« 絵型 | トップページ | 新漫画派集団 »

2008年2月16日 (土)

小村雪岱氏を偲ぶ

吉川英治が挿絵画家について書いた文章は、あまり多くありません。

わかっているだけでも80人もの画家が吉川作品の挿絵に関わっているのですが、逆に多過ぎるのかもしれません。

画集の序文や推薦文といった類のものを除けば、ある一人の挿絵画家についてまとまって何か書いているものは、表題の追悼文ぐらいです。

何度も触れたように、吉川作品の挿絵画家として、担当した作品数が最も多いのが小村雪岱です。

以前書いた文章では30作品と書きましたが、その後、「きつね雨」という作品でも一部挿絵を担当していることがわかりましたので、31作品を担当していたことになります。

上記の追悼文で、吉川英治は、20歳前後の時期、泉鏡花の作品を貪り読んでいて、「日本橋」などの装丁画に接して、その頃から小村雪岱の画に親しみを感じていたと書いていますが、その一方で、その当時の雪岱がまだ23歳くらいだったという話を、通夜の晩に鏡花未亡人から聞いて驚いています。

調べてみると、雪岱は1887年生まれなので、1892年生れの英治とは5歳しか離れていません。

そして亡くなったのは昭和15年10月17日。

実はこの時、英治の「彩情記」(『婦人倶楽部』昭和15年1月号~16年1月号)の挿絵を雪岱は担当していました。
その連載中に亡くなったのです。

追悼文の記述によれば、亡くなる4、5日前に編集者から次号の挿絵が出来たという話を聞いたばかりだったと言いますから、これがほとんど最後の仕事に近かったろうと思われます。

ちなみに、連載途中で亡くなった雪岱の後を引き継いだのは神保朋世。
最終回の最後の挿絵には、わざわざ「雪岱氏代筆 朋世画」と書かれています。

自分の気に入つたといふよりは、作家の良心的な仕事ぶりを感じると、君自身もからだを忘れてむりな精進をされたらしい。さうした多くの場合のはなしを奥さんや友人達から聞かされるにつけ、私は十数年のあひだ、いつも遅い原稿に、期日のなやみを君におかけした事が思ひ出されて、ただただ済まないここちに打たれ、御焼香の時も、写真を仰ひで及ばないお詫を胸にくりかへした。

あらゆる作家が抱く慙愧でしょうが、英治の正直な気持ちが伝わってきます。

残念ながら、いま手に入る随筆集には収録されておらず、戦前に出た「草思堂雑稿」(富士出版社 昭和16年9月20日)か、「人生論読本8 吉川英治」(角川書店 昭和37年5月5日)でしか読むことが出来ません。

|

« 絵型 | トップページ | 新漫画派集団 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 絵型 | トップページ | 新漫画派集団 »