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2008年9月28日 (日)

見落とした

1年ほど前にこんなことを書きました。

最近調べてみたら続巻が出ていました。
以前触れたものを書店で見かけた時には店頭に無かったので気がつきませんでした。

「信州歴史時代小説傑作集第四巻 人情草紙」(2007年7月31日 しなのき書房)という本です。

収録作家は立松和平・岡本綺堂・安部龍太郎・杉本苑子・新田次郎・吉川英治・村上元三・川口松太郎・子母澤寛・伊藤桂一・池波正太郎・笹沢左保です。

吉川英治の作品は、以前触れた時に、どうせならこれを入れた方が、と指摘した「銀河まつり」です。

ちなみに「銀河まつり」の内容はこんな感じ

こういうものは、著作権者には献本されますが、さすがにその作家の記念館にまではなかなかご寄贈いただけないので、気づかずに見落としてしまうこともあります。

あつかましいお願いですが、ご寄贈いただけると、とても助かります。

よろしくお願いいたします。

あ、この本は買いましたけどね(笑)

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2008年9月26日 (金)

夫婦とは

開催中の企画展≪吉川英治の家族愛≫は、今度の日曜日までとなります。

最後に、少し小ネタをご紹介。

家族愛ですから、そこには夫婦愛も含まれます。
吉川英治・文子夫妻の夫婦愛についての簡単な解説パネルを書くにあたって、吉川英治が与謝野晶子から言われたという言葉をその中に引用しました。

何度かこのブログでも触れているように、吉川英治は与謝野晶子と交流がありました。
その事を人に話すと、たいてい驚かれるのですが、その文学のジャンルや方向性に接点が見えないため、想像もつかないからでしょう。

それはさておき、吉川英治は、昭和25年に中山文化研究所で行った「歴史と現代の女性」と題した講演で、以下のような逸話を紹介しています(吉川英治文庫161巻「書斎雑感(講演集)」所収)。

昔私は歌人として有名な与謝野晶子さんを訪ねたことがある。夫の鉄幹先生との間には沢山の子供もあったが、夫婦仲のよいので有名でした。どうしてそんなに仲がよいのかと尋ねると、晶子さんが、
「吉川さん、夫婦愛は創作と同じですよ、その日その日が創作よ」と笑いながら言われたことが今以て忘れられません。

この後、「新・平家物語」のラストシーンのモデルとなった奈良・吉野山で出会った老夫婦(作中に登場するのは講演の時点から7年後のことですが)のことを紹介し、人間の最高の幸せは恋愛ではなく、もっと大事なことは

そしてこの吉野山の男女を理想として、晶子さんのいうように、その日その日を創作して、夫婦愛の完成を図るべきであると信ずる。

と書いています。

未婚の私には全く実感のわかない話ですが、既婚の方はどう思われますか?

何をもって≪夫婦愛の完成≫とするのかにもよるのでしょうが。

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2008年9月24日 (水)

菊池寛の書簡・続き

菊池寛も吉川英治も馬主であったことは知られていますが、書簡の後半の話題は抽籤馬のこと。

競馬の歴史に詳しくないので細部がよくわかりませんが、抽籤馬というのは、馬主育成のために競り市で買い上げた馬を一定価格で馬主に抽籤で配布するシステムのようです。

その抽籤で当たった馬について、吉川英治の馬に対しては「君の馬は購買価八千円だ(略)お気の毒ながら、これは最低価の馬だ」とくさし、一方、自分の馬は「僕の馬は、はばかりながら、購買価二万六七千円で、北海道馬では、三四番手、全体でも二十番とは下らない。(略)旁々、相当のものである」と、大自慢しているのです。

大人気ない(苦笑)

ところで、この馬のその後について、吉川英治は「蓮如・洗馬・菊池寛」(初出:『富士』昭和23年7月号)という随筆で触れています。

菊池寛は自分の持ち馬には≪トキノ○○○≫という名前をつけていました。
もっとも有名なのは≪トキノチカラ≫ですが、この馬にも≪トキノワダイ≫という名をつけました。
農林省から抽籤で配布された時には、即刻、手紙(いま話題にしているものですね)を送ってきたほどでしたが、

この“トキノワダイ”は、(菊池)氏の在世中は、スタート癖が悪かったり、勝つべきときに惜敗したり、少しも、氏を熱狂させるほどよろこばしたことのない馬である。

ところがどういうものか、そのトキノワダイが、菊池寛が亡くなってまもなく行われた障碍競走で1着になったのです。

勝ちながら、私たちのまわりは、あたりの歓声と反対に、寂然とひそまりかえっていた。“生きていたら”とおもい、“見せたかったなあ”とおもい、友人たちはみな在りし日のことのみ、とたんに思い出されていたのだった。

以前雑誌『優駿』のバックナンバーを調べたことがありますが、このレースの正確な名称と開催日時を明確にすることは出来ませんでした。

なお、このトキノワダイは菊池寛の死去にともない、その名義が吉川英治に移されました。
そして、吉川英治はこれを≪キクヨシ≫と改名しました。
もちろん、菊池寛の≪菊≫と吉川英治の≪吉≫にちなむものです。

そして、昭和23年4月3日の≪農林省賞典中山大障碍≫というレースで2着となっています。
ただ、その後の戦績は、それ以前と同様ふるわなかったようです。

菊池寛が亡くなったのは、昭和23年3月6日。
それから1ヶ月の間だけ、なぜか大活躍したトキノワダイ=キクヨシ。

この「蓮如・洗馬・菊池寛」という随筆は、こんな言葉でくくられています。

一体、私は氏と違って勝負事には弱気である。だから馬など持つことは、結局、無常を知ることになるとはいつも思うが、人生、友をもつことも、無常に会う約束事みたいなものである。

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2008年9月23日 (火)

菊池寛の書簡

一昨日、菊池寛の書簡に言及しながら、「内容も面白いものですが、それは措く」としてしまいました。

今日は、その内容に触れてみます。

この書簡は中身だけで封筒がないため正確な発信日時がわかりませんが、冒頭に「永田のラクセンは、ガッカリした」とあるので、昭和21年の4月頃と思われます。

戦後初となった昭和21年の第22回衆議院議員選挙(4月10日投票)に、大映の永田雅一が京都選挙区に日本自由党から出馬しています。
大映は戦時中に新興キネマと日活を統合して生まれた会社で、当初の社長は菊池寛、永田雅一は専務という関係にありました。
そんなこともあって、菊池寛は永田の応援演説も行っています。

書簡を読むと、同じ京都選挙区で、やはり日本自由党から出馬した芦田均の支持者の票が、少しは永田の方にも流れるだろうと予測していたものが、まったくあてがはずれたための落選だったようです。

「芦田氏をアテにせずもう、演説を三四十回もやれば当選した。(略)血みどろさが足りなかった」という反省の弁を記しています。

ここまでが前半で、占拠の裏側が伝わってくる興味深いものですが、打って変わって、後半は馬の話。

これも面白いのですが、それはまた明日。

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2008年9月21日 (日)

菊池寛の書と画

やはり菊池寛記念館に貸し出した資料に、菊池寛から吉川英治に宛てた書簡があります。
内容も面白いものですが、それは措くとして、菊池寛の筆跡を見ていると、何とも子供っぽい感じを受けます。

昨日触れた命名の色紙は、それでもきちんと書かれていますが、書簡の文字はお世事にも上手な字とは言えません。
ちなみに、どちらも筆文字です。

それについて、吉川英治は菊池寛が亡くなった直後に書いた随筆「菊池寛氏と私」(初出:『キング』昭和23年5月号)で、こんなことを書いています。

ある時、菊池寛が習字を習い始めたと聞いた英治は、それはやめた方がいいと菊池寛に言ったそうです。

その理由は、「あなたの字は、天真らんまんだ。中学生時代とそんなにかわっていないでしょう。いや、いまみたいな年齢になっても、あなたの字はまるで子供だ。――その貴重なる童心の書をすてて、なにも今さら古法帖なんか習う必要はない」ということだった。

英治にそう言われた菊池寛は、それからは習字のことは言わなくなったそうですが、亡くなった後に菊池寛の息子の英樹から、亡くなる前の時期、茄子や南瓜の画などを少し描いたりしていたと聞いて、

私は菊池さんの絵だけは見たことがない。これは後で聞いて実に惜しいとおもった。画をやるなら反対はしなかったのに。――もしあの気性と書風のゆきかたで、菊池さんが画をやったら、武者小路氏の精進を以てしても、ちょっと寄りつけない南瓜図なんかが出来ていたかもしれない。

確かに、新潮日本文学アルバムの「菊池寛」を見ても、画は見当りません。

今回の菊池寛記念館の企画展の出品ラインアップにも、菊池寛の絵というものはないようです。

菊池寛がもう少し長生きしていたら、吉川英治の見立て通り面白い画を遺したかもしれませんが、結局は幻となってしまったようです。

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2008年9月20日 (土)

命名

菊池寛記念館に貸し出した資料のひとつに、菊池寛による吉川英治の長男・英明の命名の色紙があります。

菊池寛が名付け親であることは以前ご紹介しましたが、その命名の色紙にはこう書かれています。

吉川英治氏第一子
のために名を撰む
吉川英明君
その一生の多幸と
栄達とを祈る
昭和十三年十月十日
大洋丸にて 菊池寛

ちなみに、リンク先で紹介している、文子夫人宛に送った葉書は、現在開催中の企画展≪吉川英治の家族愛≫で展示しています。
ペンの文字が薄くなって読みにくくなっているので、保護のためにも、企画展を終えたら、当分は展示には使わないつもりでいます。

関心のある方は会期中にぜひ。

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2008年9月19日 (金)

菊池寛―現代に引き継がれる寛イズム―

というタイトルの企画展が高松市の菊池寛記念館で開催されることになり、今日、集荷が行われました。

会期は9月27日~11月9日。

当館からは菊池寛の書簡や吉川英治が菊池寛について書いた随筆の原稿など5点を出品しますが、他にも交遊のあった芥川、久米、横光、川端、直木らの資料も各所から集まるようです。

詳しくはこちらを。

西日本方面の方、よろしければお運び下さい。

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2008年9月15日 (月)

作文

地元の方から面白いものをお預かりしました。

吉川英治は、いま記念館となっている屋敷に住んでいた頃、地元吉野村の子供たちに対し、様々な関わりを持ちました。

そのひとつとして、吉野中学校の卒業生に短冊を贈った話を以前書きました

そこにも書いたように、卒業式の後、吉川英治の屋敷に卒業生たちが集まって、彼らに対して吉川英治が講話をしました。

面白いものというのは、その講話を聞いた生徒が書いた作文なのです。
それをお持ちくださった地元の方の弟が、昭和25年に吉野中学を卒業した当事者だったのです。

作文によると、卒業式の後、すぐに吉川邸に向かい、庭の芝生の上に座って、吉川英治の話を聞き、話が終ると家の中を見せてもらって、学校に戻ったようです。
この生徒だけなのか、全員に対してなのかわかりませんが、帰る時には吉川英治の専用原稿用紙に筆で「吉川英治」とサインしてくれたそうです。
作文はその原稿用紙に書かれています。

さて、興味深いのは、吉川英治が子供たちにどんな話をしたのかが書かれていることです。

この生徒が書き残しているのは、

・自分は子供の頃はあまり良い子ではなかった。
・作家になったそもそものきっかけになったのは芭蕉の句集であった。
・朝顔を洗う時、ライオン歯磨きの袋の裏に句を書いて勉強した。

という話。

自叙伝の「忘れ残りの記」などを思い浮かべると、何となく、どんな話だったのか想像がつきます。

親の金をくすねて不良っぽい友達と遊びに行ったことや、本屋での万引き、家が没落して苦境に陥り生き延びるためとはいえイモ泥棒をしたこと、そんな生活の中で、露店で手に入れた芭蕉の句集によって心慰めたこと、家の事情で学校には通えず、働いて家計を支えなければならなかったが、そのわずかな合い間にも勉強することで、自分の道を切り開くことが出来た……

そんな感じでしょうか。

自分はダメな子だから、貧しいからと諦めず、どんな境遇にあっても努力を怠ってはいけない、小さな努力でも積み重ねることが大事だ、という話だったのでしょう。

しかし、歯を磨きながら袋の裏に句を書くのは、曲芸に近い気もするのですが(微笑)

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2008年9月14日 (日)

不耕起農法

そうそう、英治忌前のバタバタしている時に気がついたのでそのままにしていましたが、テレビということで言えば、本年度吉川英治文化賞受賞者の岩澤信夫さんが、現在NHK教育テレビで取り上げられています。

岩澤さんは、稲の苗を葉が5枚以上になるまで育てた「成苗」にしてから、耕さない硬い水田に植える「不耕起農法」の実践と普及を行っている方です。

その岩澤さんが、NHK教育テレビの『知るを楽しむ』という番組で、今月から来月にかけて4回にわたって登場します。

放送スケジュールはこちら

第1回を見逃した方もまだこれから再放送で見られるようですよ。
テキストも販売されているようです。

≪農≫に興味のある方は、ぜひ。

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2008年9月13日 (土)

盲導犬

先日来、「日本初の盲導犬誕生物語~ありがとうチャンピィ」というドラマの予告を目にしていましたが、本日フジテレビ系列で放送されるようです。

ドラマのモデルになっているのは、タイトル通り、日本で初めて盲導犬を育成した塩屋賢一さん。
その功績により、昭和57年に第16回吉川英治文化賞を受賞なさっています。

何度か講演をお願いしたことがあり、お目にかかったこともあるのですが、その際の印象ではとても物静かな方でした。
その塩屋さんを演じるのが高嶋政伸さんですか。
うーん、私の印象には合わないのですが(苦笑)

そういえば、先日、ゴルフの上田桃子選手が、バーディをとるたびに日本盲導犬協会に寄付をするというチャリティ活動を行うことを発表した席で、犬が暴れて上田選手が爪をはがしてしまうというアクシデントがありました。
訓練はしたものの盲導犬として視覚障害者に提供するには安定性を欠く犬を、デモンストレーション用に使っていたことが原因だったようです。

塩屋さんに講演をお願いした時も、講演会場でデモンストレーションを行ったのは、そういう犬でした。
私の目には、実によく訓練されていて、よく役割を果たしているように見えましたが、専門家から見ると、周りに気をとられやすいところがあるのだとか。
ちょっと言い方は悪いですが≪欠格犬≫でこれほどのことができるのなら、実際に提供される盲導犬はどれほど優秀なのかと思ったものです。

優秀な犬は全て視覚障害者に提供し、デモンストレーションには提供できない犬を用いるということなのでしょう。
上田選手のアクシデントが盲導犬への誤解を招かなければいいのですが。

ちなみに塩屋さんが設立したのは、アイメイト協会という組織で、こちらでは≪盲導犬≫という言葉を避けて、≪アイメイト≫という呼び方をしています。

サイトはこちら(音が出ます)

関心のある方がアクセスしてみて下さい。

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2008年9月11日 (木)

溺愛

昨日、末娘の香屋子の誕生について、英治58歳の時の子供であることに触れました。

吉川英治は、実子を得たのが年齢的に遅かったこと、それ以前に養子にしていた園子が戦災で若くして死んだことなどから、自分の孫というものを存命中にその手に抱くことはありませんでした。

ただ、還暦目前で授かった香屋子が、実質的に孫のような存在になっていたようです。

それまでの3人の実子に対するものとは違い、香屋子に対する態度は随分と甘く、溺愛していたようです。

長男の英明、次男の英穂に対しては、社会の風にあてるためという理由で、中学入学と同時に、短期間ではありましたが、家から出して知人の家に下宿させたりしました。

ところが、これが香屋子になると、小学校入学まで幼稚園にも通わせずに自分の手元に置いていました。

その代わりということでしょうか、英治が幼い香屋子を膝に抱いて、文字の手習いをさせている写真が残っています。
上の3人の実子の時にはなかった姿です。

先日も触れましたが、こうした溺愛ぶりに、私は英治の園子に対する姿を思い浮かべてしまいます。

園子に対する溺愛ぶりは相当なもので、せっかく張り替えた障子に穴を開けた園子を書生が叱ったら、あべこべに書生の方が英治に怒られた(当館館報『草思堂だより』掲載の「吉川英治先生との思い出 第2回」)だとか、学校帰りの園子が断りもなく書斎に入り込んできても、弱るばかりで怒りもしない(『文藝通信』昭和9年4月号の「仕事部屋を覗く 吉川英治の一日」)とかいう姿が、伝えられています。

ところで、園子は、いまに残る写真を見ると、髪をおかっぱにしているのですが、香屋子も幼い頃の写真ではおかっぱにしています。

もしかすると、英治は香屋子の姿に園子の面影を重ねて見ていたのかもしれない、と、私には思えます。

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2008年9月10日 (水)

ちょっと嘘つき

企画展『吉川英治の家族愛』でパネル展示するため、吉川英治が家族について書いた随筆を物色していて、ひとつ気がつきました。

「あかんぼの発見」という随筆に、こんな記述があります。

 九年ぶりで、思いがけない赤ン坊が生れた。私の年なので、晩実りすぎる。山本五十六赤ちゃんより、二つも晩い。
 その前に、子どもは男女三人あるが、書斎仕事と赤ン坊とは仲が悪い。すぐ、あっちへ行け行けで、余り抱いたこともなかった。こんどは年のせいであろう。産れ落ちるのからウブ湯まで側でまじまじ見まもっていた。
 どうもシワクチャなものである。赤ン坊とはよく云ったり。だが小人島の老人みたいに見えるのはどうしたものだろう。まもなくクシャミをする。驚いたのは、忽ち欠伸をしたことだ。それは、百年の眠りからいま醒めたといったような悠久を大人に思わす天然な欠伸であった。

これは、昭和25年6月、現在記念館となっている青梅(当時は吉野村)の屋敷で、末娘の香屋子が誕生した時の感想を書いたものです。
「山本五十六赤ちゃんより、二つも晩い」というのは、その時、英治が58歳だったということ。
なるほど、「晩実り」です。
もっとも、その時、文子夫人は30歳ですから、夫人の方からすると、ごく普通ではあるのですが。

さて、英治の長男である吉川英明は、その日の出来事を著書「父 吉川英治」の中でこう書いています。

 聞けば父は、朝、母の陣痛が始まると、心配で仕事も手につかなくなり、家の裏手にある愛宕山に登って、生れたという知らせがあるまで、愛宕神社の石段に腰かけていたそうだ。
「石段を下りる時、よく転びませんでしたね」
 と私達にからかわれたが、からかわれればからかわれるほど上機嫌だった。

お気づきでしょうか?

実は英治は「産れ落ちるのからウブ湯まで側でまじまじ見まもって」などいなかったのです。
心配で心配でそばにいられなかった、というのが、実際のところだったのです。

英明氏の話では、英治の妹のかえ、あるいはちよのどちらかが、屋敷の庭で赤い布を振って、神社境内にいる英治に、無事出産が済んだことを知らせ、それを見た英治が、一目散に石段を駆け下りてきた、のだそうです。

英治が、どうして側で見まもっていたなどと嘘をついたのかわかりません。
ちょっとした見栄でしょうか。

心配で見ていられなかったという話の方が、人間らしい一面が垣間見れて、愉快な感じがするんですけどね。

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2008年9月 9日 (火)

お礼

無事に9月7日の英治忌を終えました。
天候が心配でしたが、晴れ間も見えるような天気で、雨も閉館直前まで降らず、幸いでした。

日曜日ということもあって、400人以上の方々にご来館いただき、大変感謝しております。
ありがとうございました。

英治忌のお茶会用に紅梅苑が特別に作る≪菊一花≫というお菓子も好評で、一部店頭販売した分は売り切れるほどでした。
これも、ありがたいことです。

ちなみに、早くも来年の話ですが、来年の9月7日は月曜日で、本来は定休日ですが、英治忌を開催する予定です。

ついでに。

2005年、2007年と1年おきに英治忌の日に台風が接近するという非常に困った事態に見舞われたのですが、さて、2009年はどうなるでしょう。

鬼が笑いますか(微笑)

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2008年9月 4日 (木)

英治忌のお知らせ

ということで、こんどの日曜日、9月7日は吉川英治の命日です。

吉川英治記念館では今年も≪英治忌≫を開催いたします。

英治忌は、吉川英治の命日(1962年9月7日)にあたるこの日に、吉川文学のファンや関係者の方々に、故人を偲んで一日をゆったりとお過ごしいただく催しです。

よくお尋ねいただきますが、法要を行うというようなことではなく、どなたもご参加いただける催しです。

当日は、普段はお入りいただけない母屋の一部にお上がりいただくことが出来ます。
その母屋では裏千家淡交会青年部の協力によるお茶会が開かれ、故吉川文子ゆかりの紅梅苑の特製茶菓『菊一花』がふるまわれます。
また、庭では、広島のにしき堂より毎年お贈りいただいている賀茂鶴の樽酒をお飲みいただける他、紅梅苑の紅梅饅頭を当日の来館者全員にお持ち帰りいただいております。

時間は通常の開館時間と同じで、10時から17時まで(入館は16時30分)の開催となります。

どうぞご来館下さい。

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2008年9月 3日 (水)

生命をたのしみ給えよ

吉川英治の長男で現在当館館長である吉川英明が編集した吉川英治の名言集があります。
タイトルは「いのち楽しみ給え 吉川英治人生の言葉」(講談社 2002年)と言います。

このタイトルの元になったものを、今回の企画展「吉川英治の家族愛」の中で展示しています。

昭和24年3月に、六興出版から「宮本武蔵」第1巻が刊行されました(昭和25年4月までに全10巻を刊行)。
その際、吉川英治は、その見返し部分に献辞を書いて、息子である英明に与えました。

正しく 健康に 仲よく
母をいつくしみ
生命をたのしみ給へよ

昭和二十四年仲春 著者
吉川英明君 恵存

昭和13年10月生れの英明は、この時満年齢では10歳。
英治は、何を思って、まだ幼い我が子にこの言葉を贈ったのでしょうか。

上記の本のあとがきに、英明はこう書いています。

 十歳の私にはよく分からなかったが、今読み返してみると、英治の人生哲学は、この「生命をたのしむ」という言葉に尽きていると思う。
 生命をたのしむ……その楽しみ方は、ひとそれぞれ違う。武蔵に又八のような享楽的な日常を強いても、それは苦痛でしかないだろう。武蔵はあのストイックな生き方で、己の生命を楽しんだのだ。
 そう考えると、英治の作中人物は、露八や麻鳥はもちろん、秀吉も清盛も尊氏も、そしてあの悲劇の武将正成でさえ、それぞれ精一杯、自分たちの生命を楽しんでいるように見えてくる。
 もちろん英治本人も、生命を十二分に楽しんだ末、昭和三十七年九月、七十歳の生涯を閉じた。

まもなく、その吉川英治の命日がやってきます。

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