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2009年6月28日 (日)

兄弟

企画展「書簡に見る吉川英治の交遊」ですが、堀越梅子同様、知る人ぞ知るという人物との書簡を、もう一つご紹介します。

それが、野口駿尾に宛てた吉川英治の書簡(昭和13年8月27日付)です。

野口は画家で、英治とは「宮本武蔵」の取材旅行に同行するなど懇意でした。
ここで紹介している九州への取材旅行、あるいは岡山県宮本村(現美作市)への取材旅行の写真に一緒に写っています。

また、野口の娘・多嘉子と結婚した画家・南政義と戦時中の南方視察の際に南の徴用先のインドネシアで逢ったという話が、英治の「南方紀行日誌」に出てきます。

手紙の内容は簡単なもので、野口より送られた古書が、一部の随筆類などを除いて自分には不要なものなので、別の人に譲ってくれるようにと伝えているものです。

さて、この野口駿尾という人物については、一度きちんと調べようと思いながらまだ果せていませんが(こんなことばかり言ってますが)、決して画家として高名ではないため、なかなか事跡がはっきりしません。

ただ、兄が良く知られた人物であり、そこが一つの足がかりになるであろうと思っています。

ここでも触れていますが、野口駿尾の兄は実業家の野口遵です。

加賀藩の士族出身の野口遵は、東京帝大で電気工学を学び、実業家として化学工業に大きな足跡を残しました。
現在のチッソ、旭化成、積水化学などを創業し、また、それによって成した私財のほとんどを科学振興のための野口研究所と朝鮮の教育振興のための朝鮮奨学会の設立に費やしたことでも名を残しています。

そんな理系な兄の弟が、なぜ、どういう流れで画家になったのか、興味を覚えます。

昭和21年に亡くなっているため、戦後は、当然ながら交流がないのですが、昭和10年代の吉川英治をよく知る人物の一人です。

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2009年6月26日 (金)

おすそ分け

「書簡に見る吉川英治の交遊」、続いてご紹介するのは、堀越梅子宛の吉川英治書簡です。

堀越梅子と言っても、よほど茶道に詳しい方でないと、ご存知ではないでしょう。

この方は裏千家の女子茶道の先駆者の一人で、号は≪宗圓≫。
吉川英治と同じ明治25年(1892)の生まれです(没年は1978年)。
父親は、かの松方正義です。

吉川英治と交流を持つようになった時期ははっきりしませんが、吉川英治は堀越家の初釜に招かれるなど、親しくしていました。
堀越梅子宛の書簡・葉書は、ご遺族からご寄贈いただき、19通を当館で所蔵しています。

その中から展示しているのは、昭和10年12月31日付のもの。
と言っても、≪昭和10年≫というの、内容からの推定で、実物には「師走三十一日」とあるだけで、年の記載はなく、消印もありません。

その内容は、須賀川牡丹園から牡丹の薪を送ってもらったので、そのうちの一把をおすそ分けします、というもの。
おそらく、家人に堀越家まで牡丹薪を持参させ、それに添え状としてつけたものなので、消印がないのでしょう。

牡丹の薪と言えば、以前こんなことを書きました。

この宴席で牡丹焚火を行ったのが、昭和11年1月13日なので、堀越家に牡丹の薪を贈ったのは、昭和10年の大晦日であっただろうと推定しています。

これが昭和10年ならば、19通の中で一番古いものになりますが、内容からして、その前から交流はあったようです。

ちなみに、今回は展示しませんが、以前、19通の中の別のものをこのブログで取り上げました。

そちらもよろしければお読みください。

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2009年6月25日 (木)

文机

話を企画展「書簡に見る吉川英治の交遊」にもどして。

現在展示中の書簡に、吉川英治から谷崎潤一郎に宛てた書簡があります(昭和37年1月18日付)。

あまり吉川英治と谷崎潤一郎の間に交流があったというイメージはないでしょう。
実際、交流はほとんどありませんでした。

谷崎自身の文章にも

吉川君と私とはさう親密には交際してゐなかつた。しかし始めて會ったのは餘程古いことである。

とあるくらいです(「わたしの吉川英治」所収『吉川英治君のこと』)。

そんなわけで、この書簡も、吉川英治の長女・曙美が、谷崎と懇意にしていた編集者と結婚することになり、その編集者が曙美をともなって谷崎に挨拶に行ったことに対しての礼状、というような内容になっています。

ただ、英治と谷崎は、英治の死後にちょっとした縁が生まれました。

そのことについて、谷崎松子夫人が吉川英治全集月報に「文机の残り香」として、一文を寄せています。
その概要は、こんな話です。

昭和38年、谷崎は熱海市伊豆山の≪後の雪後庵≫と呼んだ家を引き払うことにしますが、そう決意した時点ではまだ転居先が決まっていませんでした。
ある場で吉川文子夫人と同席した松子夫人が、家の明け渡し日が迫っているのに落ち着き先がまだ決まらないと口にしたところ、文子夫人がそれならば主人(英治)が亡くなって熱海市西山の別荘は使わないのでどうぞと勧めます。

かくして、渡りに船と谷崎はその年4月に英治の別荘に移ってきます。
英治は前年の37年9月に亡くなっていますから、没後半年余りでのことになります。

さて、転居に先立って、谷崎夫妻に対して、文子夫人がその西山の別荘を案内したのだそうです。
その際、別荘内に残されていた英治の遺品である文机を見た谷崎が、その文机に見惚れているのを見て、文子夫人は「どうぞお使いください」と言って、その文机を谷崎に譲りました。

この文机は、英治が熱海の別荘での執筆に使っていたもので、「新・平家物語」「私本太平記」を書いたもの。
そして、谷崎は譲り受けてから、ここで新新訳源氏を手がけました。

つまり、平家と源氏を生み出した文机ということになったわけです。

谷崎は、翌39年には、湯河原に新居を建てて、そこへ移っていますが、文机はそのまま新居に持って行きました。

そして、めぐりめぐって、現在は谷崎潤一郎記念館に収められています。

(150505追記)
この文章には間違いがありますので、併せてこちらもお読みください。

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2009年6月23日 (火)

1Q84

今朝、とある雑誌の記者が当館を訪ねて来て、こんな質問をされました。

村上春樹の小説に二俣尾駅が登場しており、熱心なファンが≪二俣尾駅詣で≫をしているという噂があるが、ここではそんな様子が見られないですか?

私は読んでいないので知りませんでしたが、いま話題の「1Q84」に、二俣尾駅が割りと印象的な形で登場しているようです。

当館の来館者の年齢層は結構高めなのですが、そう言われてみると、ここ数日、比較的若い方が、いつもより多く来館なさっているように感じます。
あまり気にしていなかったのですが、この若い方々がそういう≪聖地巡礼≫している村上ファンなのでしょうか?

受付の職員が興味を持って、記者が帰った後にやって来た若い来館者の方に声をかけたところ、確かに、「1Q84」を読んで二俣尾に来てみた、という方でした。

どうやら、確かに二俣尾駅を訪ねたついでに当館にも足を運んでくださっている方が、いらっしゃるようです。

村上ファンと吉川ファンはあまり重ならないのではないかと思うのですが、実際に二俣尾に来てみても、駅の他には何もない所ですから、じゃあ文学つながりで、ということで足を運んでくださっているのかな、などと想像してみています。

あるいは、登場人物たちが二俣尾からタクシーに乗って尋ねる先は古い日本家屋だそうですから、江戸末期の建物とされる旧吉川邸にそのイメージを重ねて見ているとか?

何にせよ、きっかけはどんなことでも、来館していただけるならば、とてもうれしいことです。
そこから新たな興味が広がるなら、それ以上のことはありません。

いやいやいや、他人の褌で相撲を取ろうってわけじゃぁ……(笑)

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2009年6月21日 (日)

健康マニア

では、企画展「書簡に見る吉川英治の交遊」で展示している書簡について、少しご紹介してみます。

戦後、菊池寛が公職追放となり、文藝春秋社の社長を辞した後、文藝春秋新社の社長となり、手腕を振るった人物に佐佐木茂索がいます。
その佐佐木宛に吉川英治が送った昭和28年12月2日付の書簡を展示しています。

その冒頭の一文は

京都の人間医学社から別便で“酵素”なるものとパンフレットなど送らせます

となっています。

人間医学社というのは、検索してみると現在も存在している会社で、当時は酵素療法というものを広めていたようですが、吉川英治がそれを試してみたらなかなか良かったので、佐佐木に対して、実物を送るからやってみないかと勧めている書簡なのです。

実は吉川英治は言ってみれば≪健康マニア≫で、健康食品や健康法を色々と試してみるのが好きだった人なのです。

この酵素療法の他にも、断食療法に挑戦してみたり、電気治療にはまって巨大な電気治療器を購入して自宅に設置してみたり、というような一面がありました。

これは若い頃からその傾向はあったようで、英治の20代当時の川柳仲間だった木津柳芽によると(吉川英治全集月報所収「雉子郎さんのこと」)、

まだ二十代の頃、吉川さんは、小さな罐からブリキの匙ですくって胃の薬をのんでいたが、私が「よくのむね」というと、「わたしゃ、これが好きでね」と云ったことを覚えている。

とのこと。

吉川英治には、自分は胃腸が弱いという自覚があったようですが、それでも、これは症状に対する治療というよりは予防的に習慣としてのんでいたということでしょうから、いささか健康食品的でもあります。

また、戦時中の南方圏一巡の視察旅行の際の日誌には、モグサを持参して自分で灸をすえていたことが書かれています。
自分にだけでなく、以前書いたように人にもすえていますから、大したものです。

そんな吉川英治の姿がうかがえる書簡です。

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2009年6月20日 (土)

企画展「書簡に見る吉川英治の交遊」

表題の企画展を本日から8月2日(日)まで開催いたします。

吉川英治は、《小学校中退》という学歴で世間に出ざるをえなかったため、同級生や学友といった形の友人はほとんどいませんでした。
しかし、『我以外皆我師』を座右の銘とし、思想や信条よりも心の交流を大事にした吉川英治は、思想や文学のジャンルを越えた人々と交流し、文壇・画壇のみでなく、裏方である編集者とも親しく付き合い、茶人など趣味の世界でも幅広い交遊がありました。
この企画展では、そうした人たちとの間で交わした書簡類を展示し、写真やエピソードも交え、その暖かい交流の様子をご紹介します。

なお、資料保護とより多くの資料の展示のため、下記の3期に分けて展示します(・は吉川英治から発信、*は来信)。

6月20日~7月5日
・谷崎潤一郎/・佐々木茂索/*菊池寛/*直木三十五/*椋鳩十/*源氏鶏太/*佐々木味津三/*阿川弘之/*白井喬二/*田中貢太郎/・新井弘城/*荒井寛方/・野口駿尾/*竹内栖鳳/*横山大観/・堀越梅子/・添田知道/*川上三太郎/*寺島幸三(尾上菊五郎)/*三笠宮(代筆)

7月7日~7月20日
・三島由紀夫/・中河与一/*青野季吉/*長谷川時雨/*三上於菟吉/*平野零児/*舟橋聖一/*横光利一/*大岡昇平/*邦枝完二/・安成二郎/*生沢朗/*川合玉堂/*堂本印象/*相馬御風/*永田雅一/*岡潔/*千宗室/*島田正吾、辰巳柳太郎/*安岡正篤

7月22日~8月2日
・室生犀星/*石川達三/*石坂洋次郎/*尾崎士郎/ *広津和郎/*小島政二郎/*獅子文六/*宇野信夫/*倉田百三/*山岡荘八/*杉本健吉/*東山魁夷/*安田靫彦/*前田青邨/*吉井勇/ ・森川勘一郎/*木村毅/*辰野隆/*徳川夢声/*升田静尾(升田幸三夫人)

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2009年6月18日 (木)

第12回写真コンテスト結果発表

第12回吉川英治記念館写真コンテストの入賞者が決定いたしました。

テーマは「母」「夜日」「食」で募集し、応募者数176名、応募総点数513点の中から、次の27作品が入賞と決まりました。

◎金賞(1点)
「海岸通り(3枚組)」宮田憲雄(広島県府中市)

◎銀賞(3点)
「夏・ガブリ」平野昌子(横浜市)
「ママの胸に」松倉孝之(八王子市)
「母の散髪」山田英雄(静岡市)

◎銅賞(3点)
「その先へ…(3枚組)」内山弘康(松山市)
「97歳の笑顔」北尾優博(町田市)
「食べたの、だあれ?」舘弘美(盛岡市)

◎入選(20点)
「おめでとう」浅岡由次(知立市)
「ママこれがいい」井上惣次郎(川崎市)
「まずは腹拵え」今枝進(浜松市)
「海辺」大岡雅人(高崎市)
「あこがれ」大野忠(新潟市)
「夜汽車」尾形清栄(大崎市)
「街角」小畦畦草(鶴ヶ島市)
「ローカル線の旅(3枚組)」坂本義治(足立区)
「清流の畔で」佐川隆博(茅野市)
「いとし子」杉江輝美(明石市)
「辛らーい!!」滝井千恵子(静岡市)
「おにぎり大好き!」橘初雄(神戸市)
「ふれあいの時」土屋朝美(世田谷区)
「母の歌がきこえる」成田吉貞(さいたま市)
「母の手,息子の手」原千鶴(沼津市)
「収穫」原田恵一(八王子市)
「母強し」藤森保男(岡山市)
「ニャンも欲しいな」正成義男(松阪市)
「無題」ミヨシトシオ(箕面市)
「カラシナの咲く頃」渡辺公司(京都市)

結果通知は応募者の皆さんのお送りいたしましたので、間もなくお手元に届くと思います。
入賞なさった皆さん、おめでとうございます。
残念ながら落選となった皆さんも、次のご応募をお待ちしています。

なお、以上の作品は吉川英治記念館内で10月10日(土)~11月1日(日)に展示し、その後、東京ミッドタウンの富士フイルムフォトサロンにて平成22年1月29日(金)~2月4日(木)に展示する予定となっております。

上位作品は近いうちに館のサイトの方に掲載したいと思います。

おたのしみに。

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2009年6月 3日 (水)

CD「三国志」

NHKラジオで平成5~8年に放送された、橋爪功朗読による吉川英治「三国志」。

これがCD化されることになり、発売元から配布用パンフレットが届きました。

これは冒頭から末尾までの全文朗読、約108時間分、CD100枚、という壮大なもの。
講談社の文庫新装版「三国志」ではカットされ、熱心なファンの方からお叱りをいただいた、あの『篇外余録』もちゃんと入っています。

録音状態の悪い部分などは、橋爪さんに再読していただいてまで、完全を期したものだと、発売元の方から伺いました。

発売は大空社

価格はさすがに248,000円(税込)とお安くありませんが、ご興味のある方はお求め下さい。

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2009年6月 2日 (火)

井伊直弼の首は落ちたか――その2

さて、お送りいただいた研究の中に、興味深い事件が紹介されていました。

昭和10年に発生した≪天照義団事件≫です。
「横浜貿易新報」昭和10年3月5日号に、事件の顛末が記事になっているとのことで、それをまとめると、以下のようになります。

横浜に本拠を置く天照義団という右翼団体が、井伊直弼を「違勅の不忠義者で、安政の大獄の張本人」として、横浜市に対して掃頭山の井伊直弼銅像の撤去を要求したが、受け入れられなかったため、自分たちで井伊直弼の銅像の首を切り落として破壊しようと企てた。
わざわざ桜田門外の変の発生した3月2日を選んで決行しようとしたものの、トラック2台に梯子やロープを積んで掃頭山に向かおうとしているところを、警察に取り押さえられ、未遂に終った。

この事件には、吉川英治が語る≪井伊直弼銅像首切り事件≫と共通する要素があります。

吉川英治は「歴史上の人物あれこれ」で、事件の後日談として

京浜国道をトラックに銅像の首を乗せて運ぶところを、捕ったという別の記事を、それは何年も後ですが見たことを憶えている。

と語っています。
つまり、「トラックが捕まった」というところが同じです。

明治42年からすると、昭和10年は実に26年後ではありますが、「何年も後に記事を見た」という言葉とも符合するように思えます。

吉川英治は、この記事を見たのでしょうか。
しかし、記事を見たのなら、事件が未遂で終ったことはわかりそうなものです。

吉川英治が≪井伊直弼銅像首切り事件≫のことを言い出したのは、歴史の時代の画期と人の心情とは一致しない、現に、明治時代も終わりになろうという時期になっても、井伊直弼への反感は消えず、こんな事件が起こってしまった、という文脈の中でです。
言わんとすることに実にピッタリと当てはまる事件であったわけですが、実は、随筆「歴史上の人物あれこれ」の記述を注意深く見ると、吉川英治自身は首の無い井伊直弼像を見たとは言っていません。
また、吉川英治は銅像除幕式の翌年、明治43年の暮れに横浜を離れて東京へ移り住んでいます。

本当に事件は起ったのでしょうか?

事件はなかったとして、以下のように想像をめぐらせてみました。

当時、井伊直弼に反感を持つ者たちが銅像を破壊しようと画策しているという噂が横浜で流れていた。
その頃、英治は横浜ドックで港湾労働者の一人として働いていたが、労働者仲間の雑駁な会話の中で、「掃部頭の首が切られたってよ」などと英治に吹き込んだ者がいた。
生活のために身を粉にしていた英治には、自身の目でそれをわざわざ確認しに行くような酔狂なことをする暇もない。
その後、ドックでの転落事故を契機に横浜を離れるまで、ついにそのままになってしまった。
後に作家となってから、「天照義団」事件のことを知り、「ああ、そういえば…」と昔ドックで聞いた噂話を思い出し、それを信じ込んでしまった。

いかがでしょうか。
ありえるような気もしますし、まさかという気もします。

いずれにせよ、何かが“あった”ことを証明するには証拠は一つあれば足りますが、何かが“なかった”ことを証明するには、あらゆる角度からありったけの資料をチェックする必要があります。

その意味で充分に調査をしてから、自分なりに結論をと思っていたのですが、最近、横浜開港150年にまつわる報道も増えてきたので、あえて、この段階で文章にした次第です。

なお、事件のことをご指摘くださった郷土史家の方の研究成果は神奈川県立図書館が発行している「郷土神奈川」という冊子で読むことができますので、ご興味のある方はご参照ください。

「郷土神奈川 第47号」(平成21年2月発行)
『横浜掃頭山公園 井伊直弼銅像建立をめぐる紛争と事件の顛末』(田村泰治)

また、横着なことを言ってお恥ずかしいのですが、何かご存知の方はご指摘いただけると助かります。
よろしくお願いいたします。

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