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2009年1月30日 (金)

小次郎の最期

さて、一昨日の「ムサシ」のことですが、雑誌『小説現代』の昨年12月号に掲載された巻末エッセイで、井上ひさしさんは、吉川「武蔵」を読み直してみたら、小次郎が死んでいなかったので驚いたという話を書いておられます。

そこでも引用されているように、吉川「武蔵」では勝負の後に武蔵が小次郎に近づき、その生死を確かめる場面があります。

左の手で小次郎の鼻息にそっと触れてみた。微かな呼吸がまだあった。武蔵はふと眉を開いた。
「手当に依っては」
と、彼の生命に、一縷の光を認めたからである。

吉川「武蔵」ではさらに、世の噂として

「あの折は、帰りの逃げ途も怖いし、武蔵にせよ、だいぶ狼狽しておったさ。何となれば、巌流に止刀(とどめ)を刺すのを忘れて行ったのを見てもわかるではないか」――と。

とも書いています。

武蔵は小次郎を殺していない。
しかし、小次郎のその後について、吉川英治は触れることのないまま、筆を擱いている。
さて、小次郎はどうなったのか。

というところに作家的興味を持たれたのでしょう。

ところで、武蔵が小次郎の命を奪ってはいないという話は、何も吉川英治の創作ではなく、そう伝える文書が残っています。
巌流島の決闘が行われた当時、小倉を治めていた細川家の家臣・沼田家にまつわる「沼田家記」には、以下のような話が記載されているそうです。

武蔵と巌流の双方の弟子が互いの師の兵法の優劣について争い、武蔵と巌流が決闘することになる。
ともに弟子は引き連れず、単身で決闘に挑むことになっていたが、武蔵の弟子たちが島に潜んでいた。
決闘は武蔵の勝利に終るが、巌流は死んでおらず、蘇生した。
ところが、その時に、潜んでいた武蔵の弟子たちが現れ、蘇生した巌流をよってたかって打ち殺してしまった。

という話です。
これだと、武蔵は小次郎を殺していないものの、結局は小次郎は死んでいることになります。

ちなみに、この後、事情を知った小次郎の弟子たちが大挙して武蔵を討とうとしたため、武蔵は門司城に逃げ込み、城代の沼田延元に保護され、最終的に延元の家臣に護られながら隣国の豊後へと送られる事になる、ということが書かれているのだそうです。

さて、実際の巌流小次郎の最期はどうだったのでしょう。

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