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2008年11月27日 (木)

小倉・門司散歩――その3

さて、部会の開催された翌22日、小倉から門司に向けて、吉川英治の足跡をめぐりました。

宿泊したホテルから、先日触れた朝日新聞西部本社があった砂津を通過して、延命寺に向かいます。
旅行Ⅰの際に、吉川英治は≪宮本武蔵顕彰碑≫を見学するために、この延命寺を訪ねています。

と書くと、おやっ、と思われる方もいらっしゃるでしょう。

≪宮本武蔵顕彰碑≫は、武蔵の養子・伊織が、武蔵没後9年の承応3年(1655)に、主君の小笠原忠真から拝領した手向山に建立したもので、現在も碑はその手向山に立っています。

それなのに、なぜ訪ねた先が手向山ではなくて延命寺なのか?

関門海峡は交通の要衝です。
そのため、明治維新後、海峡の防衛のために、海峡を望む手向山に砲台が築かれます。
砲台は明治20年起工、翌21年竣工。
昭和20年8月の敗戦まで、砲台は存続しました。
現在も、砲台の痕跡が数多く残っています。

Img_1599

この砲台建設の際、邪魔になる≪宮本武蔵顕彰碑≫を、手向山から近い延命寺山に移設しました。
経緯から言って、明治20年か21年のことでしょう。
吉川英治は、その移設された碑を見学したのです。

Img_1566

九州ではよく見られる石の仁王像のあるこの寺が延命寺です。

私が延命寺にたどり着くと、お寺の方が落葉を掃いておられました。
そこで、碑が移設されていた場所はどこなのか、手向山に戻されたのはいつなのか、ということをお尋ねしました。
しかし、残念ながら、碑が移設されていたこと自体をご存じないというお答えでした。
昭和12年なら先々代の住職の時のことで、先代の住職なら何か知っていたかもしれないが、亡くなってしまい、自分ではわからない、とのこと。

おかしいなと思い、帰京後、改めて確認してみると、延命寺は第二次長州征伐における戦火で焼失し、大正年間に現在地に移転、復興されたものだとのこと。

ということは、延命寺の元あった場所が延命寺山で、現在の延命寺は吉川英治が訪ねた場所ではない、ということになります。
地図には≪延命寺山≫という表記は見当らなかったので、てっきり現在の延命寺の場所が≪延命寺山≫なのだと思い込んでいました。

大失敗です。
せっかく小倉まで行きながら、素通りしてしまいました。
残念。

ちなみに、これが吉川英治が訪ねた時の写真です。

370117_1

ここに写っている建物は延命寺ではないということですね。

なお、この写真の裏には「下関要塞司令部許可済」の印が捺されており、一帯が要塞地帯であったことを実感させます。

甘酒すら売れない冬の山へ、何をしに何を見に、いったいやって来て、寒そうにいつまでも石など仰いで行ったのだろうと不審がるように、近所の住宅の奥さんが、蒲団の干してある二階から私たちを眺めていた。

という一文で、吉川英治は旅行Ⅰの紀行文を終えています。
まったく、自分自身に対して「何をしに何を見に、いったいやって来」たのかと、ガッカリしました。

ちなみに、吉川英治の文章では、碑を見た後、列車の時間が近づいたのですぐに下関に向かったように書かれていますが、野口駿尾の記述では、この後、門司市内の料亭でふぐ料理を食べたことが書かれています。
ただ、店の名は書かれていないので、どこのことなのかはわかりません。

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