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2009年3月29日 (日)

再告知

度々ご紹介している≪草思堂落語会≫ですが、残念ながら、まだ定員に達しておりません。

募集開始から2週間もたっているから、もうだめだろう、と躊躇しておられる方がいらしたら、まだ大丈夫ですので、ぜひご応募ください。

詳細はこちらです。

どうぞよろしく。

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2009年3月26日 (木)

牡丹の焚火

昨日触れた作品のタイトルになっている牡丹の焚火ですが、「宮本武蔵」の中にも名場面として登場します。
吉野太夫が、琵琶を打ち壊して、常に張り詰めていてはいけない、余裕がなければ、ということを諭す、その場面にです。

ところで、これについて、「安岡正篤先生年譜」(平成9年 郷学研修所安岡正篤記念館)の昭和11年1月13日の項目に以下の記述があります。

赤坂桔梗にて吉川・新井・香坂諸氏と歓談に及ぶ。吉川英治はこのときのことを「頂戴の牡丹の薪にて宿望の一会を催し候、客は安岡正篤先生・香坂昌康氏・新井洞巌翁と小生に候て――王者の贅も及ばざる一夕宴仕り候」と。前後して吉村岳城の庵(芝の金知院)で吉川英治と三人で会飲。談、たまたま「名妓吉野」に及ぶ。そしてその談はものの見事に宮本武蔵――風の巻「牡丹を焚く」「断絃」に描写された。

引用文中にある吉川英治の文章は、吉川英治が柳沼源太郎に宛てた昭和11年1月31日付け書簡の文章の抜粋です(「書簡集」に収録され、公刊されているもの)。

ちなみに、いま気がつきましたが、吉川英治が原文では「安岡正篤氏」としているものを、年譜は「先生」に書き換えていますね。
というか、引用としては(略)を入れずに、勝手に文章を省略しており、正確ではありません。

一応念のため。

さて、柳沼源太郎は、福島県須賀川市にある須賀川牡丹園の当時の園主。

牡丹の木を薪にして、火を焚くと、その炎の色も美しく、神秘的なものだということを聞いた吉川英治が、伝手を得て須賀川牡丹園から牡丹の薪を分けてもらい、それで実際に牡丹の焚火をやってみたのが、上記の昭和11年1月13日のことであった、というのが安岡の年譜の記述であり、それについての礼状が柳沼源太郎宛書簡であるわけです。

吉川英治と須賀川の関わりは、吉川英治が主宰した日本青年文化協会という団体の支部が須賀川にあり、須賀川の人々と交流をもっていたというところにありました。
記録として残っている限りでは、昭和10年11月10日と、昭和11年5月30日の2回、須賀川を訪れ、昭和11年の時に牡丹園を訪問しています。

ついでに言えば、昨日の「牡丹焚火」の掲載誌である『週刊朝日』昭和11年初夏特別号は、発行日が6月1日になっており、一方、「宮本武蔵」の『牡丹を焚く』の項は、昭和12年1月7日~10日の朝日新聞に掲載されています。

つまり、実際に牡丹の焚火をやってみてから、それを「宮本武蔵」に反映させるまでに約1年の時間をおいていたことになります。
吉川英治の中で十分に熟成されて世に出された名場面であったわけです。

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2009年3月25日 (水)

富山(1)

先日、企画展「吉川英治と花」では、花の登場する名場面を4場面紹介していると書きました。
そのうち3場面はそこで触れましたが、残りの一場面は「宮本武蔵」の『芍薬の使者』という場面です。
ただ、それは以前ご紹介しているので、ここでは触れません。

展示の中で、花にかかわる作品として、もう1作品ご紹介しています。
それをここで「作品紹介」を兼ねて、触れておきます。

江戸と富山が主たる舞台なので、ここでは富山にゆかりの作品として取り上げます。

「牡丹焚火」

武士をやめ、葛飾の在で牡丹園を営む六兵衛には、重蔵とお筆という二人の子があったが、兄の重蔵は女におぼれて家を飛び出していた。
その重蔵が残した借財をたてに、味噌屋の息子・傘亭が、お筆を嫁にと迫る。
そのお筆は、年に一度、お茶席用に牡丹の薪を貰い受けに来る富山藩士・鯖江洪太郎に秘かな思いを寄せていた。
しかし、洪太郎には、藩の将来のため、果さねばならない使命があった。
それは家老・飯田兵部の意を受けて、藩主・前田出雲守をたぶらかす妖婦、辰巳芸者上がりのお秀の方を討つ事。
だが、その決行の日、彼に代わってお秀を討ったのは、芸者時代のお秀におぼれた挙句に捨てられた重蔵であった。
お筆にすがりつかれたばかりに役目を果たし損ねた洪太郎は、お筆と心中して果てようとするが、傘亭らに見つかり、止められる。
後日、洪太郎とお筆は牡丹園を継ぎ、重蔵は罪を許されて富山城の庭方となり、傘亭は俳人として旅の空にあった。

『週刊朝日』昭和11年初夏特別号掲載の短編小説です。

花がメインとは言い難いので、やや強引ですが、取り上げてみました。

最新の単行本は「吉川英治時代小説傑作選 さむらい行儀 無宿人国記」(学研M文庫 平成15年3月18日)になります。

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2009年3月22日 (日)

梅と桜

東京も昨日、桜の開花宣言がなされ、人の心も梅から桜へと移っていく時期になりました。
毎年、桜の開花宣言があると、梅の花がまだ十分見られる状態でも、急にお客様が減ってしまうのですが、まあ、梅よりは桜の方が人気が高いので、仕方がないところですね。

企画展「吉川英治と花」も3週間経過して、あと2週間の開催ですが、その中でも梅と桜を取り上げています。

花の登場する名場面を、わずかに4場面ですが、展示の中に取り上げています。

梅の出てくる場面は2場面。

平治の乱に敗れ、捕らえられた源頼朝の処遇について触れた「新・平家物語」の『紅梅は芯まで紅い』の章。

足利高氏が佐々木道誉の屋敷で田楽女の藤夜叉と出会い、関係を持ってしまう一夜を描いた「私本太平記」の『藤夜叉』の章。

一方、桜の場面としては、物語の語り部的役割の登場人物である麻鳥夫妻が吉野山の桜を見ながら人間の幸せについて語らう「新・平家物語」の最終回『吉野雛』の章を取り上げました。

たまたまこうした選択になったとも言えますが、考えてみると、梅の場面の方がどこかねっとりとした情念を感じさせるのに対して、桜の方は晴れがましく吹っ切れた感じを受けます。

パッと咲いて、パッと散る、散り際を楽しむような桜の花と、じっくり時間をかけて徐々に咲いていくので長期間観賞でき、妖艶な香りも楽しめる梅の花との、違いであるようにも思えてきます。

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2009年3月18日 (水)

訃報・須知徳平氏

作家の須知徳平氏がお亡くなりになりました。

そのことについて、数件、マスメディアからの問い合わせがありました。

須知徳平氏は第1回吉川英治賞受賞者で間違いないか?

という問い合わせです。

マスメディアの方が疑問に思われるのも無理はありません。

実は、吉川英治賞は、二つあるのです。

昭和37年1月、毎日新聞社から吉川英治の「私本太平記」に対し、毎日芸術大賞が贈られます。
その際、毎日新聞社から、その賞金100万円を基金として、新人作家育成のための≪吉川英治賞≫を創設したい、との申し入れがあり、吉川英治はそれを了承します。
毎日新聞社は、直ちにこれを発表し、原稿を募集します。
しかし、吉川英治は、賞の結果発表を待たずに同年9月7日に死去。
そして、翌38年1月に、第1回吉川英治賞が決まります。

それが須知徳平氏の「春来る鬼」でした。

その後、昭和40年に講談社を中心として財団法人吉川英治国民文化振興会が設立され、毎日新聞社に対し、≪吉川英治賞≫の譲渡を申し入れます。
≪吉川英治賞≫をより大きく発展させたいとする振興会側の意志を受け、その意義を認めた毎日新聞社が賞と基金を振興会へ引き継ぐことを承認します。

かくして昭和41年に≪吉川英治賞≫は振興会に移管され、翌42年、新たに≪吉川英治文学賞≫≪吉川英治文化賞≫の二賞として再スタートします。

この新生≪吉川英治文学賞≫の第1回受賞者は、松本清張氏でした(「昭和史発掘」「花氷」「逃亡」ならびに幅広い作家活動に対して)。

もう40年以上前のことでもあり、こうした経緯があったことが忘れられてしまい、マスメディアの方々も混乱されたのでしょう。

まぎれもなく、須知徳平氏は記念すべき≪吉川英治賞≫の最初の受賞者なのです。

ご冥福をお祈りいたします。

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2009年3月15日 (日)

落語会の応募受付

先日お伝えした≪草思堂落語会≫の参加希望者の応募受付を本日から始めます。

応募者が多数の場合には抽選とさせていただきます。
リンク先に記したように、4月7日までには、ご参加の皆様に入場整理券を兼ねたハガキをお送りし、それをもって発表と代えさせていただきます。

ハガキを4月7日までにお送りする関係上、応募が定員を超えた場合には4月4日到着の申し込みまでを抽選の対象とさせていただきます。
逆に、定員に満たない場合には4月7日以降でも受け付けますので、お問い合わせください。

では、ご応募をお待ちしております。

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2009年3月14日 (土)

好きだった花

現在、春の企画展として「吉川英治と花」を開催しています(4月5日まで)。

吉川英治の著作については、現在、『吉川英治歴史時代文庫』というものが、講談社から刊行されています。

これをご購入になった方、あるいは書店で手に取られた方、その装丁に、こんなマークがついているのに気づかれたでしょうか?

Img_2419

リンドウの花です。

これについて、カバーの見返しの部分に、吉川英治夫人である故吉川文子によるこんな一文が書かれています。

花といえば、あでやかな大輪よりも、ひっそりと野に咲く可憐な花、それが主人の好みでございました。
なかでも、りんどうは、その青紫の花弁の初々しさと、清楚なたたずまいを、ことのほか愛でていたようでございます。
瀟洒な文庫本に、りんどうの花、主人も、きっと、気に入ってくれることと存じます。

リンドウの他、キキョウやツユクサなどを好んだようで、よく絵にしていました。

絵に描いた花としては、やはり、≪吉野梅郷≫に暮らしたこともあり、ウメが筆頭になります。

そんな、吉川英治が描いた花々も、この企画展では展示しています。

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2009年3月11日 (水)

映画の中の日本文学

東京国立近代美術館フィルムセンターから、同館の展示室で開催(4月3日~6月18日)される「映画資料で見る 映画の中の日本文学 Part2 昭和の始まりから終戦期まで」のチラシが送られてきました。

チラシを見ると、吉川英治原作の「宮本武蔵 二刀流開眼」(1963年 内田吐夢監督 中村錦之助主演)のポスターの写真が出ていました。

映画化された文学ということになると、やはり大衆文学を無視できない、ということでしょうか。

そう言えば、吉川英治は随筆『映画』(随筆集「草思堂随筆」所収)の中でこう書いています。

私の書く物は初めから映画を意識して書いていると誰かがやや批難した口吻でいったことがある。
私は、その批評家の感覚ののろまさに、おかしくなった。
(略)そして、少なくも大衆の求望に関心をもって、また、時代人の感覚を、小説機構のうえに考えて、ものを書くとすれば、小説が、そのテンポを、表現を、映画的にリズムを持つのは、当りまえ過ぎるほど、当りまえな現象であろう。
といって私は、処女作から今日のものまで、映画を意識して書いたことなどは、一遍だってない、決してない。しかし、大衆と活字、大衆と時間、大衆と読物――、それらの関係は常に意識どころではない、頭のしんに置いて書いている。

映画とは大衆の動向や時代感覚に敏感なものであり、そうであるならば、大衆との関係において同じ位置に立つ大衆文学が、映画と同じようなリズム感を持つのは、当然のことだ、ということです。

現代においては、映画を、マンガや、ゲームや、ネットや、ケータイに置き換えて考えれば、意味は通るでしょう。

ちなみに、日本映画データベースというサイトで検索すると、1926年の「鳴門秘帖第一篇」から1973年の「宮本武蔵」まで、207作品がヒットします。

≪映画化前提の小説≫と言いたくなるのも、わかる数字ですね。

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2009年3月10日 (火)

カタクリが咲き始めました

Img_2409

先週、既に一輪咲き始めていましたが、今週に入って、次々に咲き始めています。
本格化するのも、あと少しのようです。

ウメ同様、今年は少し早いようですね。

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2009年3月 6日 (金)

吉川英治賞発表

一昨日、本年度の吉川英治賞が発表されました。

昨日の新聞には既に記事になっているので、出遅れてしまいましたが、ご紹介しておきます。

◎第43回吉川英治文学賞

・奥田英朗 『オリンピックの身代金』(角川書店刊)

◎第30回吉川英治文学新人賞

・朝倉かすみ 『田村はまだか』(光文社刊)

・柳広司 『ジョーカー・ゲーム』(角川書店刊)

◎第43回吉川英治文化賞

・垣見一雅=ネパールに居住し、住民から寄せられる様々な問題と向き合い、生活の自立を支援。

・田村恒夫=阿波木偶の伝統技法を伝承発展させ「阿波木偶制作保存会」を設立し、後進の指導にあたる。

・中野主一=長年にわたり観測者から寄せられる新天体の軌道計算を続け、国内における新天体発見へ貢献。

・長尾 直太郎=75年にわたり我が国の貴重な文化である浮世絵版画の制作に打ち込み、後継者の育成にも尽力。

以上の合計7人の方々です。
おめでとうございます。

来月10日には贈呈式と祝賀パーティがありますので、その後で、また詳しくご紹介したいと思います。

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2009年3月 4日 (水)

落語会の演目決定

心配された雪は、結局ほとんど積もりもせず、大きな混乱も生じることもなく、一安心です。

さて、先日告知した≪草思堂落語会≫ですが、吉川英治原作の落語の演目が決まりました。

「弘法の灸」という作品です。

鳶職の丁吉は、正月の出初式で調子にのって、できもしない梯子乗りに挑戦した挙句に大失敗。おかげでそれ以来、体調がいまひとつで、年を越してもう2月だと言うのに、いまだ仕事に出かけようともしない。鳶の頭のおかみさんから、弘法様のお灸が効くと聞いて、さっそく出かけるが……

というあらすじです。

この作品、≪雉子郎≫の名義で、雑誌『面白倶楽部』大正11年4月号に掲載されたもの。

吉川英治が、専業の作家としてデビューするのは大正13年のことですから、これはいわば≪アマチュア≫時代の作品ということになります。

その点でも、貴重な落語会ということになります。

ご興味のある方、応募要領はこちらとなりますので、ぜひお申し込みください。

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2009年3月 3日 (火)

川端康成の心遣い

2月は暖かかったのに、ここへ来て寒い日が続いています。
せっかく梅郷の梅も咲きそろってきたというのに、今日も雪です。

さて、企画展「吉川英治と花」に関する話題を、いくつかご紹介していきたいと思います。

昭和37年9月7日、吉川英治は70年の生涯を閉じました。
翌8日通夜が営まれ、9日に自宅にて密葬されます。

その通夜の晩、川端康成が野の花をひと包み携えてやって来ます。
それは、軽井沢の避暑先にいた川端康成が、訃報を聞き、吉川英治の軽井沢の別荘に立ち寄って、そこでみずから摘んできたものでした。

吉川英治さんの別荘のまはりや庭を、私はひとりでさまよひ歩いた。(略)私は吉川さんの庭に、なにかの花が咲いてゐれば、愛してゐられた山荘のことだから、お葬ひの花は吉川山荘の花をつんでゆくのが、地味ではあつても、心はあると思つて、ひとつはその検分に行つたのであつた。

そう川端康成は、この時の気持ちを述べています。

川端康成から受け取った花を、文子夫人は仏前の祭壇に飾りました。

吉川山荘のかへでの枝や笹の葉は、吉川夫人にもよろこんでもらへたが、霊前へ飾るのに、焼香をする側からは裏向きに供へられたので、私がさういふと、夫人は主人に見せてやりたいのでさうしたと答へられて、私はなんとも恥づかしかった。(川端康成の随筆「美智子妃殿下」から)

この話を記憶していたので、先年、吉川文子夫人が亡くなられた際、職員に旧吉川英治邸でもあるこの吉川英治記念館の庭に咲いている草花を摘ませ、通夜・葬儀のお手伝いにうかがう時に持参し、お棺の中に納めさせていただきました。
高齢になって館長から名誉館長へと退かれてからは、あまり青梅にもお出でにならなくなったので、気にしていらっしゃるだろうと思ったからです。

人真似でお恥ずかしい話ですが、愛着を持っておられた記念館の花ですから、些細なものではありましたが、夫人に喜んでいただけたのではないかと、勝手に思っています。

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2009年3月 1日 (日)

吉川英治と花

一日遅れましたが、昨日から春の企画展「吉川英治と花」を開催しています。

吉川英治の作品に登場する花、好きだった花など、吉川英治と花にまつわるあれこれを、自身が書き残した書画、小説作品の挿絵原画などを通して、ご紹介します。
また、あわせて記念館の庭内に咲く花々もご紹介します。

会期は4月5日(日)までです。

小規模な展示ですが、常設展の方も、観梅のシーズンに合せて梅に関する書画をたくさん出していますので、花づくしです。

どうぞお立ち寄りください。

あわせて、お知らせですが、本日3月1日から、営業時間が冬時間から平常に戻ります。

10時開館、16時30分入館受付終了、17時閉館、となります。

よろしくお願いいたします。

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