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2009年3月11日 (水)

映画の中の日本文学

東京国立近代美術館フィルムセンターから、同館の展示室で開催(4月3日~6月18日)される「映画資料で見る 映画の中の日本文学 Part2 昭和の始まりから終戦期まで」のチラシが送られてきました。

チラシを見ると、吉川英治原作の「宮本武蔵 二刀流開眼」(1963年 内田吐夢監督 中村錦之助主演)のポスターの写真が出ていました。

映画化された文学ということになると、やはり大衆文学を無視できない、ということでしょうか。

そう言えば、吉川英治は随筆『映画』(随筆集「草思堂随筆」所収)の中でこう書いています。

私の書く物は初めから映画を意識して書いていると誰かがやや批難した口吻でいったことがある。
私は、その批評家の感覚ののろまさに、おかしくなった。
(略)そして、少なくも大衆の求望に関心をもって、また、時代人の感覚を、小説機構のうえに考えて、ものを書くとすれば、小説が、そのテンポを、表現を、映画的にリズムを持つのは、当りまえ過ぎるほど、当りまえな現象であろう。
といって私は、処女作から今日のものまで、映画を意識して書いたことなどは、一遍だってない、決してない。しかし、大衆と活字、大衆と時間、大衆と読物――、それらの関係は常に意識どころではない、頭のしんに置いて書いている。

映画とは大衆の動向や時代感覚に敏感なものであり、そうであるならば、大衆との関係において同じ位置に立つ大衆文学が、映画と同じようなリズム感を持つのは、当然のことだ、ということです。

現代においては、映画を、マンガや、ゲームや、ネットや、ケータイに置き換えて考えれば、意味は通るでしょう。

ちなみに、日本映画データベースというサイトで検索すると、1926年の「鳴門秘帖第一篇」から1973年の「宮本武蔵」まで、207作品がヒットします。

≪映画化前提の小説≫と言いたくなるのも、わかる数字ですね。

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