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2009年2月27日 (金)

雪は降る

お客は来ない(苦笑)

雪が降っています。
わかりにくい写真ですが。

Img_2406

もっとはっきりした雪ならば、絵になるところですが、積もるところまではいかない感じですね。

Img_2407_2


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2009年2月24日 (火)

外国語映画賞

昨日、「おくりびと」が日本映画として初めて、アメリカのアカデミー賞外国語映画賞を受賞しました。

というニュースを聞いて、「あれ、『宮本武蔵』は?」と思いました。

1955年、稲垣浩監督、三船敏郎主演、もちろん吉川英治原作の東宝映画「宮本武蔵」が、外国語映画賞を受賞していたはずだが?と思ったのです。

様々な記事を参照してみると、アカデミー賞における外国語映画の表彰は、1947~49年は特別賞として、1950~55年は名誉賞としての表彰で、現在のようなノミネート形式での外国語映画賞は1956年から、ということになるようです。
そうなってからは初めての受賞というわけですね。

なるほど、賞の位置づけが違うんですね。

ちなみに、当時の秘書の方の日誌によると、昭和31年3月20日に、「東宝映画「宮本武蔵」がアカデミー賞最優秀外国語映画賞受賞決定を知らせる電報が届く」とあります。

電報ですよ、電報。
時代を感じますね。

そういえば、先日、富士フイルムフォトサロンでの写真展の撤収作業の後、空いた時間で国立新美術館に行き、「第12回 文化庁メディア芸術祭」の展示を見たのですが、これのアニメーション部門の大賞が「つみきのいえ」でした。
私の行動と上映のタイミングが合わず、一部分しか見られませんでしたが、なるほど、あれが短編アニメ賞を受賞したんですね。

なんにせよ、関係者の方、おめでとうございました。

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2009年2月21日 (土)

梅まつり

本日から≪吉野梅郷梅まつり≫の開催期間となります。

催し物などの詳しいことはこちらをご参照ください。

吉川英治記念館に関して言えば、地域内で配布されているスタンプ用紙を用いてスタンプラリーを行い、全箇所をまわられた方には入館料の割引を行っておりますので、ご利用ください。

そのことも含めて、期間中は公共交通機関でお出でになることをお勧めします。

梅まつりの時期の吉野梅郷は、個人の方が開いておられる有料駐車場がほとんどで、梅の公園には駐車場はなく、無料の公共駐車場は当館の道路向いの市営駐車場と当館そばの即清寺下にある都営駐車場しかありません。
多摩川をはさんで両岸に吉野街道と青梅街道があるだけで、抜け道もないので、すぐに渋滞してしまいます。

JRを利用して日向和田駅まで来て、一日地域全体を散策して、二俣尾駅から帰路につくのが、のんびり楽しめる方法だと思います。

飲食店があまり多くないのが欠点ですが、お弁当をお持ちなら、当館の庭園内でお召し上がりいただくことも可能です。
ただし、ゴミはお持ち帰りいただいていますが。

吉野梅郷へのご来訪、そして当館へのご来館をお待ちしています。

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2009年2月17日 (火)

開花状況

そろそろ梅の開花状況についてのお問い合わせの電話が増えてきました。

毎度書きますが、ここ吉野梅郷の梅は、他の地域に比べて開花が遅く、3月が開花のピークになります。
ですから、吉野梅郷梅まつりも2月21日~3月31日になっています。

しかしながら、今年の冬は暖かい日が多かったので、開花がかなり早くなっています。

草思堂庭園の梅も、早い木は既に満開です。

こんな具合。

Hi3e0059

ただ、青梅市梅の公園などは、より開花が遅いので、3月中旬までには見頃を迎えるであろうという感じです。

ちなみに館内で毎年一番最後に咲く梅はまだこんな具合です。

Hi3e0057

したがって、全体としてはまだ早いという感じです。

梅郷全体の開花状況については、上のリンク先をご参照ください。

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2009年2月14日 (土)

青梅マラソン

明日は青梅マラソンが開催されます。

あれ?
去年同様、交通規制についてご紹介しておこうと思ったんですが、せっかくの青梅マラソンの公式サイトに、その記述が見当りません。

まあ、例年通りだとは思いますが、困りますね。

いや、前日の夜にこんな内容を更新するのも、タイミングが遅すぎて、十分に困りものですが(苦笑)

もちろん、当館は開館していますので、青梅街道は避けて吉野街道でおいで下さい。

吉川英治記念館が面しているのも吉野街道ですので、規制はかかっておりませんので。

よろしくお願いいたします。

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2009年2月11日 (水)

SF?

さて、もったいぶりましたが、「夢ビル」とは、こんな作品。

話は若主人と辰さんの会話で進みます(落語ですから)。

いま世界の人口はどんどん増加している。
このまま増加し続けると、地球は人間で一杯になって、空中や地下まで開発して人が住まなければならなくなる。
それだけならばまだいいが、人間の欲には限りがない。
そんなになっても、人より良いモノを食いたい、なんて欲望はなくならない。
となると、食糧が不足することは目に見えている。

と、辰さんに説く若主人。
何か良い方法はないかという辰さんに対し、若主人が、実はもう出来ていると言う。

近頃、丸の内に≪夢の内ビル≫略して≪夢ビル≫というのが出来た。
そこでは、獏の甲状腺から抽出した薬を、客の希望にあわせて調合し、それを服用して電気刺激を受けると、何でも思うがままの夢が見られる。
夢の中でどんな贅沢をしたって、実際の食糧やら物資がなくなるわけじゃない。
客も満足するし、実に合理的だ。

というわけで、以下、どんな夢を見ることが出来るのかを若主人が辰さんに次々と紹介していくというお話です。

この設定、『SF』と言ってもいいんじゃないでしょうか。

≪新作落語≫ではなく、≪新奇落語≫であるのは、そういう意味なのかもしれません。

後年の作品は、歴史・時代小説が主で、現代物すらあまりありませんから、SFとなると、唯一の作品ということになります。

現在の日本では少子化ばかりが言われますが、地球規模では人口爆発の方が大問題となっています。

吉川英治がこんな作品を書いた大正13年=1924年の頃は、世界人口が20億人ほど。
現在はその3倍以上になっています。

本当に食糧不足になって、≪夢ビル≫が必要な世界になるかもしれません。

≪落語≫なのに笑えないというのは、ご免こうむりたいものです。

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2009年2月10日 (火)

吉川英治の落語

さて、草思堂落語会の演目はまだ決定していませんが、吉川英治の書いた≪落語≫について、もう少し詳しく触れておきます。

見落としがあるかもしれませんが、確認した限り、吉川英治の作品で、雑誌に発表した際に、作品タイトルの上に≪新作落語≫と付されている作品が7作品ありました。

それが以下のものです。

「弘法の灸」(雉子郎)=『面白倶楽部』大正11年4月号

「花見どむらい」(望月十三七)=『面白倶楽部』大正13年4月号

「ポン引き騙し」(不語仙亭)=『面白倶楽部』大正13年5月号

「夢ビル」(望月十三七)=『面白倶楽部』大正13年7月号

「三人強情」(寺島語堂)=『面白倶楽部』大正13年8月号

「寝惚け探偵」(不語仙亭)=『面白倶楽部』大正13年11月号

「ことわり屋」(不語仙亭)=『面白倶楽部』大正13年12月号

以前、吉川英治が複数のペンネームを使用していたことを書きましたが、(  )内がその吉川英治以外のペンネームです。

もちろん『読む落語』であって、内容的にも、眼で読んで頭で笑う、というような作品になっています。

ご覧の通り、1作を除いて大正13年の作品。

吉川英治は大正12年の関東大震災をきっかけにして、翌13年から専業の作家としてデビューしますので、その作家となった最初の年の作品がほとんどということになります。

ということは、逆に言うと、大正11年に書かれた「弘法の灸」は、デビュー前の作品ということになります。

吉川英治は、大正10年12月に、勤めていた山崎帝国堂を辞め、翌11年に東京毎夕新聞に就職したと、自筆年譜では書いています。
この東京毎夕新聞に勤め始めた時期について、川柳家の大野風太郎さんによる「吉川英治 下駄の鳴る音」という評伝では大正11年1月としています。

それが正しいとすると、新聞社の社員でありながら、他社(講談社)の雑誌に執筆もしていたことになります。

4月号なら発売は3月で、原稿を書いたのは1~2月でしょう。

入社したばかりで給料も安いので、小遣い稼ぎをしたということでしょうか?

ちなみに、「夢ビル」という作品だけ、≪新作落語≫ではなく≪新奇落語≫と銘打たれています。

どんな作品かというと……

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2009年2月 6日 (金)

草思堂落語会

今年の春の催事として、≪草思堂落語会≫を開催することになりました。

開催は4月18日(土)。

申し込みはメール・ハガキ・ファックスで3月15日から受け付けます。

定員は50名で、応募者多数の場合は抽選となります。

参加者には4月7日までに入場整理券を兼ねたハガキをお送りしますので、抽選の場合の当選発表はそのハガキの発送をもって代えさせていただきます。

詳しいことはこちらをご覧下さい。

出演は柳家禽太夫師匠。
先年亡くなった吉川文子夫人の姪の娘婿にあたります。

前座の方と二人で三席やっていただきますが、そのうちの一席は吉川英治原作の≪新作落語≫を演じていただきます。

吉川英治は、作家デビュー前後の大正時代末に、≪吉川英治≫以外のペンネームで、多数の作品を書いています。
その中に、≪新作落語≫と銘打って書かれた作品が複数存在します。

これらは、書かれた当時、雑誌に掲載された後、一度も単行本には収録されていません。

また、≪新作落語≫と言いつつも、あくまで雑誌に掲載する≪読み物≫としての落語ですので、当然、高座にかかったこともありません。

言ってみれば≪吉川英治 幻の落語≫です。

これを、せっかくなので、本物の落語家に演じてもらおうという企画。

後年の作品とは一味違う、若き吉川英治の意外な一面を味わっていただければと思います。

興味のある方は、ぜひご応募ください。

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2009年2月 5日 (木)

新築物件

先日来、吉川英治は生涯におよそ30回の引越しをした、ということを書いています。

意外と言うべきか、当然と言うべきか、その30回のほとんどが中古物件で、おおむね借家です。

この吉川英治記念館となっている旧吉野村の家に10年近く暮らしたのは、吉川英治としては珍しく長期間なのだ、ということを先日書きました。
吉川英治は、その吉野村の家を借りるのではなく、初めから買い取っており、その点も、実は珍しいことなのです。
それだけの覚悟を持って青梅に移住したということでしょう。

さて、そんな中、吉川英治自身が新築した家が2軒あります。

1軒目は昭和4年から居住した上落合の家。
2軒目は、最後に住んだ赤坂新坂町の家です。

吉川英治の『自筆年譜』昭和3年の項目に、こう書かれています。

平凡社刊「大衆文学全集」大いに売れ、寒屋に巨額の印税一時に入る。そのため家庭内にかえって不幸な兆あるを見、勉強の邪魔なりとして、建築家浜田氏に托し、上落合の新居に全部を費消す。

≪不幸な兆≫とは、最初の妻・やすとの関係のことでしょうが、英治はやすについて多くを語っていませんので、具体的なことはわかりません。
ただ、急に大金が手に入ったので、暮しが派手になり、それに浮かれる妻と、そこからの転落を少年時代に経験している夫との間で、生活感覚の違いが浮き彫りになったことは、想像できます。

そこで、家を建てて、一度チャラにしようとしたのでしょう。

そういう動機でしたから、基本的には人にまかせっきりで、あまり何をどうしろという指示や要求はしなかったようです。

この家は、棟梁が建前の日に屋根から転落して怪我をしたり、完成後になって、床柱に使った桜の木が芽を吹き、枝を伸ばすという珍事が起こったりして、奇妙がられました。

最終的には、やすとの離婚に際して、財産分与で、やす側に引渡しています。

一方、赤坂新坂町の家は、設計段階から何度も打ち合わせをし、工事が始まってからも、たびたび現場に足を運ぶなど、積極的に関わって建てた家でした。

ちなみに、北品川の家に住んでいる時から、新築の計画をしていました。
その後に渋谷の松涛に転居したのは、借家である北品川の家を明け渡す時期と、赤坂の新居が出来上がるまでの時期のズレの関係で、つなぎとして移ったということだったようです。

家が完成し、引越し作業が済んで、新居での生活を始めたのが昭和33年6月15日。
末娘・香屋子の8歳の誕生日でした。
関係者に確かめたわけではありませんが、末娘を溺愛していた英治のこと、家の完成がその頃とわかった時に、入居を末娘の誕生日にしようと決めたのではないかと思います。

しかし、吉川英治は昭和37年9月7日に亡くなります。
完成を楽しみにしていたその家で過ごすことができたのは、入院期間などを除けば、正味で4年に足りません。
また、諸般の事情から、この家は既に現存しません。

どちらもいささか物悲しい気分になる話ですが、考えてみると、居住したことのある30軒以上の家の中で2軒だけと思うから少ない気がするだけで、一般人はなかなか人生のうちに2回も家を新築することは出来ませんから、うらやましい話でもありますね。。

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2009年2月 4日 (水)

師と弟子の追いかけっこ

昨日の引用文の中に、井上剣花坊の名を出しました。

このブログでも何度か触れているように、作家デビュー前の若き日、川柳をやっていた吉川英治の師であったのが、井上剣花坊です。

その井上剣花坊と、震災後の時期、しばらくご近所となっていたことを、『自筆年譜』も、「伝記 吉川英治」も書いていることをご紹介したかったので、その部分を含めて引用しました。

さて、井上剣花坊の妻が、やはり川柳家の井上信子です。
その評伝「蒼空の人 井上信子」(谷口絹枝)には、こんな記述があります。

(略)大正十三年六月、吉川英治(雉子郎)の誘いで探した豊多摩郡杉並村高円寺一,〇〇〇番地の借家に移った。しかし、高円寺の家は手狭で句会も満足にできかねたため、翌十四(一九二五)年、さらに郊外に入った市外杉並町馬橋原五四七番地に広い庭つきで間取りのゆったりした借家を見つけ、昭和七(一九三二)年までそこを住居とする。(略)

文中では≪馬橋原≫としていますが、巻末の年譜では大正14年の項目に「4月、市外杉並区馬橋五四七番地へ転居」としており、これは≪馬橋≫のことです。
ちなみに、先ほど改めて調べてみたところ、杉並が村から町になるのは大正13年6月1日、周辺町村とともに東京市に編入され、杉並区となるのは昭和7年10月1日だそうです。
したがって、厳密に言うと、吉川英治が転入してきた大正13年春の時点では≪杉並村≫、剣花坊が転入してきた同6月時点では≪杉並町≫だったことになります。

さて、先日触れたように、吉川英治の杉並での住所は≪高円寺1016≫と≪馬橋547≫です。

つまり、前者はご近所、後者は番地まで同じの隣家となります。
そして、順番としては、大正13年初めに英治がまず高円寺に転居し、その誘いで剣花坊も高円寺に移り、翌14年に剣花坊が馬橋に移ったら、翌15年にその隣家に吉川英治が引っ越した、ということになります。

実のところ、関東大震災以前に、既に吉川英治は川柳の世界からは距離を置いていました。
何人かの親しい川柳人とは交流を続けたものの、川柳の創作はしていませんでした。
そして、震災後は作家としてデビューしているわけですが、そのデビュー直後の時期に、師であった剣花坊とご近所づきあいをしていたわけです。

とは言え、その状態も昭和4年に吉川英治が転出していくまでで、それ以後はまったくの疎遠になってしまいます。

そして、昭和9年に井上剣花坊は亡くなります。

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2009年2月 3日 (火)

杉並の続き

「吉川英治は杉並に住んでいたか?」という問い合わせですが、図書館経由の問い合わせなので、「そのことはどんな本に出ているか?」という質問が、それにくっついていました。

さて、私は電話が苦手で、急に質問されると、どうもすぐには頭が働きません。

自叙伝である「忘れ残りの記」の巻末にある『自筆年譜』には出ていますよ、とお答えしたのですが、電話を切ってから、どうせなら「伝記 吉川英治」(尾崎秀樹)なんかも付け足しておけばよかったと思いついても後の祭り。

そんなわけで、図書館で問い合わせた方が、ここをご覧になるかどうかわかりませんが、少し補足を。

吉川英治は、自筆年譜では大正13年(1924)の項目に、以下のように書いています。

原稿生活の自信ややつく。杉並区馬橋に借家。(略)隣家に井上剣花坊氏も市中より移り来て住む。(略)

これに対し、尾崎秀樹は「伝記 吉川英治」で、こう書きます。

吉川英治はよく家を変った。(略)震災の翌年には、杉並の馬橋に移転した。(略)その家も数ヵ月たたないうちに飽いてしまい、陸軍通信学校に近い馬橋の五四七番地に移った。井上剣花坊と隣りどうしになったのは、そのときである。(略)

これはどちらも、少々不正確です。

大正13年の段階で転居した先は、杉並は杉並でも高円寺でした。
一昨日書いたように、≪杉並町高円寺1016番地≫です。
そして、その後に同じ杉並町の≪馬橋547番地≫に転居しています。

ただし、その転居は、高円寺への転居から数ヶ月後ではなく、大正15年(1926)のこと。

実は、高円寺の住所から編集者に宛てた大正15年2月19日付の書簡が現存しています。
そして、同年4月16日付けで、馬橋の住所から出された書簡がやはり存在しているので、転居がその間であることは間違いありません。

つまり、吉川英治の杉並在住は

大正13年~15年=高円寺
大正15年~昭和4年=馬橋

ということになります。

なお、「伝記 吉川英治」より14年後に書かれた伝記「吉川英治 人と作品(後に「人間 吉川英治」に改題)」(松本昭)では、このあたりのことが修正されています。

ということは、「人間 吉川英治」を奨めた方が良かったのか?

だから電話は苦手です(苦笑)

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2009年2月 1日 (日)

高円寺じゃないよね

昨日、青梅市中央図書館から問い合わせがありました。

「利用者の方から、吉川英治が杉並に住んでいたことがあると聞いたが、それは本当か」という問い合わせがあったが、それは事実だろうか?

という問い合わせでした。

さて、実は吉川英治は、その生涯でおよそ30回も引越しをしています。

自叙伝の「忘れ残りの記」は、吉川英治の誕生から、おおむね母・いくが亡くなる大正10年(1921)までのことが書かれています。
その記述を追って見ると、吉川家はその間にちょうど20ヶ所の家に居住したことになります。
つまり、引っ越し回数は19回。

その中には何ヶ所か、英治自身は居住しなかった家も含まれますが、その間の英治は商店や工場に住み込みで働いていたり、一人暮らしをしていたりしており、それも引越しのうちに数えるならば、英治個人としては差引して20回以上の引越しになります。

もちろん、これらのほとんどは英治の意志によるものではなく、父・直広の考えや家庭の事情(貧困のために家賃滞納で追い立てを食った)などの理由によるものです。
しかし、こうした経験をしてきたせいか、作家として成功をおさめた後になっても、短期間で引越しを繰り返しています。

本格的に作家デビューした大正13年(1924)からの足取りを見てみると

都内千駄木町
 ↓
杉並町高円寺1016番地
 ↓
杉並町馬橋547番地
 ↓
落合村上落合553番地
 ↓
芝区芝公園14号地
 ↓
赤坂区表町3丁目24番地
 ↓
吉野村柚木
 ↓
品川区北品川4丁目740番地
 ↓
渋谷区松涛83番地
 ↓
港区赤坂新坂町1番地

となります。
ご覧の通り、杉並の2ヶ所に居住しています。

よく、吉川英治記念館はどういう場所かということを来館者の方に尋ねられて、「疎開して10年ほど住んだ場所です」とお答えすると、「それだけか」と言われてしまう事があります。
しかし、70年の生涯で30回もの引越しをした人間にとって、10年というのは、すごく長い時間なのです。

実際、同じ家に住み続けた期間としては、記念館となっているこの旧吉野村の家が、一番長いのです。

そこのところをピンと来ていただけないのが、残念なところです。

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