« 旅日記 | トップページ | 吉川英治の家族旅行 »

2009年4月29日 (水)

子供時代の旅

現在では、誰しも忘れられない子供時代の旅というものがあるでしょう。

夏休みに親の実家に行くとか、テーマパークに行くとか、学校でも修学旅行や宿泊学習があります。

しかし、吉川英治の場合は、父の事業の失敗による家の没落のため、小学校を中退して家計を助けるために働かざるを得なかったために、10代の英次(吉川英治の本名)には、旅を楽しむ余裕はありませんでした。

しかし、それでも、そのようになる以前の少年時代、2度、生地・横浜を離れて汽車に乗って小旅行をしたことを、自叙伝「忘れ残りの記」の『春の豆汽車』の章に書いています。

最初は小学校入学の前後、母親のいくが郷里である現在の千葉県佐倉市に帰省するのに連れられて行ったもの。
途中、いくの姉・豊子の婚家である斎藤恒太郎の家に1泊しますが、そこは東京青山の北白川宮邸内。
というのも、当時斎藤恒太郎が宮家の教育掛りをしていたからで、翌日、特別に宮家の内部を見学させてもらい、そこで鉄道模型を見て驚いたことを書いています。

一方、いくの実家である山上家も地元の名家で、英治の祖父である弁三郎は当時の臼井町(現在は佐倉市に含まれる)の町長も勤めた人物。
その屋敷で歓待された後の、横浜への帰途、新橋駅で母から見張っておくように言われた荷物をまんまと盗まれ、派手に大泣きしたことが、忘れがたい出来事だったと書き残しています。

2度目は、小学校3年生の時、東京上野で“全国児童選書展覧会”というようなものが開かれ、おそらくそれに入選した児童数名が校長先生に引率されて会場に行ったのだと書いています。
しかし、印象に残っているのは、乗り合いの鉄道馬車の中で、ある児童の母親の膝の上に抱かかえられたことだったと言います。
それは英治にとっての微かな性の目覚めといってよい出来事だったようです。

これが吉川英治にとっての、たった2度限りの旅の記憶です。

ちなみに、新橋駅で盗まれた荷物の中身は、幸い金品ではなく、隣近所へのお土産用の印旛沼名物のうなぎの白焼きだったので、「泥棒も始末に困っただろうよ」と後で何度も笑い話にしたとのことですが、思えばそれが吉川英治と母いくが一緒に旅をした唯一の記憶になるわけですから、反芻できるものはそれしかなかったわけです。

そう考えると、少し切ない笑い話ですね。

|

« 旅日記 | トップページ | 吉川英治の家族旅行 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 旅日記 | トップページ | 吉川英治の家族旅行 »