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2008年11月30日 (日)

小倉・門司散歩――その6

今回の文学散歩で事前に予定していた場所は、朝日新聞西部本社・延命寺・手向山・御所神社・風師山・門司城・和布刈神社の7ヶ所で、延命寺と延命寺山を混同して素通りしてしまったことを除けば、全て足を運べました。

旅行Ⅱの際に食事に招待され、ふぐを食べた≪豊作≫という店と、宿泊した≪新小倉ホテル≫を訪ねてみたかったのですが、どちらも現在はこの名前では営業していないようで、web上では検索に引っかかりませんでした。
また、松本清張記念館、北九州市立文学館の方々にも尋ねてみたのですが、急な質問だったので、お分かりになる方がいらっしゃいませんでした。
ということで、これらを探すのは断念しました。

さて、和布刈神社までまわった時点で、予定よりはいくらか時間が余ったので、門司港から対岸の下関まで渡船で渡ってみることにしました。

ところで、吉川英治は旅行Ⅰでは下関から寝台車に乗り、旅行Ⅱでは宮島を次に訪問しています。
これらの際、どのようにして本州に渡ったのでしょうか。

調べてみると、関門鉄道トンネルの開業は昭和17年。
関門国道トンネルは昭和33年開通。
関門橋は昭和48年開通。

昭和25年の旅行Ⅱでは、紀行文の文章内容からも、鉄道で関門鉄道トンネルを通ったようです。

しかし、昭和12年の旅行Ⅰでは、上記のいずれもまだ存在していないので、船で渡ったはずですが、その記述はありません。
他に行き方がないので、当然として書かなかったのでしょう。

私が乗船した現在の渡船は門司港から出て下関唐戸港に入港します。
吉川英治が渡った時はどうだったのでしょうか。
トンネルがまだなかったので、鉄道の乗り継ぎを考えると、おそらく下関駅に近い下関港に入港したのでしょう。

そのコースなら巌流島が近くに見えたはずですが、吉川英治はそれについては特に何も書き残していません。
既に日が暮れていて、見えなかったのでしょうか。

ちなみに、私が乗った唐戸へ向かうコースでは、巌流島の様子はよくわかりませんでした。
ほとんど洲のような平らな島なので、背後の彦島にまぎれてしまうのです。

現在は唐戸から巌流島に渡る定期便が運行していますが、巌流島まで行くと帰りの飛行機に間に合わない可能性があるので、あきらめました。
下関側では、大急ぎで赤間神宮に足を運んで、すぐに門司港へ取って返しました。

それにしても船が揺れます。
波しぶきも尋常ではありません。
かつて呉の音戸の瀬戸を訪ねた時に乗った渡船とは全然違います。

潮の流れが合戦を左右したということが、身体で理解できます。

今回は下関側に渡ったものの下関駅には行けませんでしたが、旅行Ⅰの際、下関駅ではちょっとした笑い話が残っています。

下関駅で、吉川英治が不審者として刑事から誰何されたというのです。

何しろ要塞地帯ですから、警戒は厳重だったのでしょう。

まあ、テレビもなかった時代、既に売れっ子の人気作家だった吉川英治の顔を、東京から離れた場所の刑事が知らなくても不思議はありません。

吉川英治は随分ご立腹だったようですが、刑事の方もまさか身長150cmそこそこの小男が、あの「宮本武蔵」を書いた人物だとは、思いもしなかったでしょう。

時代を考えると、笑えるような笑えないような逸話です。

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2008年11月29日 (土)

小倉・門司散歩――その5

御所神社から門司駅前まで歩き、そこでタクシーに声をかけました。
「風師山から巌流島を見下ろしたいので、車で行ける所まで行ってもらえませんか」と。

旅行Ⅰの際、吉川英治は船を頼んで巌流島に渡ろうとしました。
しかし、現地の朝日新聞支社のカメラマン(「宮本武蔵」は朝日新聞に連載されました)から、島に上陸しても見るものはない、それより風師山から大観した方が往時を想像するのにいい、とアドバイスされたため、渡島はあきらめて、自動車で風師山に登り、巌流島を眺めました。

それをやってみようというわけです。

運転手さんは、「風師山って車で行けるの?私は行ったことがないよ」と言いながらも、快く引受けてくれました。

まあ、タクシーで行く人はいないでしょうねぇ(笑)

ハイキングしている人を追い抜きながら、行ける所まで行ってみると、自動車で入ることができる道の突き当りが展望台になっていて、そこから巌流島を見下ろすことが出来ました。
吉川英治がたどり着いた場所もここだったのでしょうか?

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ただ、現在は巌流島の方向には樹木が生い茂っていて、木の間から島が見えるという感じで、見渡す、とまではいきませんでした。

風師山から、そのままタクシーで和布刈公園まで行きます。
ここには、門司城址があります。
地図にそのもの≪古城山≫と書かれている頂に登ると、そこに『史蹟 門司城跡』の石碑があります。

Img_1692

門司城は「最初平知盛が源氏との合戦にそなえて、長門国目代紀井通資に築城させた、といい伝えられている」と北九州市教育委員会が設置した説明板にあります。

山腹の岩角に立つ。枯れ尾花に、風がつよい。

と、吉川英治は書いていますので、山頂まで登ってはいないかもしれませんが、旅行Ⅱの際、吉川英治はこの山から関門海峡を見下ろして壇ノ浦の合戦について思いをはせています。
まだ関門橋が架かっていない頃ですから、眺めは良かったでしょう。

ちなみに、山腹にある展望台から関門海峡を撮影したパノラマ写真がこれです。

Kanmon_1

この時、吉川英治は山陰に工場らしい建物と守衛小屋があるのを見て、山に立ち入るの逡巡してしまい、案内してくれた朝日新聞西部本社の人間に笑われているのですが、逡巡した理由について

かつての要塞地帯時代にビクビクさせられた神経が、ひどいもので、まだどこかに残っていたものとみえる。

と書いています。
その言葉通り、古城山の山頂にも、先程の手向山同様、砲台の跡がありました。

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旅行Ⅰの際に、手向山ではなく延命寺山に行かなければならなかった記憶がダブったのかもしれません。
それに、写真に司令部の許可が必要だったことも。

山を下ったところの海際に和布刈神社があります。

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旅行Ⅱの際、最初に訪ねたのがここで、ここから海峡を眺め、色々と説明を受けています。

訪ねた時には、神社はまだ戦後の荒廃から抜け切れておらず、崖が崩れていたり、松や杉もあとかたもない、という状況だったようです。
「こんな所まで、戦火は余さなかったものか」と書いていますが、神社の頭の上が砲台では仕方のないことでしょう。
いまは関門橋が頭の上を走ります。

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何も、思いを平家敗戦の遠くにまで持ってゆくには及ばない。つい昨日のぼくらの身ぢかでたくさんだ。そうじゃないか、生き残りの痩セ木君。

からくも境内に残ったわずかな木々に、吉川英治は語りかけています。

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2008年11月28日 (金)

小倉・門司散歩――その4

延命寺を辞去し、≪宮本武蔵顕彰碑≫が初めに建てられた場所であり、現存する場所でもある手向山に向かいます。

現在は手向山公園となっているこの小山の山頂部に、碑はあります。

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写真では何度も見ていますが、実物の前に立つと、大きな碑でありながら、やや華奢な感じに見え、意外と女性的な印象を受けます。
宮本武蔵に関する逸話には、その人柄の狷介さ、猛々しさを伝えるものが多くありますが、養子の伊織にとっての武蔵の印象を、この碑の姿が反映しているのなら、武蔵観を改めなければいけない、そんな気すらしました。

ちなみに、同じ手向山山上の、この碑の近くに村上元三の小説「佐々木小次郎」の連載完結を記念する碑が建てられています(昭和26年建立)。

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なぜ?

呉越同舟という感じで、少ししっくりきません。

砲台が造られる前、ここには≪宮本武蔵顕彰碑≫があっただけではなく、宮本伊織の流れを汲む宮本家代々の墓所もありました。
明治20年に砲台の建設にともない、宮本家の墓所は手向山の小倉側のふもとに移されました。
現在もそこにあります。

Img_1644

何もそんな場所に小次郎の碑を建てなくても。

ちなみに碑の設計者は谷口吉郎。
吉川英治とも交流があり、吉川英治の墓や吉川英治記念館の設計者でもあります。

小次郎の眉涼しけれつばくらめ

と刻まれています。

ところで、文学館協議会の部会の合間に、市立文学館の受付の女性に、「小倉から門司まで歩くとどのくらい時間がかかる?」と尋ねたところ、「歩かずにバスを利用した方がいい」と言われてしまいました。

そう言われると歩きたくなるのが人情というもの(?)

で、ホテルから手向山まで歩いてきました。
7時20分にホテルを出て、砂津と延命寺で写真を撮って、手向山にたどり着いたのは8時30分過ぎ。
近いじゃないですか(微笑)

しかし、手向山でゆっくりしていたら時刻は10時に。
ここから門司駅前までは立ち寄る場所もないし、時間に制限もあるので、結局、路線バスに乗って大里という所まで一気に移動してしまいました。

旅行Ⅱの際、吉川英治は「大里の柳ノ御所址」に立ち寄っています。
柳の御所は、平家一門とともに西海に落ち延びた安徳天皇の仮御所。
その場所とされるのが、現在の御所神社です。

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と言うことで御所神社を訪ねたのですが、吉川英治の文章とは印象が違います。

裏町の家と家とのあいだに、樹木もない鳥居とトタン屋根だけの裸のお宮がそれであった。

と、吉川英治は書いています。
しかし、御所神社の社殿は、神社に掲げられた説明書きによれば、明治35年に明治天皇が熊本での陸軍特別大演習に行幸した際に休憩所として使用した大里停車場構内の建物を、翌年移築したものだとあります。
だとすると吉川英治が訪ねた時にもあったはずです。
これを「裸のお宮」と言うのは、ちょっと違うような気がします。

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鎮守の森もない、ということならば、現在の御所神社も、そのような姿ではありますが。

柳の御所の場所にはいくつか説があるらしいので、案内されたのは別の場所だったのでしょうか。

ちなみに、吉川英治は、幼い安徳天皇の御所址が、近所の子供たちの遊び場になっている様を見て、

敗戦国の子供らが、ここに遊び群れているのを見給え、いかにもふさわしい一幅の歴史画ではないか。また、一篇の詩ではあるまいか。

と書いています。

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2008年11月27日 (木)

小倉・門司散歩――その3

さて、部会の開催された翌22日、小倉から門司に向けて、吉川英治の足跡をめぐりました。

宿泊したホテルから、先日触れた朝日新聞西部本社があった砂津を通過して、延命寺に向かいます。
旅行Ⅰの際に、吉川英治は≪宮本武蔵顕彰碑≫を見学するために、この延命寺を訪ねています。

と書くと、おやっ、と思われる方もいらっしゃるでしょう。

≪宮本武蔵顕彰碑≫は、武蔵の養子・伊織が、武蔵没後9年の承応3年(1655)に、主君の小笠原忠真から拝領した手向山に建立したもので、現在も碑はその手向山に立っています。

それなのに、なぜ訪ねた先が手向山ではなくて延命寺なのか?

関門海峡は交通の要衝です。
そのため、明治維新後、海峡の防衛のために、海峡を望む手向山に砲台が築かれます。
砲台は明治20年起工、翌21年竣工。
昭和20年8月の敗戦まで、砲台は存続しました。
現在も、砲台の痕跡が数多く残っています。

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この砲台建設の際、邪魔になる≪宮本武蔵顕彰碑≫を、手向山から近い延命寺山に移設しました。
経緯から言って、明治20年か21年のことでしょう。
吉川英治は、その移設された碑を見学したのです。

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九州ではよく見られる石の仁王像のあるこの寺が延命寺です。

私が延命寺にたどり着くと、お寺の方が落葉を掃いておられました。
そこで、碑が移設されていた場所はどこなのか、手向山に戻されたのはいつなのか、ということをお尋ねしました。
しかし、残念ながら、碑が移設されていたこと自体をご存じないというお答えでした。
昭和12年なら先々代の住職の時のことで、先代の住職なら何か知っていたかもしれないが、亡くなってしまい、自分ではわからない、とのこと。

おかしいなと思い、帰京後、改めて確認してみると、延命寺は第二次長州征伐における戦火で焼失し、大正年間に現在地に移転、復興されたものだとのこと。

ということは、延命寺の元あった場所が延命寺山で、現在の延命寺は吉川英治が訪ねた場所ではない、ということになります。
地図には≪延命寺山≫という表記は見当らなかったので、てっきり現在の延命寺の場所が≪延命寺山≫なのだと思い込んでいました。

大失敗です。
せっかく小倉まで行きながら、素通りしてしまいました。
残念。

ちなみに、これが吉川英治が訪ねた時の写真です。

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ここに写っている建物は延命寺ではないということですね。

なお、この写真の裏には「下関要塞司令部許可済」の印が捺されており、一帯が要塞地帯であったことを実感させます。

甘酒すら売れない冬の山へ、何をしに何を見に、いったいやって来て、寒そうにいつまでも石など仰いで行ったのだろうと不審がるように、近所の住宅の奥さんが、蒲団の干してある二階から私たちを眺めていた。

という一文で、吉川英治は旅行Ⅰの紀行文を終えています。
まったく、自分自身に対して「何をしに何を見に、いったいやって来」たのかと、ガッカリしました。

ちなみに、吉川英治の文章では、碑を見た後、列車の時間が近づいたのですぐに下関に向かったように書かれていますが、野口駿尾の記述では、この後、門司市内の料亭でふぐ料理を食べたことが書かれています。
ただ、店の名は書かれていないので、どこのことなのかはわかりません。

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2008年11月26日 (水)

小倉・門司散歩――番外編の1

さて、部会の会場である松本清張記念館は、その小倉城内の一画に1998年に開館しました。

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写真は松本清張記念館の入口前です。

館内に累計の来館者数が90万人を突破したことが掲示されていました。
開館から10年でこの数字というのは、文学館では大きな数字でしょう。

ちなみに、当館の場合は1977年の開館で、1987年に入館者100万人に到達しました。
同じようなペースですね。
ただし、当館は、近年は来館者数の減少が著しく、こんな話も昔日の栄光という感じになっていますが。

びっくりするのは、館内に松本清張の東京都杉並区の自宅を再現していること。
書斎の再現くらいならあちらこちらにありますが、2階建ての家(全部ではないにしても)を屋内に再現しているのには、驚きます。

来館者の方って、研究者でない場合は、家とか、持ち物とか、日常生活とか、そういうことへの関心が高いんですよね。
ですから、当館のように自宅敷地内に開館していればいいですが、そういうこととは無関係な場所に記念館を建てた場合、どうしても来館者の方も満足しきれないものが残ってしまうように思います。

その点、ここまでやれば、圧倒されます。

ただし、逆にここまでやってあるので、中に入ってみたいという欲求(中は見えますが立ち入り禁止になっています)がかきたてられてしまう難点がありそうですが。

いずれにせよ、個人記念館だからこそ出来ることではあるでしょう。

道路を挟んでそのすぐ南にあるのが北九州市立文学館です。
北九州市内にあった市立の歴史博物館、自然史博物館、考古博物館が統合され、北九州市立自然史・歴史博物館(通称=いのちのたび博物館)として2002年に開館したため、残された歴史博物館の建物を活用して2006年に誕生したのが、この文学館です。

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写真の緑色のドームの中が、文学館です。

新しい文学館ですが、経緯からわかるように建物自体は古いものということになりますね。
隣接する市立中央図書館とともに磯崎新の設計で1975年に開館したもののリニューアルということになるそうです。
もともと文学館として建てられたわけではないので、多少しっくりこない印象は受けます。
また、リンク先でわかるように、まだ自前のwebサイトも無い状態だそうです。

とは言え、今回お目にかかったスタッフの方々は、みなお若いようなので、これからだんだん変わっていくでしょう。

楽しみにしたいところです。

・・・って、先輩ぶって偉そうに(微笑)

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2008年11月24日 (月)

小倉・門司散歩――その2

北九州空港からバスで小倉駅前に到着し、すぐに部会の会場である松本清張記念館に向かって徒歩で移動します。
21日は雨模様でしたので、アーケードのある商店街の中を通って目的地の方向に向かいました。

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アーケードが途切れたところで、目の前に大きなビル群が。
写真中央の黒っぽいビルが、朝日新聞西部本社です。

以前このような形でご紹介しましたが、旅行Ⅱの際、吉川英治は当時朝日新聞西部本社に在職中だった松本清張と対面しています。

ただ、松本清張記念館の方に伺ったところ、その当時の西部本社の位置は現在とは違うとのこと。
そこで部会の翌22日にご教示いただいた場所を訪ねてみました.
こんな感じです。

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住居表示は≪砂津≫、“チャチャタウン”という商業施設の道路向いの一帯です。
何も建物がないのは、道路の拡幅計画のため建物が移転してしまっているためのようです。
ということは、昭和を代表する作家2人が出会った場所は道路の下になってしまうわけですね。

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さて、先程のビル群の背後にまわると、そこが小倉城です。

吉川英治が小倉城を訪ねたかどうかは、文章中に記載がないのでわかりません。
というより、記載がないところをみると、どうやら立ち寄らなかったようです。

小倉城は、宮本武蔵の養子・伊織が仕えた大名・小笠原忠真が兵庫の明石から移封されて入った城です。
伊織は忠真の下で家老にまで出世し、武蔵もその伊織の勧めでしばらく小倉に住んでいました。
当然、忠真に小倉城で謁見したこともあったでしょう。

もっとも、そういう縁のある城ではあるものの、小倉城は江戸末期の失火で天守閣を失い、幕末の長州征伐の際に城内を焼失、維新後は軍の関係施設になっていましたから、昭和12年時点で吉川英治がそこを訪ねなくても不思議はありません。

ちなみに、天守閣は、旅行Ⅱよりもさらに後の、昭和34年に再建されたそうです。
その意味では歴史の浅い、新しいものではあるわけですが、と言って背後の新しいビルと組み合わさったこの眺めはどうなのかと思ってしまったりもします。

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2008年11月23日 (日)

小倉・門司散歩――その1

11月21日に全国文学館協議会の展示情報部会が開催されました。
主催館は北九州市立文学館で、会場は北九州市立松本清張記念館でした。
そう、福岡県北九州市は市立の文学館を2館も持っている奇特な地方自治体なのです。
いや、『奇特』は失礼ですね。
それだけ文学との関わりの深い都市であるということです。

さて、今回の私の目的は、部会への参加よりも、タイトルの通り、一人文学散歩の方にありました。

吉川英治は、少なくとも2回、2つの文学館のある小倉から門司にかけての一帯を訪ねています。

1度目は、昭和12年1月17日。
連載中であった「宮本武蔵」の取材旅行として(以下『旅行Ⅰ』)。

この時は、同日早朝に熊本駅から鉄道で出発し、午前中に門司駅に到着。
何ヶ所かに足を運んだ後、その日のうちに下関に移動して、下関駅から寝台急行に乗って大阪に向かっています。

2度目は、昭和25年12月20・21日。
これまた連載中であった「新・平家物語」の取材旅行として(以下『旅行Ⅱ』)。

この時は別府駅を昼前に発って、門司駅に午後到着。
小倉に1泊して、翌日、広島の宮島に向かっています。

これら旅行Ⅰ・Ⅱについては、吉川英治が書いた文章が「随筆宮本武蔵」(「巌流島拾遺」「小倉紀行」)、「随筆新平家」(「門司・小倉あるきの巻」)に収録されています。
また、旅行Ⅰについては、同行した画家の野口駿尾による「好日の旅」(『書と詩画』昭和12年4月号)という文章も残っています。

それらから確認できる吉川英治の立ち寄り先をまわってみようというわけです。

以下、吉川英治の動向ではなく(苦笑)、私が歩いた順番にあわせて、ご紹介していきます。

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2008年11月16日 (日)

お礼など

一昨日、当館主催の初めての文学散歩を実施しました。

ご参加いただいた皆様、また、残念ながらご応募いただきながら選に漏れた皆様、ありがとうございました。

道路事情などで心配な場所が何ヶ所かあったのですが、何事もなく終了して、ホッとしています。

最初の立ち寄り先で、事前に調べておかなかった部分になぜか質問が集まってしまい、あたふたしたので、ご不安になった方もいらしたのではないかと思いますが、いかがでしたでしょうか?

実施した側としての感想も様々ありますが、ちょっと意外だったことがひとつ。

≪奉安殿≫をご存知でない方って、結構いらっしゃるんですね。
現在の青梅第五小学校のそばに、かつての奉安殿を転用した祠があるのですが、そのことに触れたところ、「奉安殿って?」という質問が相次いだので、ちょっと驚きました。

今回ご参加いただいたのは37名で、その年齢構成は60代が21名と一番多く、以下、70代が9名、50代が5名、40代以下が2名で、最も年齢の高い方が77歳でした。

考えてみると、終戦からは今年で63年。
したがって、70代の方は戦前に既に小学校に入学なさっておられたでしょうが、60代の方は大半が戦後になってから学校に通った方々になるわけで、実体験として≪奉安殿≫をご存知の方はいらっしゃらなくて当然と言えば当然なんですね。
とは言え、40代である私よりも戦争に近い時代を生きていた方々なのだから、体験はなくても当然ご存知だと思っていたのですが、そうでもないと知って驚いたわけです。

意外なところで、戦前と戦後の断絶を見た気がしました。

近い時代の歴史でも、自分が直接体験していないことは、意識的に学ばなければ、わからないことも多い、ということですね。

ところで、以下はご連絡です。

散歩中に「三国志」のことでご質問を下さった方。
いま手元に資料がないので後でメールを下さい、と言って、私のメールアドレスをお教えいたしましたが、もしかしたら間違えてお教えしたかもしれません。
もしこのブログをご覧でしたら、「プロフィール」欄から私にメールが送れるようになっていますので、そちらをご利用ください。

よろしくお願いいたします。

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2008年11月11日 (火)

演歌

本年度吉川英治文化賞受賞者のお一人が嶽釜徹さんです。

この嶽釜さんについてのこんな記事がありました。

よく、中南米移民の方々の方が、現代の日本人よりもより≪日本人らしさ≫を残している、というようなことが言われますが、その意味では、演歌的な心情、風景というのは、今の日本よりは各地の移民の方々の方が、よりしっくり来るかもしれません。

ちょっと面白い記事だったのでご紹介してみました。

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2008年11月 9日 (日)

Bild/画 うまれるとき

本日から上記タイトルの展覧会が始まります(~11月24日)。

これで5年目になるアートプログラム青梅の関連企画です(アートプログラム青梅自体は6回目)。

昨年もここで展示をなさった母袋俊也東京造形大学教授と、その指導を受けている学生5人(清水鮎美・松本菜々・森智沙帆・山根一晃・横山大河)の作品を展示しています。

ちなみに母袋先生の作品はこんな感じ。

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?と思った人は、ぜひご来館下さい。

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2008年11月 6日 (木)

菊・菊・菊

現在、庭内では菊花展を開いていますが、それ以外の、庭に植えてある様々な種類の菊の花も盛んに咲いています。

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2008年11月 5日 (水)

最近の出来事

以前にも取り上げたことのある言葉ですが、吉川英治の『虚名と人気』(随筆集「折々の記」所収)にこんな一節があります。

人気というものは、低気圧のようなものでまるであてにならないものだ。第三者として見物している分にはあるいは面白いかも知れない。その反面、人気に乗せられたために、自分で自分の方向がわからなくなり、一生を誤ってしまうことになった天才的な人がいくらもいる。気の毒なことだ。持ちあげても、二尺か三尺のところで落としてくれればまだいい、それならば怪我をせずにすむのだが、当人の思惑も考えずにワッショイ、ワッショイと天井までかつぎあげておいて、いきなりドスーンと落としてしまう。人気というものはそういういたずらものである。

私は生憎≪小室サウンド≫のファンではなかったので、サビ以外の部分を知っている曲は1曲もないほどですが、それでも、この二日間の報道を見ていると、≪見物の面白さ≫よりは哀れを感じます。

ところで、このことがあって『虚名と人気』を読み直していたら、以下のような記述があって、これはこれでこの1週間ほど話題になっている別の人物につながるような言葉だなと思ったので、ご紹介してみます。

アメリカの占領政策で歴史教育が禁止され、日本の歴史上の人物が抹殺されたことについてはいろいろのことが言われ、これに関して歴史教育を復活し、歴史上の人物に対する尊敬崇拝を再び喚起しなければならないという議論がおこなわれているというが、しかし変革期にあたって、歴史上の人物が封じ込められてしまうようなことは往々あることで、不思議な現象でも何でもないと思う。むしろ世の中が流転している以上これは年とともに変わってゆくのが当然であろう。(略)新しい時代が来ると、とたんに古いものをぜんぶぶちこわしてしまう。ところがその新しいものが永遠に新しいかというと決してそうではない。その新しいものもたちまちのうちに古くなってしまう。こういうことの繰り返し、それが人間の歴史なのではないだろうか。

初出は確認できていませんが、「折々の記」が昭和28年初版なので、昭和20年代の発言であることは確かです。

次に何か大きな変革が訪れるまで、言論も同じ所を堂々巡りし続けるのでしょう。

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2008年11月 1日 (土)

営業時間

月が替わりました。

毎年お知らせしていますが、11月からは営業時間が冬時間に変更になります。

開館は10時で変わりませんが、閉館時間は30分早くなって16時30分になります。
それにともなって、入館締め切り時間が16時になります。

来年2月まで、この時間になります。

ご注意下さい。

よろしくお願いいたします。

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