« 2008年12月 | トップページ | 2009年2月 »

2009年1月30日 (金)

小次郎の最期

さて、一昨日の「ムサシ」のことですが、雑誌『小説現代』の昨年12月号に掲載された巻末エッセイで、井上ひさしさんは、吉川「武蔵」を読み直してみたら、小次郎が死んでいなかったので驚いたという話を書いておられます。

そこでも引用されているように、吉川「武蔵」では勝負の後に武蔵が小次郎に近づき、その生死を確かめる場面があります。

左の手で小次郎の鼻息にそっと触れてみた。微かな呼吸がまだあった。武蔵はふと眉を開いた。
「手当に依っては」
と、彼の生命に、一縷の光を認めたからである。

吉川「武蔵」ではさらに、世の噂として

「あの折は、帰りの逃げ途も怖いし、武蔵にせよ、だいぶ狼狽しておったさ。何となれば、巌流に止刀(とどめ)を刺すのを忘れて行ったのを見てもわかるではないか」――と。

とも書いています。

武蔵は小次郎を殺していない。
しかし、小次郎のその後について、吉川英治は触れることのないまま、筆を擱いている。
さて、小次郎はどうなったのか。

というところに作家的興味を持たれたのでしょう。

ところで、武蔵が小次郎の命を奪ってはいないという話は、何も吉川英治の創作ではなく、そう伝える文書が残っています。
巌流島の決闘が行われた当時、小倉を治めていた細川家の家臣・沼田家にまつわる「沼田家記」には、以下のような話が記載されているそうです。

武蔵と巌流の双方の弟子が互いの師の兵法の優劣について争い、武蔵と巌流が決闘することになる。
ともに弟子は引き連れず、単身で決闘に挑むことになっていたが、武蔵の弟子たちが島に潜んでいた。
決闘は武蔵の勝利に終るが、巌流は死んでおらず、蘇生した。
ところが、その時に、潜んでいた武蔵の弟子たちが現れ、蘇生した巌流をよってたかって打ち殺してしまった。

という話です。
これだと、武蔵は小次郎を殺していないものの、結局は小次郎は死んでいることになります。

ちなみに、この後、事情を知った小次郎の弟子たちが大挙して武蔵を討とうとしたため、武蔵は門司城に逃げ込み、城代の沼田延元に保護され、最終的に延元の家臣に護られながら隣国の豊後へと送られる事になる、ということが書かれているのだそうです。

さて、実際の巌流小次郎の最期はどうだったのでしょう。

| | コメント (0)

2009年1月29日 (木)

写真コンテスト入賞作品展

明日1月30日から2月5日まで、東京ミッドタウン内の富士フイルムフォトサロンで「第11回吉川英治記念館写真コンテスト入賞作品展」を開催します。

富士フイルムフォトサロンはこちら

今年の上位入賞作品はこちらです。

また、第12回の募集要項はこちらになります。

ご興味のある方は、ぜひお運びください。

| | コメント (0)

2009年1月28日 (水)

ムサシ

昨日の朝日新聞に、大々的に舞台「ムサシ」の紹介記事が出ていました。

また、その数日前には、当館にも公演プログラムの編集をなさっているこまつ座の方が取材にいらっしゃいました。

いよいよ、公演の日程も確定し、例によって、あとは井上ひさしさんの脚本が出来上がるのを待つだけというところまで来たようです。

ひとつ残念なのは、久しぶりの吉川作品の舞台化なので、公演期間中のの月曜日(当館の休館日です)に、職員一同で観覧に行ければと考えていたのですが、月曜日は、公演も休みなんですね。
長期間の公演なので、役者さんたちにも休みは必要でしょうが、ウチの休館日と重なるとは。
公演のある3月は当館の繁忙期で、開館日には休みにくいので観に行けそうにないですね。

そう言えば、記事によると、井上さんは巌流島以降に関心をお持ちのようです。
思えば、先年の大河ドラマ「武蔵」でも、巌流島以降が大きな比重で描かれていて、物議をかもしましたが、吉川「武蔵」と対峙すると、そこにどうしても意識が行ってしまうのかもしれません。

考えれば、巌流島は宮本武蔵の人生のほぼ中間点。
吉川英治はその人生の半分しか小説にしなかったわけですから。

さて、どんな脚本が出来上がるのでしょう?

| | コメント (0)

2009年1月25日 (日)

天気予報

ここ青梅市は、新宿からおよそ50km程の距離にあります。
場所も山に近いということもあり、東京の都心部と青梅では、天候も若干異なります。

それも含めて、東京都は東西に長いので、関東地区のテレビの天気予報では、たいてい東京都心部とは別に、都下多摩地域の都市が少なくとも1ヶ所は例示されます。

おおむねそれは八王子か町田です。
しかし、青梅は八王子や町田とも微妙に天候の推移が異なります。

そんな訳で、地元の人は、少し北である秩父か、西から天候が変わるということに鑑みて山梨の天気予報を参照することがあるようです。

そんな中、最近気がついたのですが、テレビ朝日の夕方の情報番組「スーパーJチャンネル」の天気予報は、多摩地域の例として青梅の天気を紹介しています。

私の知る範囲では今のところ、青梅の天気を常時取り上げてくれているのは、この番組くらいです。

ということで、吉川英治記念館に行きたいけど天気が心配だわ、という皆さん、「スーパーJチャンネル」を参照なさって下さい。

でも、なんでテレ朝が青梅なんだろう?
誰か青梅出身のスタッフでもいるんでしょうかね。

理由はどうあれ、当方にとってはありがたいことなので、ぜひ今後も続けて下さい。
お願いいたします。

| | コメント (0)

2009年1月24日 (土)

“お通”第一号

今日は、女優・夏川静枝の命日だそうです。
1999年、享年は89歳だったとか。

あるサイトでそれを知って、ふと、夏川さんは“お通”の第一号じゃなかったっけ?と思い、確認してみました。

吉川英治の「宮本武蔵」は、朝日新聞紙上に昭和10年8月23日から掲載され、途中半年余りの中断をはさんで、14年7月11日まで連載されました。

これが劇化されたのは、まだ連載中の昭和11年のこと。

ひとつは嵐寛寿郎主演の映画「宮本武蔵 地の巻」(寛寿郎プロ・新興キネマ/監督:滝沢英輔)。

この他に市川寿美蔵主演の舞台と市川小太夫主演の舞台の2種があったと記録が残っています。

このうち、市川寿美蔵主演の舞台で“お通”を演じたのが夏川静枝です。

さて、この3種のうち、どれが一番最初に公開されたのか。

嵐寛寿郎主演の映画「宮本武蔵 地の巻」は5月16日公開。

市川寿美蔵主演の舞台「宮本武蔵(二幕五場)」は7月1日初日(有楽座)。

市川小太夫主演の舞台「宮本武蔵(三幕十景)」は9月1日初日(浪花座)。

つまり、嵐寛寿郎主演の映画「宮本武蔵 地の巻」が最初で、その中で“お通”を演じた森静子が、“お通”第一号。
夏川静枝は、舞台での“お通”第一号ですが、全体では二人目ということになります。

記憶違いでした。

ちなみに、市川小太夫主演の舞台で“お通”を演じたのは中村成太郎となっています。
つまり≪女形≫ということですね。
したがって、“お通”を演じた男の第一号は中村成太郎である、ということになるでしょうか。

三者三様の第一号ということにしておきましょう。

| | コメント (0)

2009年1月21日 (水)

割引

この度、JAFの会員の方に対する入館料の割引を始めることになりました。
カードをご提示いただくと、入館料が100円割引になります。

つまり、大人500円⇒400円、学生400円⇒300円、小人300円⇒200円、となります。

厳密には、まだ契約完了していませんが、もう今日から割引しますので、どうぞご利用ください。

ついでにご紹介すると、いま話題の≪かんぽの宿≫の会員カードをご提示いただいても、同様の割引があります。

これは以前からやっているものですが、さて、≪かんぽの宿≫どうなるんでしょうね?

先行きが不透明なので、会員カードの特典を利用するならいまのうちですよ(笑)

ご来館をお待ちしております。

| | コメント (0)

2009年1月20日 (火)

今日、旧吉川邸の母屋の方で、『カチッ』という金属音のようなものが聞こえました。
今そのあたりに人はいないはずだけど、と不審に思いながら母屋の周囲を探してみると、書斎のガラス戸に小鳥が激突して死んでいました。
その激突音だったようです。

展示室のロビーの大きなガラス窓に鳥が激突するという≪事故≫は、年に何度か発生するのですが、書斎のガラス戸にぶつかることは滅多にありません。
というか、私が見つけたのは初めてだと思います。

いつも、こんなことで鳥が死んでしまうのは悲しいことだと思っているのですが、良い解決方法も思いつきません。

以前、吉川英治文化賞受賞者で、アホウドリの保護活動をなさっている長谷川博さんに、何か良い方法がないですか?とお尋ねしたことがあります。
ガラスの前にリボン状のものをぶら下げておいてはどうか、というアドバイスをいただいたのですが、美観上、なかなかそういうわけにもいきません。

どなたか、良い方法をご存じないですか?

| | コメント (0)

2009年1月17日 (土)

お父さま

菊池寛顕彰会会報『菊池寛』第四号が送られてきました。

パラパラと目を通していると、『菊池寛記念館の展示紹介』ととして、『大正・昭和の作家が集う「文士花盛り絵図」』(石岡久子)という文章がありました。

横五メートル、縦一・二メートル。漫画家の横山隆一さんと彼が率いる漫画集団の浜田貫太郎、二階堂正宏、小山賢太郎さんたちによって描かれた文士七十七人の似顔絵である。

確かに、私も菊池寛記念館に足を運んだ時に見た記憶があります。

さて、平成4年に菊池寛記念館が開館した時に開会式に出席した吉川文子夫人がこの絵の中に夫・吉川英治の姿を探していたという話が紹介されています。

筆者はこの時文子夫人が

「お父さんは何処にいるのかしら?」

と言って絵の中を探していたと書いています。

しかし、それは記憶違いでしょう。

文子夫人なら、「お父さま」と言ったはずです。

文子夫人は、私がここに勤め始めた時の館長であり、以後、亡くなられるまで何度もお目にかかっていますが、「お父さん」などと口にされたことはありません。
普通は「お父さま」、公的なところでは「主人」でした。

出会った時には既に大作家であり、年齢差も大きかっただけに、「お父さま」が自然なことだったのだろうなぁ、といつも思っていました。

その文子夫人が亡くなって、まもなくまる3年。

「お父様」という声も、昔話になってしまいました。

| | コメント (0)

2009年1月16日 (金)

早咲き

Hi3e0023

昨年、土地を売るという方から、そこに生えている木をどれでも持って行っていいとのお申し入れがあったので、梅の木などをいただいてきました。

その梅が早くも咲き始めています。

青梅の吉野梅林の梅は、開花時期が遅く、3月中旬が見頃です。
しかし、一般的なイメージから2月に観梅にやって来て、「全然咲いてないねぇ」とおっしゃるお客様がいらっしゃいます。

そんな訳で、早い時期でも多少なりとも花があればと思い、早咲きの梅をいただいてきたのですが。
いま咲いてしまっては、いくらなんでも早過ぎです。

移植した木がちゃんと花を咲かせてくれたのはうれしいのですが。

| | コメント (0)

2009年1月11日 (日)

公募じゃない

このブログには≪アクセス解析≫という機能があり、その中に、どのような≪検索ワード≫でこのブログにたどり着いたのかを表示する機能があります。
それを見ていると、時折、「小説 懸賞」「新人賞 応募」といったフレーズで検索して、ここにたどり着かれる方がいらっしゃいます。

また、年に何度か、「吉川英治文学賞(あるいは文学新人賞)には、どうしたら応募できるのか?」という問い合わせの電話をいただきます。

以前にもこんなことを書きましたが、吉川英治賞は文学賞も文学新人賞も公募の賞ではありません。

まあ、文学新人賞は≪新人賞≫と付いているのでそう誤解されても仕方のない部分はあるのですが。

しかし、文学賞に応募しようというような人が、その賞についてのリサーチもしないものなのでしょうかね?

吉川英治文学新人賞の過去の受賞作・作家を見れば、どう考えても既にデビューしている作家の作品ばかりで、公募であろうはずがないことは、一目瞭然だと思うのですが。

もちろん、応募要項が世に配布されたことなど、皆無です。
どんな公募情報雑誌にだって出ていません。

いささか俗な本ですが、「文学賞メッタ斬り」(大森望・豊崎由美 株式会社パルコ 2004年)など、開巻すぐの「はじめに」の中で

あらゆる文学賞は、公募の新人賞と、非公募の文学賞に大別される。(略)吉川英治文学新人賞など、「新人賞」と名がつくものもあるが、これは「新鋭の作家が対象ですよ」という意味で、公募新人賞とはまったく性格が違うので注意。

とご丁寧に書いてあるほど。

直木賞・芥川賞のような世間的知名度はないにしても、吉川英治文学賞は今年発表されるものが第43回、後発の文学新人賞でも第30回になるんですけどね。

ま、どうでもいいことですが、問い合わせがある度、いつも気になるので。

| | コメント (0)

2009年1月10日 (土)

近藤亨さん

吉川英治文化賞と言えば、昨夜、テレビ東京の番組で取り上げられていた近藤亨さんも受賞者のお一人です。
昨日の牟田さんの前年、平成11年に受賞なさっています。

番組の中でも紹介されていた通り、私財をなげうって、ネパールの秘境ムスタンでの農業指導と住民の生活改善に尽力されています。
受賞後に当館にもご来訪いただいたので、お目にかかったことがあります。
年齢を感じさせないエネルギッシュな方でした。

それにしても、思い違いでなければ、ここ1年の間に近藤さんを取り上げたテレビ番組を3回ほど見ました。
活動が人に知られることは、支援者、協力者を新たに得ることに利するところが大きいでしょうから、悪いことではないと思いますが、何となく企画的には安直な気もしてしまいますね。
もちろんまじめに番組を作っているのでしょうが。

| | コメント (0)

2009年1月 9日 (金)

牟田悌三さん

今日、ある新聞社から吉川英治文化賞についての問い合わせ電話がありました。
「吉川英治文化賞についての問い合わせはこちらでいいのですか?」とのことでしたので、担当部署である財団の事務局へ電話をかけ直していただきました。

賞の発表時期でもないのに何故、と思ったら、牟田悌三さんが亡くなられたんですね。

牟田さんは、昭和40年生まれの私などには≪ケンちゃん≫シリーズのお父さん役というイメージのある俳優ですが、実は、平成12年に≪牟田悌三氏と世田谷ボランティア協会≫の名義で、第34回吉川英治文化賞を受賞なさっています。

ご自分のお子さんの通う学校のPTA会長を引受けたことがきっかけでボランティア活動に取り組み始めたのだとか。
活動は多方面にわたりますが、特に子供を取り巻く問題についての取り組みが評価されているようです。

ご冥福をお祈りいたします。

| | コメント (0)

2009年1月 7日 (水)

百穂の鴨

松山市立子規記念博物館から新春特別展「平福百穂と子規派の人びと」のチラシが送られてきました。

この百穂についてのちょっとしたエピソードを吉川英治が「鴨と鹿の頭」という随筆に書き残しています。

おおまかに要約すると、こんな話。

英治が、なじみの美術商を訪ねたところ、たまたま秋田県で仕入れてきた品物が、届いたばかりというので店の二階に散らかっていた。
その中に百穂の鴨の絵の書かれた屏風があった。
寝ている鴨の中に一羽だけ起きている鴨がいる図案に、「世間の人間が皆、寝るべき時をちゃんと寝ている時分に、ひとりで机に眼をさまして――そのくせちっとも書けもしないで、壁ばかり見ている誰かに似ているナ」と面白くなって、英治はこれを入手した。
ところがある時、その屏風を見た友人の伊上凡骨が、これは百穂が大正博覧会に出品して評判をとったあの『鴨』じゃないか、と言い出し、おせっかいにも百穂本人にまで確かめに行って、間違いないとの答えを聞き出してきた。
その百穂が昭和8年に急死し、その遺墨展覧会が開かれることとなり、請われて英治も『鴨』を貸し出した。
そのことで、『鴨』の所蔵者が英治であると知った好事家たちから、譲り受けたいという依頼が次々と舞い込んで来た。
そんな中に、新潮社の中根駒十郎が持ち込んできた口があった。
百穂は保険に加入していなかったうえ、画債もあり、未亡人が困っている。
生前の百穂のパトロンだった富豪が『鴨』を買いたいと言っているので、未亡人を仲介者にしてそこに取り次げば、幾ばくかでも未亡人の手に入るであろう、と言うのだ。
そういう話ならと、英治も売却に承諾した。
ところが、富豪というものの心理なのか、いざ商談となったらあれこれと難癖をつけて値切ってくる。
パトロンとして世話になったという気兼ねもあって、未亡人も強くは出られず、結局、ほとんど何の足しにもならないような金額しか、未亡人には渡らなかった。

後半の富豪の話はあくまでも中根を介して聞いた話なので、どこまで正確なのかはわかりません。
わかりませんが、初出である『改造』昭和12年1月号に掲載されて以降、クレームも受けずに、現在までくり返し単行本に収録されていますから、似たようなことはあったのでしょう。

随筆には、屏風を富豪側に引き渡す場に立ち会った英治の弟が「何だか今日が急に、明治二十年頃のような気がしてしまった」と英治に語ったと書いています。
幼い日に、父親の事業の失敗で家が傾き、家財を売って糊口をしのいでいた経験がある英治の気持ちを代弁したものと言えるでしょう。

しかし、こんなことを書かれてしまっては、富豪氏も、以後この作品を世間には出せないですよね。
現在の所蔵者がこの富豪氏を関わりがあるのかどうか、私は知りませんが。

| | コメント (0)

2009年1月 6日 (火)

新年

明けましておめでとうございます。

2009年の営業は本日が初日となります。

旧年中はなかなか明るい話題もありませんでしたが、今年は私たちにとっても、皆様にとっても、良い年であればと祈念しております。

本年もよろしくお願いいたします。

| | コメント (0)

« 2008年12月 | トップページ | 2009年2月 »