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2009年2月 5日 (木)

新築物件

先日来、吉川英治は生涯におよそ30回の引越しをした、ということを書いています。

意外と言うべきか、当然と言うべきか、その30回のほとんどが中古物件で、おおむね借家です。

この吉川英治記念館となっている旧吉野村の家に10年近く暮らしたのは、吉川英治としては珍しく長期間なのだ、ということを先日書きました。
吉川英治は、その吉野村の家を借りるのではなく、初めから買い取っており、その点も、実は珍しいことなのです。
それだけの覚悟を持って青梅に移住したということでしょう。

さて、そんな中、吉川英治自身が新築した家が2軒あります。

1軒目は昭和4年から居住した上落合の家。
2軒目は、最後に住んだ赤坂新坂町の家です。

吉川英治の『自筆年譜』昭和3年の項目に、こう書かれています。

平凡社刊「大衆文学全集」大いに売れ、寒屋に巨額の印税一時に入る。そのため家庭内にかえって不幸な兆あるを見、勉強の邪魔なりとして、建築家浜田氏に托し、上落合の新居に全部を費消す。

≪不幸な兆≫とは、最初の妻・やすとの関係のことでしょうが、英治はやすについて多くを語っていませんので、具体的なことはわかりません。
ただ、急に大金が手に入ったので、暮しが派手になり、それに浮かれる妻と、そこからの転落を少年時代に経験している夫との間で、生活感覚の違いが浮き彫りになったことは、想像できます。

そこで、家を建てて、一度チャラにしようとしたのでしょう。

そういう動機でしたから、基本的には人にまかせっきりで、あまり何をどうしろという指示や要求はしなかったようです。

この家は、棟梁が建前の日に屋根から転落して怪我をしたり、完成後になって、床柱に使った桜の木が芽を吹き、枝を伸ばすという珍事が起こったりして、奇妙がられました。

最終的には、やすとの離婚に際して、財産分与で、やす側に引渡しています。

一方、赤坂新坂町の家は、設計段階から何度も打ち合わせをし、工事が始まってからも、たびたび現場に足を運ぶなど、積極的に関わって建てた家でした。

ちなみに、北品川の家に住んでいる時から、新築の計画をしていました。
その後に渋谷の松涛に転居したのは、借家である北品川の家を明け渡す時期と、赤坂の新居が出来上がるまでの時期のズレの関係で、つなぎとして移ったということだったようです。

家が完成し、引越し作業が済んで、新居での生活を始めたのが昭和33年6月15日。
末娘・香屋子の8歳の誕生日でした。
関係者に確かめたわけではありませんが、末娘を溺愛していた英治のこと、家の完成がその頃とわかった時に、入居を末娘の誕生日にしようと決めたのではないかと思います。

しかし、吉川英治は昭和37年9月7日に亡くなります。
完成を楽しみにしていたその家で過ごすことができたのは、入院期間などを除けば、正味で4年に足りません。
また、諸般の事情から、この家は既に現存しません。

どちらもいささか物悲しい気分になる話ですが、考えてみると、居住したことのある30軒以上の家の中で2軒だけと思うから少ない気がするだけで、一般人はなかなか人生のうちに2回も家を新築することは出来ませんから、うらやましい話でもありますね。。

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