示するのは初めてだと書いた鴨下晁湖の「続鳴門秘帖」連載挿絵原画について。

吉川英治の「続鳴門秘帖」は、そのタイトル通り、大阪毎日新聞に連載されて吉川英治を人気作家に押し上げた名作「鳴門秘帖」の続編です。
博文館の編集者であった本位田準一が、粘り強くその執筆を求め、同社の雑誌『文藝倶楽部』の昭和3年4月号から連載が始まりました。

しかし、吉川英治は依頼は引き受けたものの、元来続編を視野において執筆していたわけではない「鳴門秘帖」を、その先どう展開させるのかに苦しむことになります。
そして、とうとう、翌昭和4年6月号を最後に、連載15ヶ月、1回休載があるので全14話にして、未完のまま中絶してしまいます。

さて、そんな作品なのですが、そのたった14回の連載に関わった挿絵画家が、実は3人もいます。
当館で入手し、今回原画を展示している鴨下晁湖の他に、高畠華宵と竹中英太郎も挿絵を描いているのです。

細かく言うと、連載第1・2回は高畠華宵が担当しましたが、第3回から鴨下晁湖に交代しています。
ところが、第7回と第10回だけ竹中英太郎が描いているのです。

どういう事情でこういうことになったのでしょうか?

吉川英治がこの作品の執筆に苦労していたということは、つまり、原稿も遅れ気味で挿絵画家への負担が大きかったということでしょう。
そのせいでしょうか。

ところで、吉川英治は240編ほどの作品を残していますが、歴史上の実在の人物を別にすると、複数の作品にまたがって登場する主人公というものが、ほとんどいません。
大佛次郎の鞍馬天狗、野村胡堂の銭形平次、林不忘の丹下左膳といったような、同じキャラクターで連作していくということを、吉川英治はしませんでした。

もし、吉川英治がこの「続鳴門秘帖」をきちんと書き上げ、それなりの人気を得ていたら、主人公の法月弦之丞をキャラクター化して更なる続編を書くことを求められていたかもしれません。
そしてそれを吉川英治が引受けていたら・・・

大佛次郎が鞍馬天狗と、ついに終生離れられなかったように、吉川英治も法月弦之丞に拘束されて、後世に遺した作品の質や種類が全く違うものになっていたのかもしれません。

その意味では、人生の岐路になった作品なのかもしれません。

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2008年2月 9日 (土)

春の企画展 吉川作品の挿絵・装丁画の世界

本日から表題の企画展を開催しています。

吉川英治が、作家としての立脚点とした大衆文学。その大衆文学の世界は、小説そのものとともに、挿絵もまた作品の重要な位置を占めていました。
挿絵の多くは新聞・雑誌での連載にあたって作品に添えられたものですが、それにとどまらず、本文との相乗効果によって読者に作品に対する豊かなイメージを提供してきました。
吉川英治の作品においても、「鳴門秘帖」の岩田専太郎、「神州天馬侠」の山口将吉郎、「宮本武蔵」の石井鶴三、「三国志」の矢野橋村、「新・平家物語」の杉本健吉など、作品と挿絵が強く結びついて記憶されている画家たちの名がすぐ挙がります。
今回は、館蔵品の中からそうした連載時の挿絵原画や単行本化された際の挿絵・装丁画などを集めて展示します。
また、作品の原稿執筆が滞っている時に、とりあえず挿絵の絵柄を指示するために吉川英治が書いた『絵型』などの周辺資料も合わせて展示します。

会期は2月9日(土)~3月30日(日)。

3月2日までの前半と3月4日からの後半で展示品を入替えます。

複数の資料を所蔵しているものは同じ資料の中で展示するものを替え、そうでないものは別の資料に差し替えます。

現時点で展示している主な資料は以下の通りです。

・新井勝利「続太閤記」連載挿絵原画
・石井鶴三「宮本武蔵」連載挿絵原画
・石井鶴三「宮本武蔵挿絵集」あとがき原稿
・岩田専太郎「色は匂へど」連載挿絵原画
・小村雪岱「遊戯菩薩」連載挿絵原画
・佐多芳郎「吉川英治全集」口絵原画
・富永謙太郎「讃母祭」連載挿絵原画
・三井永一「吉川英治全集」挿絵原画
・矢野橋村「三国志」連載挿絵原画
・山村耕花「親鸞」連載挿絵原画
・鴨下晁湖「続鳴門秘帖」連載挿絵原画
・宮田雅之「三国志」挿絵原画
・吉川英治「黒田如水」「自雷也小僧」「左近右近」絵型

鴨下晁湖の「続鳴門秘帖」連載挿絵原画などは、数年前に入手したもので、展示するのは初めてです。

ご興味のある方はぜひ。

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2008年2月 7日 (木)

三国志の執筆メモ

そう言えば、先日、ある大学生から卒業論文の調査のために問い合わせの電話がありました。

吉川英治がどういう観点から「三国志」を書こうとしたのか、わかるようなメモが残されていないか、というようなことでした。
それに対して、吉川英治が種本にした「通俗三国志」が残されており、そこには書き込みがあったはずだ、と答えたところ、それを閲覧させて欲しいと言うので、許可しました。

前にも書いたと思いますが、きちんとした研究目的で、当館でしか閲覧できない資料であれば、職員の立会いの下で閲覧を認める場合もあるのです。

さて、そう答えて、閲覧のために来館する日取りも決めて、いよいよ明日やって来るという日になって、事前に自分でもちゃんと確認しておこうと思い、「通俗三国志」を手にとって見ました。
恥ずかしながら、書き込みの存在はわかっていましたが、全てをちゃんとチェックしたことがなかったのです。

なんとまあ、吉川英治の書き込みは、全て、連載の1回分として、「通俗三国志」のどこからどこまでを使うか、という目印と、その部分の章のタイトルだけで、構想メモらしきものは一切なかったのです。

学生も、それを見て拍子抜けしていました。

ボンクラ学芸員のせいで遠路足を運ぶ破目になって申し訳ない思いをしましたが、その後送られてきた封書によると、卒論のテーマを、吉川「三国志」と「通俗三国志」の関係、に切り換えて書き上げたとの事。

もう卒論の口頭試問も行われたはず。

無事の卒業を祈ってますよ、陰ながら(苦笑)

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2008年2月 6日 (水)

通俗三国志

書店で『アジア遊学』という雑誌を見かけました。
2007年12月10日付で発行された第105号に「特集 日本庶民文芸と中国」とあったので手にとって見ると、吉川英治への言及を見つけたので購入しました。

「泣かずに魏延を焼き殺す 吉川英治の読んだ三国志」(竹内真彦)において「三国志」が、「『水滸伝』を母体とした現代日本の小説・コミック」(井上浩一)において「新・水滸伝」が取り上げられていました。

どちらも興味深く読んだのですが、少しだけ残念なことが。

竹内真彦氏の「泣かずに魏延を焼き殺す 吉川英治の読んだ三国志」は、タイトルの通り、吉川英治が執筆の際に依拠したテキストは何であったかを考察した文章です。
そして、これもタイトルにある通り、吉川「三国志」の中に、孔明による魏延焼殺の謀が描かれていることから、このエピソードを含んでいる「通俗三国志」に依拠していたと述べるわけです。

しかし、吉川英治が「通俗三国志」を種本に使用したことは、別に秘密だったわけでもなんでもなく、知っている人には以前から知られていたことです。

2006年にリニューアルした当館の図録にも記載されていますし、吉川英治が使った帝国文庫版「通俗三国志」をいま現在、常設展示の中に出してもいます。

それどころか、吉川英治自身が、「三国志」の単行本の序文に

原本は「通俗三国志」「三国志演義」その他数種あるが、私はそのいずれの直訳にもよらないで、随時、長所を択って、わたくし流に書いた。

と明記しているのです。
これはいまも発売中の吉川英治歴史時代文庫版にも収録されています。

読後感からすると、竹内氏の論じたかったことは、むしろ、「通俗三国志」と「三国志演義」の違いにこそあるのだと思うのですが、「吉川英治が『通俗三国志』に依拠していた」ということを論じるのに紙幅を割きすぎて、それが不十分に終っている感じを受けます。

自明のことを述べるのにもったいぶらないで、さっさと「吉川英治は『通俗三国志』を用いた」と言ってしまえば良かったのに、と、もったいない気がするのです。

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2008年2月 5日 (火)

最高に面白い本

コンビニで見かけた雑誌『一個人』3月号の特集が、「大人の読書案内 人生、最高に面白い本」となっていたので、手にとってみました。

作家を中心に様々な人が、自分の好きな本を紹介しています。
今となっては吉川英治の名を挙げる人はいないかもしれないな、司馬遼太郎ならいるだろうけど、と思いながらページをめくってみると、2人いました。

阿刀田高さんが「新・平家物語」を≪もう一度読み返したい本≫として挙げているのは、あまり意外な感じはしません。

へぇ、と思ったのは、海堂尊さんが「三国志」を挙げていたこと。
意外に感じたのは、海堂さんが「チーム・バチスタの栄光」でデビューしてまだ年数の経っていない方なので、吉川英治を読む世代ではないような気がしたからですが、誌面の経歴を読むと1961年生まれなので、ああ、若くないのかと納得しました。

もっとも、吉川英治の作品の中で、若い人でもよく読んでいる作品といえば「三国志」が筆頭ですから、意外に思うほうがどうかしているのですが。

ちなみに、先日紹介した「作家志望なんてケタが小さい」と書かれた随筆(「作家と社会」)では、その直前にこんなことが書かれています。

過去もそうであったが、将来はなおさら、作家は、絶対に、実社会の訓練を充分に受けた人でなければ立てない。
(略)
人間は、永久に人間性である。同時に、社会も永遠に人間の組織する社会性である。いまだに、本を読むことばかりが勉強だと考えている青年があるとすれば、その人は、非常な時代錯誤だ。

現役医師でもある海堂さんにはちょうど相応しい言葉かもしれませんね。

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2008年2月 3日 (日)

雪景色

雪のため、青梅マラソンは中止となりました。

ということで、草思堂庭園の雪景色でも。

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「紅しだれ」の木ですが、これでは「雪しだれ」ですね。

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開く直前の梅の花芽に雪が重そうです。

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2008年2月 2日 (土)

交通規制

明日、2月3日、青梅マラソンが開催されます。

これにともなう交通規制が行われますので、ご注意下さい。

招待選手やスターターはこんな顔ぶれのようです。

この間の大阪国際女子マラソンで優勝したマーラ・ヤマウチさんって、去年も一昨年も女子10キロの部で優勝してたんですね。
知りませんでした。

ところで、記念館の近くを走る都営バスにも色々変更があるのですが。

都バスのサイトを見ても、その変更のことについて何の記載もありません。
東京マラソンにともなう変更については記載があるのですが。
田舎の路線は眼中に無いわけですね。

青梅街道をランナーが走るので、当館に向かうバス(「吉野」行き)の起点は青梅駅ではなく市民会館下に変更になるはずです(確認できていません)。
また、「玉堂美術館循環」は、終点が「吉野」止まりになります。

ちなみに、「玉堂美術館循環」というのは、以前は「玉堂美術館前」行きだったものを、吉野から先の御岳地区において路線を循環させるようになったため名称が変更になったもの。
土日・祝日のみの運行です。

詳しく言うと、通常の終点である「吉野」から先を

吉野→軍畑駅入口→沢井駅入口→鵜の瀬橋入口→御嶽駅入口→玉堂美術館前→寒山寺→櫛かんざし美術館前→柚木三丁目→吉野

と循環するもの。
このうち≪軍畑駅入口→沢井駅入口→鵜の瀬橋入口→御嶽駅入口≫が青梅街道を走るため、「吉野」止まりにするということです。

でも、この路線、元々は青梅街道とは多摩川を挟んで対岸の吉野街道(ちなみに当館が面しているのも吉野街道)だけを走って「玉堂美術館前」まで行っていたんですよ。
そのパターンに戻せば、ちゃんと「玉堂美術館前」まで運行できるのに、どうして「吉野」で引き返してしまうのか、なんだか釈然としません。
国土交通省への路線の申請とか、そういうことの関係でしょうが、融通が利かないにも程があると思うのですが。

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2008年2月 1日 (金)

個と衆

では、逆に、吉川英治の純文学観はどんなものでしょう。

僕だけの解釈として、僕は、こういう持論である。
芸術は、ふたつだ。
個の芸術か、衆の芸術か、小乗か、大乗か、こう二つの道しかない――と。
(略)
個の芸術は、他人の批判の容喙をゆるさない。絶対なもの。同時に、自己を掘る深さにおいて、哲味において、芸術の核へ、わき目もふらない。
これこそ、純粋芸術といえるものである。
(略)
しかし、今日の純文学と称するものは、いわゆる、純ではない、ほんとの個ではない、やはり売ろうとし、読まれようとしながら、個と衆のあいだに、彷徨しているのだ。
(随筆『純』 「草思堂随筆」所収)

これは、今と違い純文学から大衆文学への批判的な言辞が激しかった戦前の昭和8年の文章。

こちらは昭和28年に行った講演の一部。

一体、文学というものは、自己の表現であって、自分の意慾を欲するままに書いて偽りや夾雑を交じえないというのが、文学至上的なたてまえであります。だから読者を意識したり影響を考えたりするのは、もう文学的な作家の態度でないという意見もあります。けれど新聞小説だの週刊誌の連載などになりますと、当然、対象は百万二百万という読者層がいうまでもなく対象でありまして、読者を度外視した文学者のための空欄なんかをわざわざ新聞や週刊誌が提供するわけなどありません。
作家もまた新聞小説とか雑誌の仕事を引受けるときには、すでにそのページのもつ社会的な使命というものを承諾しているのでありまして、従って文学至上的な固執をもったり批評をうけるいわれはないのであります。べつにその使命を果たしながらも一つの文学形式を創造しなければなりません。
(昭和28年5月30日 『週刊朝日』関東地区読者大会にて)

芸術至上主義的な自己表現も大事だが、実際の純文学はそれに撤しきれていない、それでいて、読者を意識した大衆文学を低俗と批判するが、それは筋違いだ、そこには自ずと別の使命があるのだ、というところでしょうか。

もっとも、吉川英治は、作家志望者に対して答える、としてこんなことも書いています。

そもそもまた、人生、作家になろうなどという理想を持つことからして、余りに、ケタが小さい。もっと、社会的に、飛躍のある職業をなぜ選ばないだろう。
(随筆『作家と社会』 「草思堂随筆」所収)

そんな、身も蓋もない(苦笑)

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