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2008年2月 1日 (金)

個と衆

では、逆に、吉川英治の純文学観はどんなものでしょう。

僕だけの解釈として、僕は、こういう持論である。
芸術は、ふたつだ。
個の芸術か、衆の芸術か、小乗か、大乗か、こう二つの道しかない――と。
(略)
個の芸術は、他人の批判の容喙をゆるさない。絶対なもの。同時に、自己を掘る深さにおいて、哲味において、芸術の核へ、わき目もふらない。
これこそ、純粋芸術といえるものである。
(略)
しかし、今日の純文学と称するものは、いわゆる、純ではない、ほんとの個ではない、やはり売ろうとし、読まれようとしながら、個と衆のあいだに、彷徨しているのだ。
(随筆『純』 「草思堂随筆」所収)

これは、今と違い純文学から大衆文学への批判的な言辞が激しかった戦前の昭和8年の文章。

こちらは昭和28年に行った講演の一部。

一体、文学というものは、自己の表現であって、自分の意慾を欲するままに書いて偽りや夾雑を交じえないというのが、文学至上的なたてまえであります。だから読者を意識したり影響を考えたりするのは、もう文学的な作家の態度でないという意見もあります。けれど新聞小説だの週刊誌の連載などになりますと、当然、対象は百万二百万という読者層がいうまでもなく対象でありまして、読者を度外視した文学者のための空欄なんかをわざわざ新聞や週刊誌が提供するわけなどありません。
作家もまた新聞小説とか雑誌の仕事を引受けるときには、すでにそのページのもつ社会的な使命というものを承諾しているのでありまして、従って文学至上的な固執をもったり批評をうけるいわれはないのであります。べつにその使命を果たしながらも一つの文学形式を創造しなければなりません。
(昭和28年5月30日 『週刊朝日』関東地区読者大会にて)

芸術至上主義的な自己表現も大事だが、実際の純文学はそれに撤しきれていない、それでいて、読者を意識した大衆文学を低俗と批判するが、それは筋違いだ、そこには自ずと別の使命があるのだ、というところでしょうか。

もっとも、吉川英治は、作家志望者に対して答える、としてこんなことも書いています。

そもそもまた、人生、作家になろうなどという理想を持つことからして、余りに、ケタが小さい。もっと、社会的に、飛躍のある職業をなぜ選ばないだろう。
(随筆『作家と社会』 「草思堂随筆」所収)

そんな、身も蓋もない(苦笑)

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