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2008年12月24日 (水)

年末年始の休館のお知らせ

本日12月24日が、吉川英治記念館の年内の営業最終日になります。

明日12月25日から、年を越して1月5日まで休館となります。

ご理解たまわりますようお願い申し上げます。

今年も一年間ありがとうございました。
来年もよろしくお願いいたします。

良いお年を。

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2008年12月23日 (火)

文藝の三越――川柳部門

さて、ここで川柳部門について少し詳しく見てみましょう。

川柳部門は一等1人、二等2人、三等5人、四等10人、それと撰者である井上剣花坊の作品が2句の、合計19人20句が、この冊子に掲載されています。

一等はもちろん≪吉川独活居≫こと吉川英治ですが、以前触れたようにその作品は

駿河町地を掘り空へ伸してゆき

というものです。

残りの当選者17人の中に、吉川英治と親しかった花又花酔の名が見えます。
花酔は「生まれては苦界死しては浄閑寺」の句で有名ですが、ここでは

駿河町凡そ天地の美をあつめ

で四等になっています。

この2人の師であり撰者でもある剣花坊の句は、この2句です。

駿河町引きぞわずらふ気味があり
竹の間にさながら天女あまくだり

三等に佐瀬雲雨閣という名がありますが、剣珍坊と言った方が通りがいいでしょう。
この人物も剣花坊の柳樽寺川柳会の同人です。
当選作品は

寄せ切れの腕をおもちやへ引つ張られ

尾藤三柳編の『川柳総合辞典』に名の見える人物が他に2人います。

二等の平瀬蔦雄は読売川柳会の作家ながら川上三太郎・寺井紅太郎らと千鳥会を結成した人物。
当選作品は

三越の話に読書向き直り

四等の藤波楽斎は、明治期の川柳界を牽引した人物の1人だそうです。
そんな人物がどうして懸賞に応募したのでしょう?
作品は

三越で買つたとぬかすやなぎはら

雉子郎=吉川英治に「柳原涙の痕や酒のしみ」という作品もありますが、柳原が当時の古着屋街だったことを踏まえると、意味がつかめてきます。

三等に「下谷 森井深編笠」という人物が入っています。
手元の資料には「深編笠」という号は確認できませんが、下谷の森井というと森井荷十のことでしょうか?
だとすれば、窪田而笑子門下の人です。
作品は

三越に委せ都の人となり

川柳部門以外のところで川柳人の名を見つけました。

一口噺の四等に、大阪で活躍した麻生路郎が入っています。

番頭「新橋と上野の中の呉服店どちから来ても橋を三越――、どちから来ても橋を三越か、全く巧いね」
小僧「それぢや番頭さん、深川や麹町から来たらどうなります」

というのが、その作品。

「新橋と上野の中の呉服店どちから来ても橋を三越」というのは、当時の宣伝文句だったのでしょうか?
それをおちょくったのでは、四等もいたし方なしというところでしょうか。

川柳部門以外というと、写生画部門一等の池田永治の名に、なんだか見覚えがあると思って調べてみたところ、池田永一治と同一人物でした。
池田永一治ならば、個人的に買い集めた『川柳漫画全集』に漫画を描いている画家の1人です。

確認してみたところ、『川柳漫画全集10 ユーモア・ビル 大正の巻』では、雉子郎の句も絵にしています。
ちなみに、その句は

世の中におふくろ程なふしあわせ
貰はれて行く子に袂ただ嬉し

の2句です。

果たして、同じ懸賞で共に一等になった2人の≪エイジ≫の間に、何らかの交流はあったのでしょうか?

こういう状況を見るとありそうな気もしますが、残念ながら確証はありません。

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2008年12月21日 (日)

文藝の三越――承前

さて、各部門三等もしくは四等まであり、当選者の総数は二百人。
三越が発行していた雑誌『三越』の大正2年12月号で結果を発表した上で、作品を収録したこの冊子を大正3年1月10日付で刊行しています。

ただし、掲載されているのは脚本、小説、論文、写生文、狂言、お伽脚本、お伽噺、長唄・常磐津・清元、落語は一等のみ。唱歌は二等まで。写生画は三等まで。一口噺、端唄、和歌、俳句、川柳、狂詩、狂歌、情歌は四等まで。表紙図案は明記はありませんが、実際にこの冊子の表紙に用いられているもののようです。

昨日リンクをつけた先で引用した菊池寛の「半自叙伝」の記述では

そのとき僕は「流行の将来」という課題に応募し、三等に当選して五十円を貰った。

とあります。
この課題は論文部門のものですが、残念ながら論文は一等しか掲載されていない上に、二等以下の名はこの冊子の方では割愛されているので、菊池寛の名はこの冊子の中にはありません。
ついでに言えば、論文部門は二等五十円、三等三十円となっていますので、菊池寛はもらった額か、自分の当選した等級のいずれかを記憶違いしていることになるのですが、『三越』は所蔵していないので、今は確認できません。

ちなみに、各部門の一等当選者は以下の通りです。

小説=松村みね子
脚本=田頭音一
論文=手塚小南
写生文=匂ひ草(横山碧川)
お伽脚本=杜口なぎさ(森口多里)
お伽噺=足立昌雄(鈴木狭花)
狂言=中村伊之吉(中村秋湖)
常磐津=若松操(浅井房次・中井哲)
唱歌=横田小寿栄
落語=鈴木蘭蝶(鈴木増蔵)
一口噺=下谷花色(伊藤秀雄)
端唄=野村波の家(野村宇一郎)
和歌=正木ふぢ
俳句=荒川小虹子(荒川倫子)
川柳=吉川独活居
狂詩=岡野辰之助
狂歌=小林里子
情歌=但馬伽羅蔵
表紙図案=小林専
写生画=池田永治

『文藝の三越』には、各一等当選者のプロフィール紹介文があり、そこに本名や別名が記載されている人物についてはそれをカッコ内に記載しました。

当時の文壇・論壇・画壇に関心のある方なら気になるであろう人物も含まれています。
とりあえず「日本近代文学大辞典」(日本近代文学館編 講談社)を確認してみると松村みね子と森口多里の名が見つかります。

松村みね子は、ここでのプロフィール紹介では「文学博士佐々木信綱氏の門下で別に本名のある方らしいのでございますが、本名を出す位なら賞金も要らぬ、棄権してしまふといふ程に謙遜な態度」なので本名は伏せるとしています。
このことから、同姓同名の別人ではなく、佐々木信綱門下の歌人として今に名を残す片山広子(これが本名)であることは間違いないでしょう。
松村みね子名義では、アイルランド文学の翻訳で業績を残しているようです。

森口多里は、ここでは「早稲田大学文科の三年生です近頃は『早稲田文学』などで美術の評論をして居られます」と紹介されていますが、まさに後年、美術評論家として名を残しています。

さて、このうちの≪吉川独活居≫が、本名・吉川英次、後の国民作家・吉川英治なわけですが、そのプロフィール紹介文は

△川柳第一等当選者古川独活居氏
『剣花坊門下でも新参の方、故参の人々も沢山出吟して居るのに、自分が当選したとは洵に意外です』と極めて謙遜な青年。

となっています。

≪古川≫って(苦笑)
ルビまでちゃんと「ふるかは」になってます。
せっかく一等になったのに、ちょっとあんまりな話です。

それと、他の当選者については本名がどうの、職業がこうのという話が紹介されているのに対して、吉川英治のものはたったこれだけ。

逆に言えば、まだこの時の英治は、素性もよくわからない満年齢で21歳の若造に過ぎなかったことが、よくわかります。

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2008年12月20日 (土)

文藝の三越

1904年の今日、東京日本橋の三井呉服店が三越呉服店と改称し、デパート式の営業を始めたのだそうです。

その三越と吉川英治の関わりについては、以前、こんな形で触れたことがあります。

そこで取り上げた『文藝の三越』という冊子ですが、web上で検索してみると国会図書館や東京大学ぐらいにしか所蔵がないようで、なかなか目にする機会も少ない資料だと思いますので、少し詳しくご紹介してみます。

冊子と書きましたが、版型は四六版、表紙はハードカバーで、ノンブルのあるページ数が254ページもある立派な本です。
定価三十五銭となっており、有料で販売されたようです。

緒言には、明治40年以来、三越が文芸学術の振興のために度々懸賞募集をしてきたことを述べ、この『文藝の三越』は、大正2年9月締め切りで募集したものの優秀作品を集めたものであることを書いています。
もっとも、募集規定には

一、各種文芸の材題は、多少三越呉服店と交渉あるものなる事を望む

とありますから、これは宣伝ですと言っているようなものですが。

この時に募集した部門は20部門。
それを書き連ねてみると、

脚本、小説、論文、写生文、狂言、お伽脚本、お伽噺、長唄・常磐津・清元、唱歌、落語、一口噺、端唄、和歌、俳句、川柳、狂詩、狂歌、情歌、表紙図案、写生画(スケッチ)

となっています。
現在ではちょっとピンと来ないものもありますが、これがその当時の庶民にとっての身近な≪文藝≫だったということでしょう。

応募には条件や課題が与えられているものがあり、脚本は『喜劇 一幕物』、論文は『流行の将来』か『三越論』を選択、唱歌は題が『三越の歌』、川柳は題が『三越』になっています。

選者の顔ぶれも錚々たるもので、今でも名の通る人をかいつまんでみると

岡本綺堂(脚本)、幸田露伴(小説)、森鷗外(小説)、巌谷小波(お伽脚本、お伽噺、狂言)、半井桃水(長唄・常磐津・清元、端唄)、岡鬼太郎(落語、一口噺)、前田曙山(一口噺)、井上通泰(和歌)

といった名が見えます。

賞金総額は三千円。
一等賞金が高いのは脚本、小説で三百円。次いで論文、お伽脚本、表紙図案で百円。写生文、お伽噺、狂言、長唄・常磐津・清元、唱歌、落語は五十円。端唄が三十円。残りの一口噺、和歌、俳句、川柳、狂詩、狂歌、情歌、写生画は二十円になっています。

和歌や俳句より一段下に見られがちな川柳や狂歌が同じ賞金額なのに対して、端唄がちょっと高い三十円になっているなど、当時の感覚は、現在とは相当違っているようです。

応募総数は35897。
最も多いのは俳句の10972。次が川柳の8943。5000を越えているのはこの2部門だけで、1000を越えているのはこの他に一口噺(2369)、和歌(3213)、狂歌(4034)、情歌(3654)の4部門。
最少は狂言の31で、論文(98)、写生文(42)、お伽脚本(52)を加えた4部門が応募が100未満です。

「外に規則違犯 三百九十八」とあるのは、三越に無関係なものだったんでしょうか(笑)

長くなったので、明日に続きます。

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2008年12月13日 (土)

予感

吉川英治が書いた文章で将棋に関わるものとして、私の印象に残っているものに、こんな話があります。

その菊池寛が死んだ当日の朝、氏と将棋をさしたと、後でぼくに語った人がある。「三番さして、二勝した」と、自慢して云う。「日頃は」と訊いたら「日頃だったら、十回に一ぺんだって、勝ッたためしはありませんよ」ぼくは暗然としてしまった。で、つい「君は、菊池の死期が迫っているなと、そのとき、気がつかなかったのか。君なんか、将棋をさす値打がないよ」と、吐き出すように悪たれてやった。何も、その人のせいではないのに。
(『友の臍』随筆集「折々の記」所収)

菊池寛が文壇きっての将棋の強豪であったからこそ成り立つ話で、吉川英治の腕前では普通の話になってしまいます。

とは言え、人の死期など、分かるものではありません。
吉川英治自身、若い頃、有島武郎の死を予見できなかったという話が残っています。

そして、菊池寛の死に際しても、亡くなる四、五日前に菊池寛を見舞った時に、死期を感じることはできなかったという話を、上記の文の続きに書いています。

それが表題の≪友の臍≫という話。

「下痢が止まらない」と言う菊池寛に、自身もよく腹を壊す英治が「自分はヘソに味噌灸をしたら下痢に効いた」と話したら、菊池寛が「それをすえてくれ」と求めた、という話です。

随筆はこんなふうに終っています。

指圧も、あんまも、したことがなく、女はべつとして、人に肌をさわられるのが、大嫌いな彼である。よくよくな心理だったとみえ、ラクダのシャツをめくって、ヘソを出した。(略)
いま思うと、もう死色は漂っていた顔だったにちがいない。だが、いい気もちそうに、彼はウトウトし出した。それから、ぼくの、そっと押したドアが、別れになった。

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2008年12月11日 (木)

五段

昨日、展示室内の大掃除をしたついでに、いままで常設展示にはほとんど出していなかったものを展示してみました。

吉川英治は、若い頃から将棋が好きで、執筆に倦むと原稿待ちをしている編集者たちと将棋を指したり、訪ねてきた作家仲間と対局したりすることが頻繁にあったそうです。

そんな一面を多少でも展示にと思い、将棋関連の品を出してみました。

ひとつは将棋盤+駒。
親交のあった棋士・升田幸三が、昭和32年に大山康晴を破って念願の名人位を獲得した際に、その記念として吉川英治に贈ったもの。

したがって、残念ながら愛用の盤というわけではないのですが、升田との交遊をうかがわせるという点も含めて展示してみました。

もうひとつは、段位の認定証。
これは、吉川英治の没後(日付は吉川英治が亡くなった5日後)に、日本将棋連盟が贈ったもの。
≪会長 原田泰夫≫≪名人 大山康晴≫≪十四世名人 木村義雄≫そして≪升田幸三≫の名が見えます。

段位としては「五段位ヲ贈ル」とありますが、実のところ、吉川英治の将棋の腕前はここここに書いたようなものであったので、これはあくまでも敬意を表してのこと。
実際、認定証には「夙ニ将棋ノ趣味深ク…」と書き出されています。

吉川英治の腕前を示す資料ではありませんが、英治が将棋を愛したこと、そして棋士からの敬愛を受けていたことの証として展示してみました。

ご興味のある方はぜひご覧下さい。

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2008年12月 9日 (火)

おめでとう

年賀状と同様に時期が合うので展示に出した資料に昭和31年1月11日付の野間省一宛書簡があります。

野間省一は当時の講談社社長。
書簡の内容は、吉川英治が「新・平家物語」で朝日文化賞(現・朝日賞)を受賞したお祝いの品を野間から贈られたことへの礼と、ゴルフ大会で優勝したことへの謝意です。

このゴルフ大会というのは、講談社が主催して、新春に川奈のゴルフコースで毎年行われていた大会のことです。
戦後本格的にゴルフを始めてから、吉川英治もこの大会に招かれて参加するようになり、この昭和31年の時には見事優勝しました。

「クラブを手にして四年越し初めての優勝」と文中にあるように、これが生涯初めてのゴルフでの優勝。
「小生にとり忘れえない記念日」とまで手紙に書くように、この優勝は本当にうれしかったようです。

そのうれしさ余って、いまも語り伝えられる笑い話を引き起こしてしまったのが、この時でした。

初優勝の興奮冷めやらぬまま、宿泊している川奈ホテルのバーで家族と祝杯をあげていると、通りかかる知り合いたちが次々に「おめでとうございます」と声をかけていきます。
もちろん、「明けましておめでとう」という新年の挨拶です。
ところが、それを受けて英治は「イヤ、ありがとう、まぐれ当たり、まぐれ当たり」とトンチンカンな答え。
挙句の果てに「なんで、皆、こんなに早くおれの優勝を知ってやがんだろ」とつぶやいて、家族を爆笑させました。

ことゴルフになると、ほとんど子供になってしまう、そんな無邪気な一面を伝えるエピソードです。

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2008年12月 7日 (日)

四十歳

師走に入ったので、展示を少し入替えました。
≪年末年始仕様≫ということで、吉川英治が出したあるいは受け取った年賀状を数点展示しています。

当館で所蔵している吉川英治が出した年賀状を見る限り、吉川英治の年賀状は印刷のものばかりです。
古いもので昭和4年、新しいもので昭和36年までありますが、一貫して印刷です。
おまけに宛名が吉川英治の筆跡ではないものもあります。
また、大半が絵柄もなく、一行だけ年賀のあいさつ文が入っているだけです。
例えば、昭和4年のものならば

昭和四年の御多祥を祈り上候

としか書かれていません。
自筆で文章を添えるなどということも無し。
あっけないものです。

吉川英治は筆まめな方だと思うのですが、年賀状にはあまり重きをおいていなかったのでしょうか。

そんな中、印刷ではありながら、例外的に長い文章が書かれたものがあります。
昭和6年の年賀状です。

古人四十不惑といふ
僕三十九を送つて
漸く初惑をおぼえます
真のまどひを感じます
古人なんぞ大成のはやき
僕なんぞ遅々として稚気
年を迎へて自恥にたえません
切に辱知の御鞭撻を乞ひます
   ×
水仙に戯作の恥を思ふ朝

文面からわかる通り、40歳を迎える年の年賀状です。
ちなみに、吉川英治は自分の年齢を数えで認識していましたから40歳ということになりますが、満年齢で言えば、昭和6年正月時点ではまだ38歳ということになります。

それはともかく、吉川英治は40歳という年齢を、人生のひとつの区切りとして強く意識していたのでしょう。

まあ、この時期、家庭内に問題を抱えていて、そのせいで特に自省的になっていたという側面はあるのでしょうが。

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2008年12月 3日 (水)

小倉・門司散歩のおまけ

昨日触れた「宮本武蔵座談会」には、吉川英治が「随筆宮本武蔵」に取り上げたもの以外にも面白い伝説が紹介されています。

その中から宮本武蔵顕彰碑についてのものを拾ってみると、

・武蔵の碑は巌流島の方向を向いて立っており、向きを変えても自然にその方向に戻ってしまう。

・参勤交代の行列が武蔵の碑の高さをはかろうと、比較のために槍を差し上げたところ、槍先より碑が高かった。そこで槍を継ぎ足して試してみたが、やはり碑の方が高くなった(つまり碑が伸びたということ)。

・碑文の文字を最初から終いまで読み終わると碑が動く。

・碑文の文字を写し取ろうとすると、文字がボンヤリとして、どうしても写し取れない。

というようなものがあります。

これらの話から受けるのは、小倉の人々は、宮本武蔵を敬愛しているというより、恐れている、という印象です。

思えば、巌流島も、決闘に勝った宮本武蔵ではなく、佐々木小次郎の流派の名が島の名となって残っているわけですし、宮本武蔵を郷土にゆかりの偉人として諸手を挙げて受け入れているという感じは、実際に小倉を歩いてみても感じませんでした。

もし武蔵を強く敬愛していたら、手向山に小次郎の碑を造るというようなことにはならなかったでしょう。

そう言えば、風師山まで私を運んでくれたタクシーの運転手は、武蔵の碑のある手向山のことを、昔は草ぼうぼうで、マムシがよく出たので≪マムシ山≫と呼んでいた、なんて話をしてくれました。
先日訪ねた時は、11月下旬ということもあってか、雑草も少なく、きれいになっていましたし、犬の散歩やウォーキングに来ている人にも出会いましたが、かつては近づき難い場所だったのでしょう。

まあ、通りすがりの旅人の印象ではあるのですが。

いかがですか、小倉の皆さん?


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2008年12月 2日 (火)

小倉・門司散歩――番外編の2

さて、地方に旅行した際の楽しみは、その土地の書店に行き、その地域の出版社が出している本を探すことです。

今回は、小倉駅前の商業ビル内にある書店に郷土の本のコーナーがあったので、そこで何冊か購入しました。

そのうちのひとつは「北九州市・熊本県 巌流島から霊巌洞へ」(末吉駿一 福岡地区熊本観光推進協議会発行 平成15年)。
平成15年と言えば、NHK大河ドラマで「武蔵 MUSASHI」を放送した年なので、武蔵ブームを当て込んで観光PRをした本かと思いましたが、どうしてどうして。
非常に貴重な文章が収録された本でした。

それが『宮本武蔵座談会』です。

これは、昭和12年3月6日に、宮本武蔵について研究している人々が集って行った座談会の記録で、初出は「宮本武蔵と小倉藩」(郷土誌「豊前」別巻 小倉郷土会 昭和12年5月25日発行)。

吉川英治はこの「宮本武蔵と小倉藩」を所持しており、「随筆宮本武蔵」では、そこから多くのネタを取り上げています。
ここここで紹介した逸話も、出所はこの座談会です。

なかなか目にすることの難しい資料で、これが新たに再録されたのは、ありがたいことです。

と言っても、この「巌流島から霊巌洞へ」自体も、手に入れやすいとは言えませんが。

もう1冊は「物語の中のふるさと」(読売新聞西部本社編 海鳥社 2005年)。

九州各地の地元にゆかりの文学作品を紹介していくもので、もとは読売新聞に連載された記事を単行本にした本です。
吉川英治の「新・平家物語」が、宮崎県椎葉村の項で『憎しみを消した落人の里』として取り上げられています。

小倉・門司とは関係がありませんが、吉川英治がこの椎葉村に伝わる鶴姫の伝説とひえつき節のことを知ったのは、旅行Ⅱの時、小倉・門司にやって来る前日、別府に滞在した時のことです。

その意味では、全くかけ離れた話でもありません。

というようなあたりをご紹介して、今回の小倉・門司散歩は、おしまいにしたいと思います。

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