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2009年3月26日 (木)

牡丹の焚火

昨日触れた作品のタイトルになっている牡丹の焚火ですが、「宮本武蔵」の中にも名場面として登場します。
吉野太夫が、琵琶を打ち壊して、常に張り詰めていてはいけない、余裕がなければ、ということを諭す、その場面にです。

ところで、これについて、「安岡正篤先生年譜」(平成9年 郷学研修所安岡正篤記念館)の昭和11年1月13日の項目に以下の記述があります。

赤坂桔梗にて吉川・新井・香坂諸氏と歓談に及ぶ。吉川英治はこのときのことを「頂戴の牡丹の薪にて宿望の一会を催し候、客は安岡正篤先生・香坂昌康氏・新井洞巌翁と小生に候て――王者の贅も及ばざる一夕宴仕り候」と。前後して吉村岳城の庵(芝の金知院)で吉川英治と三人で会飲。談、たまたま「名妓吉野」に及ぶ。そしてその談はものの見事に宮本武蔵――風の巻「牡丹を焚く」「断絃」に描写された。

引用文中にある吉川英治の文章は、吉川英治が柳沼源太郎に宛てた昭和11年1月31日付け書簡の文章の抜粋です(「書簡集」に収録され、公刊されているもの)。

ちなみに、いま気がつきましたが、吉川英治が原文では「安岡正篤氏」としているものを、年譜は「先生」に書き換えていますね。
というか、引用としては(略)を入れずに、勝手に文章を省略しており、正確ではありません。

一応念のため。

さて、柳沼源太郎は、福島県須賀川市にある須賀川牡丹園の当時の園主。

牡丹の木を薪にして、火を焚くと、その炎の色も美しく、神秘的なものだということを聞いた吉川英治が、伝手を得て須賀川牡丹園から牡丹の薪を分けてもらい、それで実際に牡丹の焚火をやってみたのが、上記の昭和11年1月13日のことであった、というのが安岡の年譜の記述であり、それについての礼状が柳沼源太郎宛書簡であるわけです。

吉川英治と須賀川の関わりは、吉川英治が主宰した日本青年文化協会という団体の支部が須賀川にあり、須賀川の人々と交流をもっていたというところにありました。
記録として残っている限りでは、昭和10年11月10日と、昭和11年5月30日の2回、須賀川を訪れ、昭和11年の時に牡丹園を訪問しています。

ついでに言えば、昨日の「牡丹焚火」の掲載誌である『週刊朝日』昭和11年初夏特別号は、発行日が6月1日になっており、一方、「宮本武蔵」の『牡丹を焚く』の項は、昭和12年1月7日~10日の朝日新聞に掲載されています。

つまり、実際に牡丹の焚火をやってみてから、それを「宮本武蔵」に反映させるまでに約1年の時間をおいていたことになります。
吉川英治の中で十分に熟成されて世に出された名場面であったわけです。

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コメント


雪に焚く牡丹の如き業火かな   恭子

このような句ができまして、出してしまいました。
それがこともあろうに、長崎原爆忌の俳句大会です。
一点もいただけませんでした。
最高点の句は「にんげんの火」の句でした。

にんげんの火がまだ八月の樹にのこる  河野 泉

投稿: 姫野 | 2009年9月16日 (水) 09時26分

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