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2009年2月 4日 (水)

師と弟子の追いかけっこ

昨日の引用文の中に、井上剣花坊の名を出しました。

このブログでも何度か触れているように、作家デビュー前の若き日、川柳をやっていた吉川英治の師であったのが、井上剣花坊です。

その井上剣花坊と、震災後の時期、しばらくご近所となっていたことを、『自筆年譜』も、「伝記 吉川英治」も書いていることをご紹介したかったので、その部分を含めて引用しました。

さて、井上剣花坊の妻が、やはり川柳家の井上信子です。
その評伝「蒼空の人 井上信子」(谷口絹枝)には、こんな記述があります。

(略)大正十三年六月、吉川英治(雉子郎)の誘いで探した豊多摩郡杉並村高円寺一,〇〇〇番地の借家に移った。しかし、高円寺の家は手狭で句会も満足にできかねたため、翌十四(一九二五)年、さらに郊外に入った市外杉並町馬橋原五四七番地に広い庭つきで間取りのゆったりした借家を見つけ、昭和七(一九三二)年までそこを住居とする。(略)

文中では≪馬橋原≫としていますが、巻末の年譜では大正14年の項目に「4月、市外杉並区馬橋五四七番地へ転居」としており、これは≪馬橋≫のことです。
ちなみに、先ほど改めて調べてみたところ、杉並が村から町になるのは大正13年6月1日、周辺町村とともに東京市に編入され、杉並区となるのは昭和7年10月1日だそうです。
したがって、厳密に言うと、吉川英治が転入してきた大正13年春の時点では≪杉並村≫、剣花坊が転入してきた同6月時点では≪杉並町≫だったことになります。

さて、先日触れたように、吉川英治の杉並での住所は≪高円寺1016≫と≪馬橋547≫です。

つまり、前者はご近所、後者は番地まで同じの隣家となります。
そして、順番としては、大正13年初めに英治がまず高円寺に転居し、その誘いで剣花坊も高円寺に移り、翌14年に剣花坊が馬橋に移ったら、翌15年にその隣家に吉川英治が引っ越した、ということになります。

実のところ、関東大震災以前に、既に吉川英治は川柳の世界からは距離を置いていました。
何人かの親しい川柳人とは交流を続けたものの、川柳の創作はしていませんでした。
そして、震災後は作家としてデビューしているわけですが、そのデビュー直後の時期に、師であった剣花坊とご近所づきあいをしていたわけです。

とは言え、その状態も昭和4年に吉川英治が転出していくまでで、それ以後はまったくの疎遠になってしまいます。

そして、昭和9年に井上剣花坊は亡くなります。

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