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2009年5月 6日 (水)

向島百花園と吉川英治――その3

一向に「文学散歩」になりませんが。

最初に触れた、吉川英治の寺島町の住居については、グループ行動だったので探し歩く余裕もなく、訪ねることは出来ませんでした。

ということで、向島百花園にのみ、足を運びました。

向島百花園は、19世紀の初め、文化年間に佐原菊塢(鞠塢)によって開かれたもの。
当初は「新梅屋敷」と称していたそうで、江戸時代にはこの名前で通っていたそうです。
その名の通り、元々は梅の名所で、やがて四季の花々も整えられていったようです。
佐原家による経営は明治維新後も続きますが、明治の終わりから大正の初めにいたって、諸事情から衰微してしまいます。
そこで、百花園のすぐ隣に住んでいた小倉常吉という石油業で名を成した人物が、大正4年に百花園を買収し、経営を立て直します。
昭和9年に小倉常吉が亡くなった後は、しばらく小倉未亡人が百花園を維持していましたが、昭和13年に百花園の永久保存のために東京市に全園が寄付されます。
現在百花園で入園者に配られるパンフレットに昭和14年開園とされているのは、寄付の翌年に東京市の公園として再スタートした時点を指していることになります。
その後、戦災で破壊され、他用途への転用も検討されますが、昭和24年に、従前通り百花園として復興されます。
そして、昭和53年には、文化財保護法による国の名勝・史跡に指定されました。
(以上、向島百花園のパンフレットと前島康彦著「向島百花園」〈財団法人東京都公園協会発行〉を参照しました)

したがって、吉川英治が「馬に狐を乗せ物語」の舞台として描いた向島百花園は、小倉常吉によって再興された時代の百花園ということになります。

百花園は上記の通り戦災で一度破壊されているため、現在園内にある建物は戦後になって新たに建てられたものばかりのようです。

しかし、戦災で失われる前の百花園の様子が『風俗画報』の増刊『新撰東京名所図会』の第13編『隅田堤 中』に描かれていることが、上記「向島百花園」に書かれています。
発行は明治30年ですが、百花園は関東大震災では被災していないということなので、戦災以前の百花園は、おおむねこの頃と変わりはないものと思われます。

幸い、当館には吉川英治の旧蔵書として『新撰東京名所図会』が所蔵されていますので、その記述と、吉川英治の作品中の記述を用いて、百花園の往時を思い浮かべながら、百花園を歩いてみます。

かくして、ようやく「文学散歩」にたどり着きましたが、それは次回以降に。

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