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2009年5月 9日 (土)

向島百花園と吉川英治――その5

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写真は、向島百花園内の御成座敷です。

御成座敷は、江戸時代、貴人が百花園を訪れた際の休憩に用いられたことからそう呼ばれるようになったとのこと。
11代将軍徳川家斉、12代将軍家慶の来訪が、その代表的なものでしょう。

戦災前の御成屋敷は茅葺だったようですが、焼失後再建された現在のものは瓦葺になっています。

さて、「馬に狐を乗せ物語」では、≪へそ交観会≫の会場は「桑のお成座敷へ隣合った一棟」と書かれています。

「新撰東京名所図会」の「隅田堤 中」に掲載された「百花園之図」を見ると、現在の御成座敷に相当する辺りにそれらしい建物が2棟並んで建っています。
このうちのどちらかが御成座敷で、もう一方が会場となった建物なのでしょう。

現在は、御成座敷1棟しかありませんが、貸席として利用されているようで、この日も句会か何かの会場に使用している方々がいらっしゃいました。

作品の中で、松井漫太郎や伊波凡舟らとも顔なじみの芸妓が、たまたま百花園に居合わせ、しかもその芸妓が、漫太郎の女房の父親が家族親戚にも内緒でこっそりと自前にしてやった女だったので、漫太郎の夜遊びを説教するつもりだった女房の父親がすっかり気勢を失ってしまう、という場面があります。

なぜそんな偶然があるのか、小説にしても都合が良すぎるじゃないかと思ってしまいますが、それは現在の百花園からイメージするからで、当時の百花園には、それは普通のことだったようです。

前島康彦著「向島百花園」に、久保田万太郎の『昔の仲間』という文章が引用されています。
それによると、当時の向島百花園の隣には料理屋があり、実はその料理屋は遠出の芸妓と客が利用する場所だった、そういう芸妓と客が、料理屋の裏から百花園に入ってきて、そぞろ歩きを楽しむ、そういう場所だった、と言うのです。

作品中の芸妓も、客とともにそうした料理屋に来ていて、百花園に夕涼みに出たところへ、主人公たちのバカ騒ぎにぶつかってしまった、というわけで、当時の風俗をちゃんと踏まえていたわけですね。

この芸妓のせいで漫太郎に説教できなくなった女房の父親の姿を描写して、「穴があったら入りたい」という成句の代わりに

萩の隧道(とんねる)でもあったら、もぐり込みたい程な慌て方

と表現しています。

≪萩のトンネル≫は、百花園のパンフレットの表紙にもなっているほどの、名物です。

これは明治の末頃に作られるようになったもののようで、何の前置きもなくこうした文章になっているところをみると、大正の中頃にはよく知られた存在になっていたのでしょう。

ところで、吉川英治とその川柳の仲間たちが、百花園の実際に川柳句会を開いたことはあったのでしょうか。
そのあたりは、はっきりしません。

ただ、「隅田堤」によると、明治30年当時の百花園の住所は≪寺島村1156番地≫。
最初に書いたように、大正10年の吉川英治の住所は≪寺島町1120番地≫ですから、ほんの目と鼻の先です。

百花園に足を運ぶ機会は何度もあったでしょうし、その実情もしっかり目にしていたでしょう。

作品と百花園の歴史と現在を見比べてみると、そうしたことがよくわかります。

ということで、簡単ですが、向島百花園散歩はこのあたりで終ります。

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