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2009年4月30日 (木)

吉川英治の家族旅行

昨日触れたように、家が傾いて以降の吉川英治は、生活に追われ、家族旅行ができるような状況ではありませんでした。
まあ、そもそも、いま我々がイメージするような家族旅行自体が、明治・大正時代にはまだ一般的ではなかったのかもしれませんが。

一方、作家となってからの吉川英治は、すぐに売れっ子となったおかげで、経済的には余裕ができました。

作家デビューの時点で既に両親は失っていましたが、結婚をし、自分の家族を持っていました。

しかし、売れっ子になったがために、逆に多忙となって、家族旅行をするような時間がなくなってしまいました。

そんな中で、ちょっと変則的な≪家族旅行≫を実践しています。

ひとつは、執筆のために関東近郊の温泉地にこもり、そこへ家族を呼び寄せるというパターン。
今に残る家族写真や、温泉地から出された書簡類の文面から、そうした形での≪家族旅行≫の様子がうかがえます。

もうひとつは、取材旅行や講演旅行に家族をともなうもの。
戦後の「新・平家物語」や「私本太平記」の頃にそうした例がたびたびありました。

しかし、いずれの場合も仕事と完全に切り離して、家族だけでゆっくりと旅をする、という家族旅行とは程遠いもの。
その意味では、吉川英治はついに純然たる家族旅行は経験できないままその生涯を終えてしまったと言えるのかもしれません。

吉川英治の短詩に

奈良へ来ても 伊勢路に来ても
見れば見とれぬ 母ある人の
ははともなふを

というものがあります。
これは伊勢神宮から大和路へと旅した際の詠。
母親を連れて旅をしている人を見ると、うらやましく思うという気持ちを率直に表現したものです。

吉川英治の母・いくは、英治が作家となる前に世を去っています。
せっかく経済的に余裕ができて、家族旅行ができる身の上になったのに、生前、苦労ばかりだった母を旅に連れて歩くことももはや適わないという、深い悔恨の念のこめられています。

純然たる家族旅行ではなくとも、家族と思い出を共有できたことは、それだけで、吉川英治にとって幸せなことだったのかもしれません。

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2009年4月29日 (水)

子供時代の旅

現在では、誰しも忘れられない子供時代の旅というものがあるでしょう。

夏休みに親の実家に行くとか、テーマパークに行くとか、学校でも修学旅行や宿泊学習があります。

しかし、吉川英治の場合は、父の事業の失敗による家の没落のため、小学校を中退して家計を助けるために働かざるを得なかったために、10代の英次(吉川英治の本名)には、旅を楽しむ余裕はありませんでした。

しかし、それでも、そのようになる以前の少年時代、2度、生地・横浜を離れて汽車に乗って小旅行をしたことを、自叙伝「忘れ残りの記」の『春の豆汽車』の章に書いています。

最初は小学校入学の前後、母親のいくが郷里である現在の千葉県佐倉市に帰省するのに連れられて行ったもの。
途中、いくの姉・豊子の婚家である斎藤恒太郎の家に1泊しますが、そこは東京青山の北白川宮邸内。
というのも、当時斎藤恒太郎が宮家の教育掛りをしていたからで、翌日、特別に宮家の内部を見学させてもらい、そこで鉄道模型を見て驚いたことを書いています。

一方、いくの実家である山上家も地元の名家で、英治の祖父である弁三郎は当時の臼井町(現在は佐倉市に含まれる)の町長も勤めた人物。
その屋敷で歓待された後の、横浜への帰途、新橋駅で母から見張っておくように言われた荷物をまんまと盗まれ、派手に大泣きしたことが、忘れがたい出来事だったと書き残しています。

2度目は、小学校3年生の時、東京上野で“全国児童選書展覧会”というようなものが開かれ、おそらくそれに入選した児童数名が校長先生に引率されて会場に行ったのだと書いています。
しかし、印象に残っているのは、乗り合いの鉄道馬車の中で、ある児童の母親の膝の上に抱かかえられたことだったと言います。
それは英治にとっての微かな性の目覚めといってよい出来事だったようです。

これが吉川英治にとっての、たった2度限りの旅の記憶です。

ちなみに、新橋駅で盗まれた荷物の中身は、幸い金品ではなく、隣近所へのお土産用の印旛沼名物のうなぎの白焼きだったので、「泥棒も始末に困っただろうよ」と後で何度も笑い話にしたとのことですが、思えばそれが吉川英治と母いくが一緒に旅をした唯一の記憶になるわけですから、反芻できるものはそれしかなかったわけです。

そう考えると、少し切ない笑い話ですね。

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2009年4月28日 (火)

旅日記

吉川英治は日記を書かない人だった、と先日書きましたが、ごく稀に吉川英治も日記を書くことがありました。

それが実は旅の時なのです。

ちょっとしたメモ程度ではない、まとまった日記として現存しているのは、

1)昭和17年に朝日新聞特派員として当時日本の占領下にあった南方圏を一巡した際の「南方紀行日誌」

2)昭和25年に連載中の「新・平家物語」の取材旅行に行った際の「新・平家物語取材日誌」

3)昭和36年に連載中の「私本太平記」の取材に長女・曙美をともなった際の「曙美との旅雑記」+「浅春京日記」

このくらいです。

これ以外のものは、取材メモという感じで、日付のあるものもありますが、日記という感じにはなっていません。

今回の企画展「旅の吉川英治」では、(3)を展示しています。
昭和36年3月17~20日という短い旅ですが、17・18日分(これが「曙美との旅雑記」)と19・20日分(こちらが「浅春京日記」)が小型の帖2冊に分けて記載されています。

企画展を行っている部屋が外光を遮断できないので、1冊ずつ交代で出す予定です。
いまは、なぜか後半の「浅春京日記」の方を展示しています。

ま、「なぜか」と言っても、単に私の気まぐれですが。

この旅は、取材旅行ではありますが、長女・曙美をともなっているというところがミソです。
実は、この旅の直前に曙美に対して求婚した男性がおり、英治としてはそれを受諾する気持ちになったので、娘と旅をできる機会も今後ないかもしれないから、あえて曙美をともなったという旅だったのです。

嫁に出す娘との、最後になるかもしれない旅。
それゆえに書き残した日記。

そういう性質のものなのです。

もっとも、そうでありながら、内容を見ると、特に娘への想いを強調することもなく、出来事を淡々と記しているだけの日記になっています。

言葉で伝えずとも、娘が後でこれを見て想うものがあればそれでよい、というような、吉川英治なりの愛情表現だったのかもしれません。

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2009年4月26日 (日)

宮本武蔵紀行絵巻

ということで、企画展「旅の吉川英治」の展示品をいくつかご紹介していこうと思います。

まずは表題の「宮本武蔵紀行絵巻」。
厳密にはタイトルのついていない資料なので、私が勝手に名付けたものですが。

数年前、吉川家にあった未整理資料を確認していたところ、巻子が見つかりました。
開いてみると、山海の風景画に吉川英治の賛が加えられたものでした。

そこに付された地名を見て、ピンと来るものがありました。

英治は、昭和12年1月に、「宮本武蔵」の取材として、九州を旅行しています。
そのことは、「随筆宮本武蔵」に「遺跡紀行」として収録された文章からわかるのですが、それだけでは、旅の詳しい足跡が確認できません。
あいにく、英治は日記を書かない人なので、細かい道程などを確認できる一次資料がないのです。

ただ、この旅には、友人で画家の野口駿尾という人物が同行していました。
この人物が、雑誌『書と詩画』昭和12年4月号に「鎮西の旅――「好日の旅」」という文章を寄せていて、これがこの旅について日記風に記述したものでした。
これによって、どのような旅だったのかが、わかります。

自宅のある東京を出発したのが1月9日。
鉄道の燕号に乗って大阪まで行き、宿泊。
翌10日、宿で「宮本武蔵」の原稿を書いた後、夜、神戸から別府行きの船に乗って船中泊。
11日は、船が高浜あたりまで着たところで起床し朝風呂。船は午後に別府到着。
この日から14日まで別府に滞在。
滞在中は「宮本武蔵」の原稿を書こうとするものの、吉川英治の来訪を聞きつけた代議士や市長などの訪問者や電話がひっきりなしのため、野口と別れて英治は別の旅館に移って、執筆に精を出すという事態に見舞われています。
14日の正午に別府駅から熊本直行の汽車に乗り、午後熊本着。17日まで熊本に滞在します。
この間に、熊本市の観光課長らの案内で千葉城址・霊巌洞・武蔵塚・泰勝寺を見学しています。
17日早朝に熊本発ち、門司へ移動し、朝日新聞社の人々の案内で風師山へ行き巌流島を見下ろし、延命寺山で武蔵碑を見て、下関に渡り、下関から寝台急行に乗車。
翌18日、大阪駅で野口と別れ、英治はそのまま東京に戻ります。

さて、巻子には、ここに出てくる高浜や別府の地名があり、そこからこの旅を描いた絵巻であろうと推定したわけです。

この巻子には画家の署名・落款はないのですが、英治の画風とは思われず、また、旅の経緯からしておそらく野口のものと考えています。
ただ、絵に対する英治の賛は途中までしかないので、野口と合作しようとして、多忙のため中断し、そのままになってしまったものではないかと推測しています。

ちなみに、後に同じ仕立ての巻子がもう1点見つかり、調べたところ、白紙の巻子の末尾に野口を讃える英治による漢文が途中まで書かれていました。
こちらも野口との合作を企図したものだったのかもしれません。

どちらも未完成なのが残念です。

なお、野口の文章では1月10日、朝から野口の≪舎兄≫がやって来て、神戸から船に乗る前に食べた晩餐に同席したという事が書かれています。
野口駿尾は男3人女1人の兄弟の次男ですので、≪舎兄≫とは長男の野口遵ということになりそうです。
野口遵は、ご存知の方はよくご存知な実業家で、日本窒素肥料(現チッソ)、日本ベンベルグ絹糸(現旭化成)の創業者です。

ちょっと意外な縁です。

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2009年4月25日 (土)

企画展「旅の吉川英治」

本日から企画展「旅の吉川英治」を開催します。

吉川英治は、積極的に取材旅行を行なって作品を書くというよりは、どちらかといえば書斎派というべき作家でしょう。
それでも生涯には何度か取材旅行も経験していますし、出版社による旅企画にも参加したりしています。
もちろん、作家活動とは離れて、独身時代の旅から、家族旅行まで、プライベートな旅も楽しみました。

ゴールデンウィークをはさむ初夏の行楽シーズンに、そんな吉川英治の旅の写真を中心として、旅にまつわる資料を集めて展示します。

会期は5月31日(日)までです。

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2009年4月15日 (水)

手紙の行方

漫画の原稿が大量に盗まれ、古書店に持ち込まれるという事件があったようです。
犯人は26歳の女性だそうですが、そんな若い女性がどうして「やる気まんまん」の原稿を盗もうと思ったのか、謎ですね(苦笑)

しかし、こんな話は昔からいくらでもあって、古書業界に通じている方なら、それだけで本が何冊も書けるぐらいネタがあるでしょう。

吉川英治も、随筆にこんな話を書いています(随筆「ふる手紙」)。

九条武子から佐々木信綱へあてた手紙が大量に古書市場に出てきたので、どうしてそんなことになったのかと古書店の主人に尋ねたところ、夏の大掃除か虫干しの際に紙屑屋に持ち去られたものだということであった、という話です。

随筆のタイトルである「ふる手紙」とは、その九条武子の手紙ということではなくて、英治自身の手元に残っている自分宛の書簡のことですが、どんなものが残っているかということを書いているものが、実に興味深いものです。

女から来た手紙に、父が附箋を附けて、それへ赤鉛筆で「いいかげんにせよ」と書いてあるのなどもたしか混っている。その他ずいぶん自分にとっては赤面のものもあるし、今は知名の士で、世に出ては工合の悪かろう文通もある。(略)子に甘かった母の手紙など思うとやはりもう一度閑日にゆっくりひろげて母の乳の香をしのびたいなどという慾も出る。どうしてその時ごとに焼いてしまわなかったかと、その負担に今では悔いているのである。

この随筆は昭和9年頃に書かれたものですが、では、これらの手紙がその後どうなったのかというと、

かつて吉野村へ疎開した荷物の中にも、何やら大事そうに細引をかけた古ツヅラが一箇あったので、解いてみたら、その中の物は、みんな綿みたいになった古手紙やら古葉書ばかりだった。(略)そのときは明日も知れない世だったから、母の手紙一、二通を残したほか、みんな焼き捨ててしまった(後略)(随筆「手紙焚き」より)

ああ、もったいない(苦笑)
残っていたら、いろんなことがわかったでしょうに。

以後、年に1、2回は手紙焚きをして、焼くには惜しいもの以外は処分してしまったのだそうで、確かに、当館に移管された吉川英治への来信書簡類は、吉川英治の多様な交流に比して、数は多くありません。

本当に残念です。

もっとも、手紙などというのは、プライバシーそのものなわけで、そんなものを調べ上げて、その人物を掘り下げようなどというのは、あまり人間として程度の良い話とは言えません。

それも文学研究の一部ではあるのですが、ゴシップ雑誌と大差ない気がして、時々イヤな気分になることも確かです。

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2009年4月10日 (金)

ミツバツツジが満開です。
ケータイで撮った写真なので画質や色がイマイチですが、本当に鮮やかな色をした花ですね。

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話は変わって、落語会の募集ですが、定員を超えましたので、締め切らせていただきました。
ご応募ありがとうございました。

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