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2009年5月23日 (土)

文学とマンガと

昨日、当館はカテゴリー上は歴史博物館に含まれるのだということを書きました。
それは要するに、文化庁にせよ、日本博物館協会にせよ、文学館を一つのカテゴリーとして独立させる必要はないと考えているということでしょう。

そんな状況の中で、文学館には文学館独自の存在価値や、課題があると考え、それを追求するために誕生したのが全国文学館協議会であると言えます。

しかし、その一方で、宝塚の手塚治虫記念館や石巻の石ノ森萬画館などの、マンガ家を扱ったミュージアムは、全国文学館協議会に参加してはいませんし、協議会内に勧誘しようという積極的な動きがあるようにも見えません。
もちろん、文学とマンガは芸術のカテゴリーとしては別物ですが、以前書いたような文学と文学館の関係は、マンガとマンガミュージアムの関係にも当てはまる、相似のものであるように私には思えます。
その点で課題を共有できるとは思うのですが。

さて、マンガと言えば、文化庁が国立メディア芸術センター(仮称)構想というものを補正予算の中で打ち出しています。

ネット上で軽く検索してみただけでも異論は多く、私自身、報道されている通りの内容であれば、あまり賛同はできません。

ただ、そういう施設は必要だろうとは思うのです。

とりあえずマンガに絞って考えると、長らくマンガは低俗、俗悪な≪悪書≫として≪良識≫ある人々から蔑まれ、文化としても軽く扱われてきました。
その結果、多くの資料が散逸し、心あるコレクターの尽力によって、なんとかこの世に残されている、という状況のようです。
近年、広島市立まんが図書館や京都国際マンガミュージアムができましたが、それまで私設の現代マンガ図書館くらいしか存在していませんでした。

そして、その膨大とも思える資料も、決して日本のマンガ文化の全貌を網羅しているとは言えないでしょう。

また、全国に沢山あるマンガ喫茶も、最近のマンガと、せいぜいちょっと昔の懐かしいマンガがある程度で、さしてメジャーでもないマンガ家の昔の作品を収集しているわけではないでしょう。

その結果、マンガには『現在』はあっても『過去』がありません。

膨れ上がってしまった『現在』を押さえるのに手一杯で、『過去』まで扱っていられないというのが実情ではないでしょうか。

大体、現代マンガの出発点とも言える「新宝島」でさえ、オリジナル版は今年復刻されるまで、とても気軽に手に出来る状況にはなかったのですから、おして知るべきでしょう。

そんな状況でマンガ研究など出来ようはずもありません。

その点で、先日、たまたま出勤前に見たテレビ番組での著名マンガ家諸氏のご意見は、ちょっとどうなのかという気がしました。

浦沢直樹氏は、マンガには思わず眉をひそめるような作品もあり、それこそがマンガを発展させてきたと言えるが、そんなものを国が収集できるのか、とおっしゃるのですが、そもそも≪健全≫なマンガですらちゃんと収集されていないのに、そこをあげつらってどうするのでしょうか。

細野不二彦氏は、117億もの金があるなら、トキワ荘を保存して欲しかったとおっしゃっていたようですが、そんな昔の話を蒸し返しても仕方がないでしょう。

石坂啓氏は、私の原稿は額に入れて展示するためのものじゃない、と発言しておられましたが、それは文学館の否定と受け取ってよろしいのでしょうか?
我々がやっていることは、まさにそういうことなんですが。

マンガは巨大になりすぎて、もはや個人の手に負えません。
国でもなければ、億単位の予算を確保して、それを網羅できるような施設を作ることは出来ないでしょう。

それに反対だと言うのなら、マンガ家自身が資料保全のために動くべきなのです。

日本近代文学館は、そうして誕生したのですから。

私は、マンガ業界に詳しいわけではないので、以上のことは床屋談義の域を出ません。
誤認があればご指摘ください。

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