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2009年5月31日 (日)

井伊直弼の首は落ちたか――その1

横浜は、今年が開港150年ということで、様々なイベントが行われているようです。

それにちなんで、昨年から個人的に懸案となっていることがあります。
自分なりに調べた上で、このブログに何か書こうと思いながら、雑事にまぎれてそのままにしてしまっていたのですが、不明のままでも一度は何か書いておいた方が良いと思い、以下に、経緯を書いてみたいと思います。

昨年、横浜で郷土史を研究されている方から、≪井伊直弼銅像首切り事件≫は存在していないのではないか、というご自身の研究の資料をお送りいただきました。

≪井伊直弼銅像首切り事件≫とは、このブログで以前に書いたことのあるこの事件のことです。

ご研究の要旨は、乱暴にまとめさせていただくと

・井伊直弼の銅像の首が切られたという公的な記録や報道記事は確認できない。
・この事件に触れた書物は複数あるが、いずれも最終的には吉川英治の随筆「歴史上の人物あれこれ」(厳密には談話筆記)にたどり着き、これ以前にこの事件に言及した文章は見当らない。
・このことから考えて、これは吉川英治の誤認あるいは捏造であって、発生していない事件ではないのか。

ということです。

実は、上のリンク先の文章を書いた時に、ひとつ引っかかることがありました。

銅像のたどった運命について書くにあたって、首を切られた後の銅像がどうなったのかを確認しようと思ったのですが、それについての既述が見つけられなかったのです。

問題の井伊直弼の銅像は、昭和18年に戦時中の金属供出のために撤去されるまで存在していました。
もちろん、首が切れた状態ではなく、ちゃんとした全身像で、です。
それは当時の写真で確認できます。
ということは、銅像の首が切られたのなら、事件の後すぐに何らかの形で再建されたことになります。

頭部だけを作り直して接続したのなら、首にその痕跡が残るでしょう。
しかし、私が見た何枚かの写真は、古い出版物に掲載された写真で鮮明ではないこともあって、そんな痕跡は見受けられませんでした。
傍目にはわからないようにきれいに修復したのかもしれませんが、もしそうだとしても、供出のための撤去の際には確認できたはずで、その時に改めて話題になっていてもおかしくないはずです。

全身を作り直した可能性もありますが、そのような大事になったなら、何か記録が残っていてもいいはずです。
また、そうなったら、再度除幕式を行ったかもしれません。

首が切られたものを再建したのなら、当然起こるであろうそうした出来事の記録が見当らないのです。

見当たらないと言っても、当館の所蔵資料や、私が個人的に買った資料などほんの数点しか確認していないので、ここのところをちゃんと調査した上でこの文章を書こうと思っていたのですが、思っているうちに開港150年が過ぎてしまってはと思い、とりあえず書いてみました。

なんにせよ、管見の限りでは、誰も首を切られた銅像のその後を知らないのです。

しかし、事件が実は発生していなかったのだとすれば、それも当然ということになります。

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2009年5月27日 (水)

栗本薫さん

作家の栗本薫さんが昨夜お亡くなりになったそうです。

私などは、≪中島梓≫としてテレビのクイズ番組に出ておられた姿の方が印象に残っています。

すぐに思い浮かぶ代表作は「グインサーガ」ということになるのでしょうが、実は昭和56年に「絃の聖域」で第2回吉川英治文学新人賞を受賞なさっています(ちなみに、「闇と影の百年戦争」の南原幹雄氏と同時受賞)。

当館との関係で言えば、平成4年10月17日、有楽町マリオンで開催していた展覧会「生誕百年記念 吉川英治の世界」の特別イベントとして行われた公開座談会に、パネラーとしてご参加いただいています(司会:鈴木健二、出席は他に伊集院静、北方謙三、松本昭、吉川英明)。

その際に、栗本さんは、多くの吉川作品を愛読したことをお話しになった他、その影響の一つとしてこんなことを話されました。

吉川英治の作品からは、実際の作品には書かれていない物語のうしろ側の生活が感じられる。その具体例が「新・平家物語」における麻鳥夫妻の存在だ。彼らが存在することで、歴史の主人公たちの起こす様々な事件の下にある庶民の姿が浮かびあがる。自分も、「グインサーガ」の中に庶民である居酒屋一家を登場させるという形で、この手法を取り入れている。

栗本さんと言えば「グインサーガ」の長さと同時に、多作でも有名だと思いますが、この座談会の時にも、パソコンで執筆しているということに触れ、「手で書いていては思考の速度に追いつかない、ブラインドでキーボードを叩く方が早くて、思考がそのまま流れ出てくるのでちょうど良い」というようなことを話されていた記憶があります。

享年56歳では、さぞ書き足りなかったことだろうと思います。

ご冥福をお祈りいたします。

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2009年5月23日 (土)

文学とマンガと

昨日、当館はカテゴリー上は歴史博物館に含まれるのだということを書きました。
それは要するに、文化庁にせよ、日本博物館協会にせよ、文学館を一つのカテゴリーとして独立させる必要はないと考えているということでしょう。

そんな状況の中で、文学館には文学館独自の存在価値や、課題があると考え、それを追求するために誕生したのが全国文学館協議会であると言えます。

しかし、その一方で、宝塚の手塚治虫記念館や石巻の石ノ森萬画館などの、マンガ家を扱ったミュージアムは、全国文学館協議会に参加してはいませんし、協議会内に勧誘しようという積極的な動きがあるようにも見えません。
もちろん、文学とマンガは芸術のカテゴリーとしては別物ですが、以前書いたような文学と文学館の関係は、マンガとマンガミュージアムの関係にも当てはまる、相似のものであるように私には思えます。
その点で課題を共有できるとは思うのですが。

さて、マンガと言えば、文化庁が国立メディア芸術センター(仮称)構想というものを補正予算の中で打ち出しています。

ネット上で軽く検索してみただけでも異論は多く、私自身、報道されている通りの内容であれば、あまり賛同はできません。

ただ、そういう施設は必要だろうとは思うのです。

とりあえずマンガに絞って考えると、長らくマンガは低俗、俗悪な≪悪書≫として≪良識≫ある人々から蔑まれ、文化としても軽く扱われてきました。
その結果、多くの資料が散逸し、心あるコレクターの尽力によって、なんとかこの世に残されている、という状況のようです。
近年、広島市立まんが図書館や京都国際マンガミュージアムができましたが、それまで私設の現代マンガ図書館くらいしか存在していませんでした。

そして、その膨大とも思える資料も、決して日本のマンガ文化の全貌を網羅しているとは言えないでしょう。

また、全国に沢山あるマンガ喫茶も、最近のマンガと、せいぜいちょっと昔の懐かしいマンガがある程度で、さしてメジャーでもないマンガ家の昔の作品を収集しているわけではないでしょう。

その結果、マンガには『現在』はあっても『過去』がありません。

膨れ上がってしまった『現在』を押さえるのに手一杯で、『過去』まで扱っていられないというのが実情ではないでしょうか。

大体、現代マンガの出発点とも言える「新宝島」でさえ、オリジナル版は今年復刻されるまで、とても気軽に手に出来る状況にはなかったのですから、おして知るべきでしょう。

そんな状況でマンガ研究など出来ようはずもありません。

その点で、先日、たまたま出勤前に見たテレビ番組での著名マンガ家諸氏のご意見は、ちょっとどうなのかという気がしました。

浦沢直樹氏は、マンガには思わず眉をひそめるような作品もあり、それこそがマンガを発展させてきたと言えるが、そんなものを国が収集できるのか、とおっしゃるのですが、そもそも≪健全≫なマンガですらちゃんと収集されていないのに、そこをあげつらってどうするのでしょうか。

細野不二彦氏は、117億もの金があるなら、トキワ荘を保存して欲しかったとおっしゃっていたようですが、そんな昔の話を蒸し返しても仕方がないでしょう。

石坂啓氏は、私の原稿は額に入れて展示するためのものじゃない、と発言しておられましたが、それは文学館の否定と受け取ってよろしいのでしょうか?
我々がやっていることは、まさにそういうことなんですが。

マンガは巨大になりすぎて、もはや個人の手に負えません。
国でもなければ、億単位の予算を確保して、それを網羅できるような施設を作ることは出来ないでしょう。

それに反対だと言うのなら、マンガ家自身が資料保全のために動くべきなのです。

日本近代文学館は、そうして誕生したのですから。

私は、マンガ業界に詳しいわけではないので、以上のことは床屋談義の域を出ません。
誤認があればご指摘ください。

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2009年5月22日 (金)

お代は見ての・・・

私にとって、来館者の方との会話で、いつも心に引っかかるのは、こんなやりとりです。

「入館料、いくら?」
「500円です」
「500円! 高いなぁ! ……あ、割引券もらってきたんだ。いくら割り引いてくれるの?」
「500円が400円になります」
「なんだ、たった100円か!」

私が勤め始めた20年近く前から、こういうことをおっしゃる方はいらっしゃいました。
しかし、その当時に比べて入館者数が5分の1にまで激減してしまった現在、それと同じ比率でこういうことをおっしゃる方も5分の1に減ったかと言えば、むしろ増えているような気がします。
それだけ、価格にシビアな人が増えたということなのでしょう。

ただ、見学し終わった後に「これで500円?」とおっしゃるのなら、二度とそんなことを言われないように努力しようと思えるのですが、入口の段階でこう言われてしまうと、ちょっと考え込んでしまいます。
中には、入館料だけ聞いて、「高い」と言い残して入らずに帰ってしまわれる方もいて、そんな時は、ガックリと落ち込んでしまいます。

さて、昨日、日本博物館協会から「日本の博物館総合調査研究報告書」なるものが送られてきました。
当館も回答した平成20年度の『博物館総合調査』のアンケートの結果をまとめたものです。

アンケートの中には入館料の項目もあります。

それによると、常設展示の入館料を無料にしている館が29.1%。
ここには、特別展は有料にしている館も含まれていますが、それでも、およそ3割がタダで展示を見られるということになります。

また、有料にしている館の入館料の平均が390.6円。
なんと、前回調査の平成16年の402.0円より下っています。

しかも、実はカテゴリー別に見ると、平均値を上げているのは水族館(平均1085.8円)、動物園(725.5円)、それらを複合した動水植物園(828.9円)で、当館の含まれる歴史系博物館のカテゴリーでは、平均値は305.8円なのです。

当館の入館料500円は、確かにこう見ると高い部類に入ってしまいます。

一般の方々にとって、水族館や動物園は、むしろテーマパークと同じジャンルとみなされているのではないでしょうか。
少なくとも文学館とは完全に別物と意識されているでしょう。

水族館の平均の半額以下だから入館料が安い、と思う人はいないでしょうね。

ただ、設置主体別に見た場合、市立(294.1円)、町村立(294.2円)が安く、都道府県立(376.5円)、国立(432.6円)、公益法人(543.0円)、会社個人等(803.5円)で、≪官低民高≫となっています。

民間の財団法人が設置している当館は、同じ設置主体の中では平均以下ということになります。

ここで、来館者の方の立場になってみると、「吉川英治記念館は随分昔からあるし、規模も結構大きいから、多分青梅市か東京都が運営しているのであろう、だったら税金を使ってるはずなのに、入館料を500円も取るんじゃ高いじゃないか」というような考えが頭に浮かんでくるのかもしれません。
実際、「ここは青梅市がやってるんでしょ?」とお尋ねになる方は少なくありませんから。

しかし、まあ、事情はあくまでも内輪のもの。

一般来館者の方に、そこまで忖度してくれとはとても言えません(と言いつつ、こんなことを書いていますが)。

私に出来ることは、入館した方に、「500円は高くなかった」と感じていただけるように工夫をしていくことだけです。

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2009年5月19日 (火)

お見舞

先日、新型インフルエンザのことに触れましたが、急速な患者数の増加を受けて、先年資料をお貸ししたこともある神戸の香雪美術館などは今週は臨時休館になるようです。
感染が関東まで広がってくるようだと、当館も何らかの対応は求められるかもしれませんが、現状として、今の時期だと入館者が一日に100人とか、その程度なので、それほど大騒ぎする状況ではないとも言えます。
ただ、実は団体の比率が高くなる時期でもあるので、団体のキャンセルが増えると、痛手にはなるのですが。

ところで、新型インフルエンザでよく引き合いに出されるのが、スペイン風邪の流行です。
調べてみると、スペイン風邪の流行は1918~19年のことのようで、元号で言えば大正7~8年のことになります。

その頃、吉川英治は作家以前の川柳家・雉子郎の時代。

何かスペイン風邪の流行について詠んだ川柳でもないかと「川柳・詩歌集」正続をパラパラ見てみましたが、その時期にそれらしいものはありませんでした。

病気の種類はわかりませんが、唯一、病気にかかわるものが、この一句。

寝室の四方四人の見舞客

『大正川柳』大正7年9月号に掲載されていたもの。

病人の寝ている部屋の寝床の四方に一人ずつ見舞客がいるというわけですが、普通の見舞客ならそんなことにはならないわけで、訳ありの見舞客がそれぞれ距離を置いて牽制しあっている図でしょう。

艶福家の男性が病人で、四人の見舞客は女性、というところではないでしょうか。

この後の騒動が想像できる句ですね。

とまあ、今のところ、死者が出るほどの状況ではないので、こんな暢気なことを書いていますが、このまま弱毒性のまま収束に向かえばいいですね。

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2009年5月17日 (日)

あれこれ

企画展「旅の吉川英治」も、会期の半分を終えました。

そんな訳で、先日の予告通り、「浅春京日記」と「曙美との旅雑記」とを交換しました。
こちらが、日記の前半になります。

そうそう、キャプションのミスも訂正しました。
ここまでの会期の間に、いずれも九州出身の方から、「由布院から阿蘇は見えない」とのご指摘をいただきました。

吉川英治の「新・平家物語」取材旅行の写真に、私が

昭和25年12月19日、「新・平家物語」取材のため紀伊半島・四国・九州を廻った際、由布院で阿蘇山を背景に。

とキャプションをつけたためのご指摘で、よく調べてみると、由布岳の間違いとわかったので、訂正したものです。

ご指摘ありがとうございました。

それにしても、新型インフルエンザの国内感染が確認されたとのことで、今後どうなるのか、非常に心配です。
感染が急速に広がるようなら、我々のように不特定多数のお客様に来ていただくような施設は、場合によっては休業することも考えなければいけないでしょうし、そうなれば大きな打撃になります。
そうでなくても、入館者数の減少に歯止めがかからない現状で、そんなことになったら、目もあてられません。

まあ、人の多い都心を避けて郊外へ、という人の流れになれば、当館は郊外に立地しているので、不幸中の幸いと言ったところですが、そもそも外出しなくなるという可能性の方が高いので、そんなことにはならないでしょうね。

さて、どうなることか。

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2009年5月14日 (木)

花も実もある

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よく見て下さい。

もう梅の実も大きく膨らんでいるというのに、なぜか一輪花が咲いています。

狂い咲き?

何にせよ、珍しいので、撮影しておきました。

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2009年5月13日 (水)

ナルキッソス?

先日来、ある一羽のシジュウカラが、不可解な行動をとっているのが気になっていました。

吉川英治旧宅の台所に据え付けの給湯器があります。
故障して今は使っていないものですが、結構大きなもので、室外に換気口が突き出しています。
換気口には、保護と安全のため、カバーがついています。

この換気口の周囲を、シジュウカラがしつこく飛び回っているのです。

初めは、換気口のカバーにつけられた格子の隙間から入り込んで、中に巣でも作っているのかと思いましたが、格子の隙間はどう考えてもシジュウカラが潜り込めるほどの幅はなく、実際、中に巣がある様子も見受けられません。

一体何をしているのか気になり、寸時観察してみました。

すると、このシジュウカラが口にアオムシを咥えて飛んで来て、格子の中をさかんに気にしているのです。
しかし、中に別のシジュウカラがいる様子もありません。
にもかかわらず、何度も何度も同じ行動を繰り返します。

そのうち、ふと思いつきました。

この、餌を運んでくるという行動は、求愛行動ではないか?

ネットで検索してみると、確かに求愛行動のようです。

実は、換気口はステンレス製で、鏡ほど鮮明ではないものの、ものが映ります。

と言うことは、このシジュウカラ、ステンレスに映る自分の姿をメスと勘違いして、求愛しているのではないでしょうか。

ギリシャ神話にナルキッソスの話があります。

水に映る自らの姿に恋し、その場を離れることが出来なくなって、命を落としてしまう美少年ナルキッソス。
死後、彼は花へと姿を変えられますが、それが水仙であるとされています。

自己愛=ナルシシズムの語源ともなったこの神話ですが、それを思い出してしまいました。

行動の意味が何となくつかめたので、換気口に紙を貼ってみました。

そうしたところ、シジュウカラは換気口に寄り付かなくなりました。

あのシジュウカラが、ちゃんと新しい恋を見つけてくれていればいいのですが。

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2009年5月12日 (火)

食卓と詩歌――その2

引き続き、食にまつわる川柳・詩歌を。

食に絡め、自省的なものを感じさせるものをいくつか。

生きてゐる証拠に飯を食ってゐる
飯が旨いに止まれり俺の秋
此の先を考へてゐる豆のめし

これは「この先を考へてゐる豆のつる」という句の原型と考えられるもの。
「つる」にすると、どちらに伸びていくかを考えているような豆のつるの姿に自分を投影した感じになりますが、「めし」にすると食卓で、ふと考え込んでいるような姿を思い浮かべます。

今朝も又一字も書けず納豆汁

これは作家になってからのもの。
ちなみに、納豆汁は吉川英治の好物でした。

あめつちのふしぎありがたし飯ありぬ

一方、社会性・時代性を感じさせるものも。

自由画の茶碗で子供飯をたべ

伝統的な絵柄の茶碗が見捨てられ、新しい時代だかなんだか知らないが、ヘンな茶碗を使って…というようなことでしょうか。
戦後の句のようにも感じますが、大正11年の句です。

カリントウ放たず凍死せる棄児

貧しさゆえにか、我が子を捨てざるを得なかった親が、せめてもと与えたカリントウを、ぎゅうっと握り締めたまま凍死している子供。
切ない姿ですね。

労働者喰らへど食へど腹がへり
洋妾のつらさを聞けば飯の時

「洋妾」には「らしゃめん」とルビがあります。
外国人男性の囲われ者になり、贅沢な食事が出来るようになったが、洋食ばかりで辟易する、ということでしょうか。

朝顔やけふも戦ぞ飯拝む

これはいかにも戦時下の句。
果たして、何を願って拝むのでしょうか。

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2009年5月10日 (日)

食卓と詩歌――その1

日本現代詩歌文学館から2009年度常設展「食卓と詩歌」の図録が送られてきました。

吉川英治とは友人だった川上三太郎の作品も紹介されているので、この際、アイデアを頂戴して、吉川英治(雉子郎)の食にまつわる川柳・詩歌を列挙してみようと思います。

まずは家庭・家族の食を詠んだもの。

おふくろの留守おもしろい飯をたべ

母親のいないうちに、好きなものばかり食べるとか、そういうことでしょうか。
あるいは、普段は食べられないちょっと高めの店屋物をとるとか。

また父の話お膳が片づかず

昔の家庭ではよくあったことでしょう。
父親不在の夕食が珍しくもない現在では、もう見られないことかもしれません。

茶箪笥をおそく帰って調べてる

昔は、よく茶箪笥の上の引き戸の所に、おやつやら、おしんこやら、お茶うけにするようなちょっとした食品が入っていましたよね。
私は映画などでしか見たことがありませんが。
「茶箪笥」を「冷蔵庫」にすれば、今でも通用しそうです。

みんなして茶漬をたべて今日は暮れ

そんなものしか食べるものもない、することもない、そんな貧困を詠んだものでしょう。

めし茶碗手にふと冬の朝寒み
母なきのちのながくもあるかな

吉川英治が母を亡くしたのは29歳の時。
その後、作家として成功をおさめたものの、その姿を母に見せることが出来ないという寂しさは、常に心のどこかにあったようです。
そんな想いが、ふとこぼれだしてきた瞬間でしょう。

一人喰う膳にぽつんと紅生姜

この≪一人≫は、一人暮らしでしょうか。
家族のいない寂寥感が感じられます。

次に、子供がらみのものを。

銭湯で子にたわいないアイスを見

銭湯に馴染んでいる世代の人にはよく目にした光景でしょうが、この句自体は大正初期のもの。
既にアイスがそんなに普及していたんですね。

子のたべる駄菓子を喰べて見たくなり

大正10年頃のものなので、駄菓子といっても、私が思い浮かべるものとは随分違うでしょうが、大人になっても、たまに懐かしさから駄菓子を食べてみたくなる時はありますね。

意味のつかみにくいものを2句。

稲妻や白き茶わんに白き飯
鰒食って寝た夢の国面白や

最後の句は、たまに高価なものを食べて、金持ちになったような夢を見た、とでもいうことでしょうか。

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2009年5月 9日 (土)

向島百花園と吉川英治――その5

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写真は、向島百花園内の御成座敷です。

御成座敷は、江戸時代、貴人が百花園を訪れた際の休憩に用いられたことからそう呼ばれるようになったとのこと。
11代将軍徳川家斉、12代将軍家慶の来訪が、その代表的なものでしょう。

戦災前の御成屋敷は茅葺だったようですが、焼失後再建された現在のものは瓦葺になっています。

さて、「馬に狐を乗せ物語」では、≪へそ交観会≫の会場は「桑のお成座敷へ隣合った一棟」と書かれています。

「新撰東京名所図会」の「隅田堤 中」に掲載された「百花園之図」を見ると、現在の御成座敷に相当する辺りにそれらしい建物が2棟並んで建っています。
このうちのどちらかが御成座敷で、もう一方が会場となった建物なのでしょう。

現在は、御成座敷1棟しかありませんが、貸席として利用されているようで、この日も句会か何かの会場に使用している方々がいらっしゃいました。

作品の中で、松井漫太郎や伊波凡舟らとも顔なじみの芸妓が、たまたま百花園に居合わせ、しかもその芸妓が、漫太郎の女房の父親が家族親戚にも内緒でこっそりと自前にしてやった女だったので、漫太郎の夜遊びを説教するつもりだった女房の父親がすっかり気勢を失ってしまう、という場面があります。

なぜそんな偶然があるのか、小説にしても都合が良すぎるじゃないかと思ってしまいますが、それは現在の百花園からイメージするからで、当時の百花園には、それは普通のことだったようです。

前島康彦著「向島百花園」に、久保田万太郎の『昔の仲間』という文章が引用されています。
それによると、当時の向島百花園の隣には料理屋があり、実はその料理屋は遠出の芸妓と客が利用する場所だった、そういう芸妓と客が、料理屋の裏から百花園に入ってきて、そぞろ歩きを楽しむ、そういう場所だった、と言うのです。

作品中の芸妓も、客とともにそうした料理屋に来ていて、百花園に夕涼みに出たところへ、主人公たちのバカ騒ぎにぶつかってしまった、というわけで、当時の風俗をちゃんと踏まえていたわけですね。

この芸妓のせいで漫太郎に説教できなくなった女房の父親の姿を描写して、「穴があったら入りたい」という成句の代わりに

萩の隧道(とんねる)でもあったら、もぐり込みたい程な慌て方

と表現しています。

≪萩のトンネル≫は、百花園のパンフレットの表紙にもなっているほどの、名物です。

これは明治の末頃に作られるようになったもののようで、何の前置きもなくこうした文章になっているところをみると、大正の中頃にはよく知られた存在になっていたのでしょう。

ところで、吉川英治とその川柳の仲間たちが、百花園の実際に川柳句会を開いたことはあったのでしょうか。
そのあたりは、はっきりしません。

ただ、「隅田堤」によると、明治30年当時の百花園の住所は≪寺島村1156番地≫。
最初に書いたように、大正10年の吉川英治の住所は≪寺島町1120番地≫ですから、ほんの目と鼻の先です。

百花園に足を運ぶ機会は何度もあったでしょうし、その実情もしっかり目にしていたでしょう。

作品と百花園の歴史と現在を見比べてみると、そうしたことがよくわかります。

ということで、簡単ですが、向島百花園散歩はこのあたりで終ります。

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2009年5月 8日 (金)

向島百花園と吉川英治――その4

向島百花園は、一部明治通りに面していますが、入口は、それとは反対側の隅田川に向いた方にあります。
白鬚神社のある側、とも言えます。

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私たちのように明治通りを走る都営バスに乗って、百花園前のバス停で降りると、百花園の外周を半分まわって入口にたどり着くことになります。

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入口の横には、先日触れた小倉家から東京市への寄付までの沿革を刻んだ石碑があります。

さて、入園してみましょう。

現在、園内にはあまり建物はなく、四阿と祠を除けば、御成座敷と小さな売店があるばかりですが、「新撰東京名所図会第13編 隅田堤 中」に収録された『百花園之図』という絵を見ると、≪梅洞水≫という井戸の前に大きな建物があります。

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どうやら、これが茶店のようです。

「馬に狐を乗せ物語」作品中で、おけら吟社の連中は、≪へそ交観会≫の会場まで、この茶店から酒とお膳を運ばせていますし、また、主人公の一人である松井漫太郎に説教してやろうと待ち構えている漫太郎の女房とその父親たちも、待ち伏せている四阿までお茶と酒を運ばせています。

当時の百花園では、そうやって花を見ながら茶菓を頬張ったり、一杯やったりするのがお楽しみだったようです。

現在の売店では、最近では珍しい瓶入りのラムネが売っていましたが、アルコール類があったかどうかは確認し忘れました。

さて、現在の向島百花園は17時閉園ですが、

とやかくと日も暮れて田楽夢吉の亭を中心に、あっちこっちの緑蔭に岐阜提灯の灯る頃おい

という感じで、≪へそ交観会≫は夕刻から始まっているので、この頃は夜のお楽しみもあったようです。

この≪へそ交観会≫ですが、作品中にある案内状の記述では、当日は『へそ』の川柳・俳句・狂歌などを持ち寄るように宿題を出し、そこに加えて、

尚席上即興の玉吟秀詠を園内楽焼にして興ず可く

とあります。

ここでの楽焼というのは、現在でも観光地の体験陶芸教室なんかで絵付けをさせてくれる簡単な陶器のことでしょう。
「隅田堤」の記述によると、当時は園内に陶器を焼く窯があったそうで、そこで楽焼も焼いていたのでしょう。

また、「隅田堤」によれば、茶店では「名物隅田川焼及び萩筆を鬻ぐ」とあります。
≪隅田川焼≫は、隅田川の土を焼いた焼物で、これも園内の窯で焼いていたのでしょう。
「都鳥或は種々のもの」があったということですが、現在の売店でも都鳥の土鈴が販売されていました。

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2009年5月 6日 (水)

向島百花園と吉川英治――その3

一向に「文学散歩」になりませんが。

最初に触れた、吉川英治の寺島町の住居については、グループ行動だったので探し歩く余裕もなく、訪ねることは出来ませんでした。

ということで、向島百花園にのみ、足を運びました。

向島百花園は、19世紀の初め、文化年間に佐原菊塢(鞠塢)によって開かれたもの。
当初は「新梅屋敷」と称していたそうで、江戸時代にはこの名前で通っていたそうです。
その名の通り、元々は梅の名所で、やがて四季の花々も整えられていったようです。
佐原家による経営は明治維新後も続きますが、明治の終わりから大正の初めにいたって、諸事情から衰微してしまいます。
そこで、百花園のすぐ隣に住んでいた小倉常吉という石油業で名を成した人物が、大正4年に百花園を買収し、経営を立て直します。
昭和9年に小倉常吉が亡くなった後は、しばらく小倉未亡人が百花園を維持していましたが、昭和13年に百花園の永久保存のために東京市に全園が寄付されます。
現在百花園で入園者に配られるパンフレットに昭和14年開園とされているのは、寄付の翌年に東京市の公園として再スタートした時点を指していることになります。
その後、戦災で破壊され、他用途への転用も検討されますが、昭和24年に、従前通り百花園として復興されます。
そして、昭和53年には、文化財保護法による国の名勝・史跡に指定されました。
(以上、向島百花園のパンフレットと前島康彦著「向島百花園」〈財団法人東京都公園協会発行〉を参照しました)

したがって、吉川英治が「馬に狐を乗せ物語」の舞台として描いた向島百花園は、小倉常吉によって再興された時代の百花園ということになります。

百花園は上記の通り戦災で一度破壊されているため、現在園内にある建物は戦後になって新たに建てられたものばかりのようです。

しかし、戦災で失われる前の百花園の様子が『風俗画報』の増刊『新撰東京名所図会』の第13編『隅田堤 中』に描かれていることが、上記「向島百花園」に書かれています。
発行は明治30年ですが、百花園は関東大震災では被災していないということなので、戦災以前の百花園は、おおむねこの頃と変わりはないものと思われます。

幸い、当館には吉川英治の旧蔵書として『新撰東京名所図会』が所蔵されていますので、その記述と、吉川英治の作品中の記述を用いて、百花園の往時を思い浮かべながら、百花園を歩いてみます。

かくして、ようやく「文学散歩」にたどり着きましたが、それは次回以降に。

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2009年5月 5日 (火)

向島百花園と吉川英治――その2

で、「馬に狐を乗せ物語」ですが、こんなお話。

松井漫太郎、伊波凡舟、貝場迦羅三、木野目田楽、新川夢吉の悪友5人は、おけら吟社なる会の同人で、吟社きっての変物たち。
この5人が、吟社の月番幹事として、向島百花園を会場に≪納涼小集臍交観会≫というふざけた例会を企画した。
さて、例会はまだ明日だというのに、漫太郎と凡舟の両名、さっそく料理屋に繰り出し、さらに迦羅三、夢吉も加わって、各所で小さな騒動を起こしながら、吉原に出かけてさらに大騒ぎ。
家にも帰らずに例会当日を迎えて、みな百花園に集まると、同人たちと≪臍(へそ)交観会≫に興じる。
しかし、そこには一同とは訳ありの人たちも集まってきていた。
さて、どんな悶着が起こるやら。

滑稽小説なので、オチは伏せておきましょう。
というか、ストーリーらしいストーリーもない、珍妙なエピソードを積み重ねた作品なので、それをいちいち書いていては、とても短くはまとめきれません。

この中心となる悪友5人には、吉川英治が親しくしていた川柳仲間の姿が、色んな形で取り込まれています。

≪松井漫太郎≫は、名前の響きは親友であった≪川上三太郎≫によく似ています。
また、肥満気味で、新聞に漫画を連載している、という設定は、≪宮尾しげを≫を思わせます。
さらに言えば、自宅が浜町というのは、吉川英治自身が向島寺島の前に住んでいた場所でもあります。

≪伊波凡舟≫は、名前だけでも≪伊上凡骨≫がモデルなのは、明らかです。
「漫太郎のお父さん程年上」というのも吉川英治の同世代から見るとその通りですし、吉原で喘息の発作を起こして人を驚かせるという作中のエピソードは、実際に凡骨の身に起こった出来事であることを、吉川英治は随筆に書いてもいます。

≪貝場迦羅三≫は、紐育の銀の相場に興味があって、兜町に勤務しているという設定ですが、後年、谷孫六のペンネームで蓄財法の本を書いてベストセラーとなった≪矢野錦浪≫を想像させます。

≪木野目田楽≫は、字面から≪木津柳芽≫を思わせますが、描写が少なく、それ以上の想像はできません。
 
≪新川夢吉≫は、「霊岸島の酒舗」という設定で、霊岸島生まれの≪西島○丸(れいがん)≫を想起させます。
名前からは≪海野夢一佛≫も思い浮かびます。
また、強固な江戸趣味を持つという設定は阪井久良岐の流れを汲む人物を想像させますが、≪前田雀郎≫あたりでしょうか。

この夢吉と漫太郎が、江戸趣味とは何かで論争をする場面がありますが、大正時代半ばの川柳界の空気を伝える場面になっていると言えるように思います。

現在、当館で特製文庫として販売している『江の島物語(初期作品集)』で読むことが出来ます。

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2009年5月 4日 (月)

向島百花園と吉川英治――その1

機会があったので、向島百花園に行ってきました。

なぜそれが「吉川英治文学散歩」なのか。

ひとつには吉川英治がその近隣に居住していたということ。

吉川英治の自筆年譜によれば、大正8年に「向島寺島へ転居」とあり、同11年に千駄木に転居するまでの約3年間居住していたことになります。
年齢的には27歳から30歳という時期。

吉川英治は70年の生涯に30回ほど引越しをしていますので、3年ならば、まず平均的なところということになります。

この「向島寺島」の住所というのは、吉川英治の戸籍謄本に記載があり、番地までわかります。

その記載とは、

大正拾年六月弐拾九日午後拾弐時東京府南葛飾郡寺島町千百弐拾番地ニテ死亡

というもので、これは、実は吉川英治の母・いくが亡くなった際の記述です。
吉川英治にとっては、最愛の母親を亡くした地という点で、重要な場所と言えます。

ちなみに、当時の住所=寺島町1120番地ですが、現在の墨田区東向島のどこかに当たるはずですが、細かい所は確認していません。
ただ、蝸牛庵と名付けられた幸田露伴邸の近くだったようです。

もうひとつは、向島百花園が登場する作品があること。
しかも、そこには吉川英治自身の若き日々が反映されている、ということです。

その作品は「馬に狐を乗せ物語」。

その成立の経緯については、以前にも触れたことがありますが、今回はもう少し細かく見ていこうと思います。

ということで、以下次回。

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2009年5月 1日 (金)

川本喜八郎先生

昨日、人形作家の川本喜八郎先生から、「平家物語」の平清盛の人形を1体ご寄贈いただきました。

川本先生のテレビ放送された人形劇としては「三国志」が特に有名ですが、1993年から95年にかけてNHKで放送された「平家物語」という作品もあります。
これは吉川英治の「新・平家物語」を原作としたもので、川本先生が長年にわたって構想を温めていた作品でした。

今回ご寄贈いただいた人形は、放送用とは別に、新たに製作されたもの。

実は、川本先生は、生前の吉川文子(吉川英治夫人、当館元館長)との間で、「いつか清盛を作って寄贈します」と約束を交わしておられたのだそうです。
その約束を果さなければと思っているうちに、2006年4月23日に文子夫人は世を去ってしまいました。
そこで、今年こそ、命日のある4月中に必ず寄贈しようと決め、製作してくださったものなのです。

さて、人形の受け渡しを、旧吉川邸母屋の座敷で行い、その場の流れで床の間に清盛を据えてみたところ、妙にしっくりと馴染んで見えたので、一同、感嘆しました。

実は、吉川英治は、いま人形を据えてある床の間の正面の位置に文机を置いて、「新・平家物語」を執筆していました。
ですから、およそ60年の時を越えて、吉川英治と清盛とが対峙している格好になります。

そこで、しばらくは、ここにこのまま居てもらおうということになり、当面はそのままにしておくことにしました。

少なくとも、このゴールデンウィーク中は、床の間にいます。

座敷に上がっていただくことはできませんが、ガラス越しに姿を確かめることはできます。

ご興味のある方は、お運びください。

ちなみに、当館では以前に川本先生からご寄贈いただいた「三国志」の人形4体(義兄弟3人に孔明)を所蔵していますが、東京冨士美術館の≪大三国志展≫などに提供し、人形が展示疲れしてきたので、現在、川本先生の元でメンテナンスをしていただいています。

メンテナンスが終了したら、今度新たにご寄贈いただいた清盛と、リニューアルされた「三国志」の4体を、きちんとした形でお披露目する機会を設けようと計画しております。

その際には、改めて告知いたしますが、その時には床の間というわけにもいきませんので、床の間に置かれている姿を見られるのは、いまのうちだけです。

一足先に姿を見てみたいという方はいまのうちにどうぞ。

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