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2009年7月31日 (金)

松川事件裁判

企画展「書簡に見る吉川英治の交遊」、次にご紹介するのは吉川英治宛の広津和郎書簡(昭和36年7月8日付)です。

戦後、GHQ治下の日本で発生した国鉄をめぐる三大事件と言えば、下山事件・三鷹事件と松川事件です。

この松川事件に疑問を抱き、その裁判について詳細に記録したのが、作家の広津和郎でした。

事件の発生は昭和24年8月17日、最高裁が検察の上告を棄却し、被告全員の無罪が確定するのが昭和38年9月12日。

その長い裁判の過程で、吉川英治は広津の呼びかけに応じ、公正判決要求書に署名しています。
これには川端康成、志賀直哉らも連署していました。

この要求書は、仙台高等裁判所での二審判決の前に担当裁判官に対して提出されたもので、提出されたのは昭和28年10月26日でした。

さて、今回展示している書簡の日付は昭和36年7月8日。

最高裁判所で二審判決が破棄され、仙台高裁に差し戻されたのが昭和34年8月10日。
そして仙台高裁での差し戻し審の判決が言い渡されるのが昭和36年8月8日。

この差し戻し審判決で被告全員無罪の判決が出るのですが、その1ヶ月前の書簡です。

この書簡で広津は、改めて裁判長に送る要請文に賛同者として署名をしてもらいたいと依頼しています。

つまり、差し戻し審でも二審判決の時と同様にしたいということですが、私は粗雑な人間なので、ずっとこの書簡は二審の時の公正判決要求書のことだと思い込んでいました。

違ったんですね。

広津の著作などを見てみると、昭和28年の公正判決要求書以外には、昭和38年の最高裁による上告棄却の直前に同様の要求書が提出されていますが、昭和36年については言及がありませんでした。
ということは、署名を依頼したものの、この時は実行しなかったということでしょうか。

いずれにせよ、広津による作家たちへの働きかけの様子がわかる書簡です。

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2009年7月30日 (木)

武蔵朗読

企画展『書簡に見る吉川英治の交遊』、次にご紹介するのは吉川英治宛の徳川夢声書簡です。

徳川夢声は活動弁士から転じ俳優から話芸まで幅広く活躍したタレントです。

書簡には「八月五日」とあるだけで、消印もなく、正確な日付がわかりませんが、本文でラジオ関東で「宮本武蔵」の朗読を始めることを伝えていることから、昭和36年8月5日であろうと推定できます。

というのも、ラジオ関東での「宮本武蔵」朗読は昭和36年12月9日から38年9月17日にかけて放送されたものだからです。

徳川夢声と「宮本武蔵」の朗読は、切っても切れない腐れ縁のようなものでした。

最初の朗読は「宮本武蔵」の新聞連載が終了した直後の昭和14年9月から始まりました。
ただし、これは武蔵役を坂東蓑助、お通を夏川静江、又八を御橋公が演じ、夢声は沢庵という配役だったそうです。
しかし、翌15年の2月からは市川八百蔵と夢声が交互に朗読するというスタイルに変更され、同年4月まで放送されました。

これが1回目。

次は昭和18年9月から20年1月にかけて。
これは夢声による独演で、戦時下にあって高い人気を得ました。
しかし、これは原作を大幅に削ったもので、第1回の放送でいきなり宝蔵院が出てくるという極端なものだったようです。

これが2回目。

昭和27年にはラジオ東京でも朗読をし、これが3回目。

翌28年1月19日には、NHKテレビの本放送(2月1日から)の前の試験放送として「宮本武蔵」から『茶漬』を口演。

そこへもってきてのラジオ関東ということになります。

そのため、書簡には「“またか”という気が自分自身でも致さないではありません」と正直に書いています。

しかし、続けてこう書きます。

しかし今度の企画はラジオ関東の/当事者の云によれば/全巻を削除なくソノママ通して/放送しようという/これは私としても初めての経験で/大いに興味が湧くのです

かくして2年弱をかけて、「宮本武蔵」の全巻朗読が行われます。

後にこれはソフト化されますが、昭和49年にエレックレコードから発売されたものはLPレコード101枚分、平成14年に新潮社がCD化しますが、それが77枚分という膨大なものです。

そんな放送の裏事情の書かれた書簡です。

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2009年7月25日 (土)

志賀直哉

企画展『書簡に見る吉川英治の交遊』ですが、先日も書いた通り、書簡に宛名や発信者として登場する人物と吉川英治が一緒に写っている写真もパネルにして展示しています。

その中の一枚が、昭和27年1月28日に、伊豆の今井荘という旅館の前で撮られたもの。
先日名を挙げた石坂洋次郎と写っているものです。

この写真に一緒に写っているのが、杉本健吉と志賀直哉です。
志賀直哉については、以前にも触れたことがあるのですが、再度詳しく触れてみます。

志賀直哉の作家人生と吉川英治の作家人生にはほとんど接点はありませんでした。
姿を見かけたことはあったかもしれませんが、初めて話をしたのはこの写真の前年のこと。

昭和26年、8月1日から軽井沢に来ていた志賀が、8月31日に翌年から借りることになっている別荘の下見に行こうとしたところ、朝日新聞社の嘉治隆一が吉川英治の自動車を使わせてもらってはどうかと勧めます。
吉川とは話したことがないからと遠慮する志賀ですが、結局、自動車を借りることになりました。

吉川英治は戦前から『朝日新聞』『週刊朝日』にはたびたび連載を持っており、嘉治隆一とは懇意でした。
ちょうどこの時も、『週刊朝日』に「新・平家物語」を連載していました。

この嘉治の引き合わせで、二人は初めて言葉を交わしたわけです。

この後、志賀は9月21日まで軽井沢に滞在しますが、その間、何度か英治の自動車を借りています。

これで縁が出来た二人は、翌27年1月27日~30日に英治の「新・平家物語」取材旅行に、志賀が同行するという形で、一緒に旅をします。
これが上のリンク先の話であり、今回展示している写真の背景ということになります。

ただ、密な交流はこの程度で、この他に確認できるのは昭和28年5月3日に熱海市がPRのために発行した『熱海』という冊子に掲載するための座談会に同席した(他には広津和郎らがいた)ことと、昭和32年3月15日に嘉治隆一の招待による食事会に同席した(他に梅原龍三郎、升田幸三ら)ことぐらいしか確認できていません。

そんな志賀直哉のことを、英治はこう書いています(「志賀直哉氏小感」:『文芸臨時増刊 現代文豪読本7 志賀直哉』昭和30年)。

直哉、白鳥、荷風、潤一郎、こう四人を私は文壇の大人であるとおもっている。(略)自分の生きた世代にこの四人の大人も居合せたというだけにも、いろんな矛盾や悲惨の多い今日だが、その今日の世代がいくぶんでも意味ありそうに思えたり、愉しめたりするのであった。

残念ながら、志賀直哉からの書簡などは所蔵していないため、写真だけの登場となりましたが、志賀の名の出てくる書簡は1通所蔵しています(今回は展示していません)。
編集者を介して志賀から「新・平家物語」について質問があり、それについてその編集者に回答したものです(昭和28年11月4日消印)。

これが直接の書簡のやりとりであれば、それが後に残って、面白い資料となったはずなのですが、残念です。

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2009年7月24日 (金)

借金

企画展「書簡に見る吉川英治の交遊」ですが、次にご紹介するのは吉川英治に宛てた倉田百三の書簡です。

倉田百三と言えば「出家とその弟子」などで知られる作家です。

吉川英治は作家専業となる前、東京毎夕新聞で記者をしていました。
その際に、会社命令で「親鸞記」という小説を連載することになる(大正11年4月~11月)のですが、これが吉川英治にとっては生まれて初めての新聞小説であり、長編連載小説でもあります。
その「親鸞記」ですが、なぜ会社がそんな小説を書かせたかというと、これに先立つ大正6年に「出家とその弟子」が単行本化されてベストセラーになり、それによって親鸞ブームが起こっていたからだと、英治は述懐しています。

そんな因縁のある倉田百三ですが、この書簡の内容はと言えば、実は借金の申し込みです。

書簡の文中にもありますが、夫人に直接持参させたもので、消印がないので正確な年月日はわかりません。
ただ、内容から昭和11~12年頃のことと思われます。

借金の依頼を、自分は手紙だけ書いて夫人に行かせるというのも、少々いただけない行為ですが、その手紙の内容も、いささかどうなのかと思うようなものです。

“娘”の結婚式があったため手元不如意となってしまったので200円ほど都合して欲しいというのは、まあいいとして、「ついでながらいつぞや前借の三百円はとくに清算されてゐますから、そのおつもりで」というのは、金を借りる方の言い草ではないんじゃないかと、何となく苦笑いしてしまいます。

借金の依頼の他に、『青年太陽』に連載した「太陽の広場」を弟さんの出版社から単行本で出していただきたい、という記述もあります。
続けて、「これは事の次第から云っても、その運びにしていただきたく思ひますが、いかがでせうか」とまで書いています。

雑誌『青年太陽』は、吉川英治が主催した団体・日本青年文化協会の機関誌で、英治の弟・晋が実質的に編集をしていました。
そこに倉田百三は「太陽の広場」という作品を連載しています(昭和10年1月号~12月号)。
また、英治はこの当時、これとは別に新英社という出版社をもう一人の弟・素助にやらせていました。

上記は、つまり、こうした事情を踏まえての要望です。

さらに、自分には胸に充ちる創作欲を発表する場がない、今度、読売新聞に連載させてくれるように交渉しに行くつもりだが、あなたからも読売に推薦してくれないか、とも書いています。

そんなに切羽詰っていたのでしょうか?

講談社版の「日本近代文学大辞典」を見る限り、昭和10年代にはそれなりの数の単行本が出版されているようなのですが。

さて、英治は、この借金の申し込みに応じたのでしょうか。

大人気作家として羽振りが良いように思われがちな英治ですが、実はこの時期は最初の妻・やすとの離婚、上記の日本青年文化協会や新英社の赤字の補填といったことに、かなり資産を注ぎ込んでいて、あまり余裕のない状態でした。

当時の200円だと、現在の20万円ぐらいでしょうか?

貸せない金額ではないでしょうが、さて?

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2009年7月22日 (水)

お見舞いあれこれ

企画展「書簡に見る吉川英治の交遊」ですが、三部に分けて20通ずつの書簡を入れ替え、今日からその第三部です。

あまり深く考えずに構成したのですが、第三部には昭和37年の書簡が多く含まれる結果となりました。
ちなみに、過去の二部では昭和37年のものはあわせて5通なのに対して、第三部だけで7通になります。

ということは全体で12通も昭和37年の書簡が含まれていたことになりますが、ではその昭和37年とはどういう年かと言えば、吉川英治が亡くなった年です。

昭和36年10月2日、肺がんのため入院。
その年の大晦日に外出が許されて自宅に戻ると、そのまま退院し、自宅療養に移ります。
昭和37年2月21日、長女・曙美の結婚式。
同年7月19日に再入院。
治療も空しく9月7日に永眠。

という年でした。

展示した書簡はいずれも来信ですが、そんな訳で長女の結婚にまつわるものか、英治へのお見舞いになっています。

それにしても、見舞いのあり方も人それぞれです。

第一部で展示した川上三太郎は「怖くて見舞いに行けない」と書いていました。

第三部展示のものでは、例えば、石川達三(昭和37年2月14日付)は、あなたは闘病中でも、約束なので奥さんだけゴルフに誘いますなどと書かれています。
看病のストレスから一時解放してあげようという配慮かもしれませんが、文子夫人は夫を置いて自分だけゴルフに行くようなタイプではありませんでしたから、誘われても断ったでしょう。

ゴルフということでは石坂洋次郎(昭和37年7月16日付)は、ゴルフ仲間の丹羽文雄・富田常雄・水上勉・石川達三の名をあげ、別荘のあった軽井沢の様子を伝えています。

劇作家の宇野信夫(昭和37年1月21日付)のものは、見舞いというよりは、新聞報道で英治が病床を離れたのを知ってのお祝いです。
宇野作の「床上げも間近き春のこたつかな」との一句が書かれています。

尾崎士郎(昭和37年4月1日付)は見舞いに行きたいが、自身も病後で本調子ではないことを書いています。

一方、辰野隆(昭和37年4月17日付)は、自身の経験上、見舞客が次から次にやって来ては療養にならないのはわかっているので敢えて見舞いに行かない旨を断っています。

それぞれがそれぞれの考えで英治を思いやっているのがうかがえます。

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2009年7月19日 (日)

死刑廃止

企画展「書簡に見る吉川英治の交遊」の第二部も明日までとなりました。

第二部で展示している書簡のご紹介をあまりしていない気がしますが、最後に吉川英治宛の大岡昇平の書簡(昭和36年6月11日付)に触れておきます。

その書簡の内容は、大岡が関与していた小松川事件裁判の弁護士費用を援助して欲しいと依頼しているもの。

小松川事件は、昭和33年に発生した女子高生殺人事件。
犯人は当時18歳の在日朝鮮人で、犯行後、マスコミに犯行内容を伝える電話をしたり、この事件以前に犯していたもう1件の女性殺人事件の内容を小説にして懸賞に応募するなどの行動から、社会の関心を集めた事件だったようです。
事件当時18歳でありながら、一般の裁判にかけられ、死刑判決が下され、昭和37年に刑が執行されています。

大岡は、犯人の助命運動に関わっていました。

裁判が結審するのはこの書簡の約2ヵ月後の8月17日。

書簡には、判決が秋頃になるかもしれないので、その前に弁護士に一度いくばくかの金を渡したいが、今のところまだ不足である旨が書かれています。

この書簡に対する返書ではありませんが、「わたしの吉川英治――その書簡と追憶」(文藝春秋新社 昭和38年2月5日)に、この年の8月23日付け、つまり判決後に吉川英治が大岡昇平にあてた書簡が収録されています。

「小生の微志の件など あれはもう余りお気にしていただかないように」という一節がありますので、英治が資金援助をしたことがわかります。
収録された書簡に付された大岡昇平の文章によれば、これは吉川英治からの援助が多額で判決によって運動が終了した時点でも残金があったので、その処理を自分に一任してもらえないかと尋ねたことへの回答であったようです。

英治は、死刑判決について「やはりああきまるしかなかった気もします」と書きつつ、「大きな隣人愛とか生命愛などの意義の上でも大兄や旗田氏らのささやかな運動も決してむなしくはなかったとおもいます」と気遣っています。

実は、英治は法学者の正木亮による死刑廃止運動に賛同し、正木が設立した≪刑罰と社会改良の会≫にも名を連ねていました。

どんな人間でも完全な悪人はいない、という英治の人間観からは、当然なあり方に思えます。

英治は、会が発行する雑誌『社会改良』の創刊号に「痴人の言」という文章を寄せています。

保元の乱の際、敗れた源為義を死罪にするか否かを論じ、「人一殺をなせば、百殺を次に生じて、百殺もなお足らず」として死罪に反対した中院雅定と、それを非現実だと一蹴した信西の話を書き、随筆の末尾でこう書いています。

私もおそらく中院雅定とおなじように、今日を知らないものかもしれない。きっと、現代の少納言信西は、その非現実性を挙げて、あわれむべき痴人の言と、どこかで嘲笑していることだろう。

死刑廃止の道の険しさを暗示する文章だと言えるでしょう。

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2009年7月15日 (水)

夏仕様

当館の中心である旧吉川英治邸の母屋ですが、江戸時代の末か明治の初頭の建築とみられる古い建物です。
また、吉川英治が暮らしていた時も、まだ現在のようにエアコンなど無かった時代です。

エアコンのある現在の住居は、冷暖房効率を上げるために機密性が高くなっていますが、この母屋では逆に夏の通気性をいかに確保するかという工夫がいくつか見られます。

例えば、この何の変哲もない窓の下には

Hi3e0195

開閉できる格子があります。

Hi3e0194

また、この玄関部分の戸は

Hi3e0197

障子部分を外して、格子戸にできるようになっています。

Hi3e0198

昨日梅雨明けしたということで、湿度も下ってきましたから、母屋内に空気が通るよう、玄関は格子戸の状態にしておくことにしました。

わかりにくい変化ではありますが、古建築に興味のある方はぜひ。


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2009年7月14日 (火)

再録

さて、改めて企画展「書簡に見る吉川英治の交遊」で展示中の書簡について。

ご紹介するのは吉川英治宛邦枝完二書簡。

邦枝は「おせん」「お伝地獄」などで知られる作家です。

封筒には宛先住所が書かれておらず、切手・消印が無いので、人に託して英治に届けたもののようです。
そのために正確な年月日はわかりませんが、内容から昭和23年4月10日のものと推定できます。

その内容は、雑誌『話』の復刊にあたって、英治に旧作でよいので作品を提供して欲しいと求めているものです。

雑誌『話』は、もともと文藝春秋から昭和8年に創刊された総合読物雑誌でした。
昭和15年まで発行されましたが、別に発行されていた『現地報告』という雑誌に統合され、姿を消しました。

その『話』を、鱒書房社主の増永氏が、菊池寛の許可を得て復刊することになったが、5月末までに発行しないと紙の割り当てが取り消されるので、時間が無いため、旧作の再録で何とかしたい、というようなことが書かれています。
邦枝は増永氏と旧友のため相談を受けており、それで邦枝が英治に手紙を送ったもののようです。

ちなみに、邦枝が選んだラインアップは永井荷風・里見弴・吉屋信子・英治・自分となっています。

昭和20年代前半、敗戦後の世相の中で雑誌ブームが起き、いわゆるカストリ雑誌がたくさん生まれては消えていきました。
そんな中、知人から依頼を受ける形で、そうした雑誌に英治は戦前に書いた作品の再録を許しています。
調査を尽くせてはいませんが、昭和23・24年あたりに雑誌再録されたものを10作品以上確認しています。

さて、この『話』はどうなったのでしょうか。

無事、昭和23年6月号をもって復刊されたようです。
ようです、というのは、現物を確認しようと国会図書館に出向いてみたら、第2号からしか所蔵がなく、見られなかったからです。
ただ、当館にはその復刊第1号の切抜きが所蔵されています。

というのも、英治は邦枝の要望に応えて作品を提供し、その掲載部分のみを切り抜いて保管してあったからです。

その作品の名は「春の雁」。
もともとは「春燈辰巳読本」のタイトルで昭和12年7月発行の『オール読物 臨時増刊号』に掲載された作品です。
なお、タイトルは、再録時ではなく、単行本収録時に変更されたものです。

また、英治は、「春の雁」の他、昭和23年10月号にも「みじか夜峠」を提供しています(初出は『週刊朝日』昭和10年銷夏読物号)。

ちなみに、オリジナルの『話』は第8巻第5号まで発行されたのですが、復刊された『話』は、復刊の建前通り、第9巻第1号からスタートしています。
発行は≪話社≫となっていますが、編集・発行人が≪増永善吉≫となっていますので、邦枝の手紙と符合します。
ただ、最終的に何冊発行されたのかはわかりませんが、復刊の翌年、昭和24年には誌名が『夫婦生活』に変えられ、『話』の名は消滅したようです。

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2009年7月10日 (金)

宇江佐真理さんをかこむひととき

吉川英治記念館サイトのトップページをご覧になった方はお気付きと思いますが、秋に『宇江佐真理さんをかこむひととき』を開催いたします。

このイベントは、吉川英治賞が第40回を迎えた平成18年に記念イベントとして開催した後、翌19年から当館の定例イベントとして毎年開催するようになったものです。

一昨年の宮部みゆきさん、昨年の浅田次郎さんと当年度の吉川英治賞受賞者が続きましたが、今回の宇江佐真理さんは平成12年の第21回吉川英治文学新人賞受賞者となります。

詳細はこちらをご覧下さい。

ご応募をお待ちしています。

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2009年7月 8日 (水)

夫婦―2

さて、昨日触れた「女」という随筆で、こんなことも書いています。

時雨女史が婦人倶楽部の一人一話のうちに、風に傷んだ柳の枝に杖のつかえを結びつけながら、主人の手頸の傷も今のうちに手術をしなければいけないのにと、独り居の愁思をもらしている辺りの小文はなかなかよその良人を羨望させるに足るものがある(略)秋宵の一盞を苦く飲んでも、稀には庭の柳の枝が折れないでいるのをおもいたまえ。

「主人の手頸の傷」とは、この随筆の書かれた昭和10年に三上於菟吉が、自動車のドアに腕を挟んで、右手首を負傷したことを指しています。
ところが手術が怖かったのか、入院先の病院から脱走した三上は、愛人とともに行方をくらまし、半年以上も妻である長谷川時雨に連絡も寄こさない、という状態になります。

この随筆はそんな時期のもの(『文藝春秋』昭和10年10月号所収)で、夫を案じる時雨を、英治は思いやっているわけです。
昨日触れたように時雨の書簡は『英治に自著「草魚」を贈ったところ丁寧な礼状が来たので、それに対しての返書』であるわけですが、英治の礼状というのは、おそらくそうした状況の時雨を気遣ったものであったのでしょう。
それ故に、時雨も改めて返書を書いたのではないでしょうか。

そんな三上ですが、悪いことは続くもので、昭和11年には愛人宅で血栓症のため昏睡状態となり、一命はとりとめたものの、右半身が不自由になってしまいます。
これによって満足に執筆できなくなってしまった三上は、文壇から次第に遠ざかります。
昭和16年に時雨に先立たれてからは、なおさらだったでしょう。

今回展示している三上の書簡は昭和18年のもの。
時雨没後のものです。

書簡では、英治に対し、君が身体を悪くして、しかもそれが既に快癒していると聞いて、驚きと喜びが相半ばしている、と書いていますが、そうした文壇情報がリアルタイムには入ってこないような境遇にいるということを、はからずも示しています。
そして、もしご寸暇があれば、今日明日とは言わないので、いつでもご来訪下さい、という言葉に、かつては英治をもしのぐ大人気作家であったのに、今はまるで蚊帳の外になってしまっていることへの焦燥感や孤独感がにじみ出ているように感じます。

書簡では、右手右足は相変わらず不自由だが、まあ健康な方だ、と書いていますが、手紙の文字はかなり乱雑で、不自由な右手で書いたのか、あるいは左手で書いたのだろうかと、考え込んでしまいます。

この書簡のほぼ1年後、昭和19年2月に三上於菟吉は亡くなります。
53歳の若さでした。

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2009年7月 7日 (火)

夫婦―1

企画展「書簡に見る吉川英治の交遊」ですが、予定通り、本日から展示資料が替わっています。
ラインナップはこちらをご参照ください。

展示替えした資料を、引き続きご紹介していきます。

まずは吉川英治宛の長谷川時雨の書簡(昭和10年8月4日付)と三上於菟吉の書簡(昭和18年2月7日付)です。

長谷川時雨は「近代美人伝」などで知られる作家で、書簡は、英治に自著「草魚」を贈ったところ丁寧な礼状が来たので、それに対しての返書。
一方、三上於菟吉は「雪之丞変化」などで知られる作家で、英治の体調不良の見舞いとともに、一度自宅を訪ねてくれるように頼んでいる内容の書簡となっています。

この2通を一緒にご紹介するのは、もちろん、この2人が夫婦だからです。

明治12年生まれの時雨と明治24年生まれの三上では、時雨の方が一回り上の姉さん女房ということになるわけですが、時雨は同じ作家として三上を尊敬し、よく尽くしました。

しかし、奔放な三上には、それがかえって重かったのか、愛人をつくり、愛人宅と自宅の二重生活を送り始めます。

両者と親しかった英治は、昭和10年に書いた「女」という、少々長い随筆の中で、2人のことに触れ、

よけいなおせっかいであるが、三上於菟吉はもうすこし時雨女史にやさしく(この言葉は中らない、しばらく仮用)あってもよいと思う。(略)三上は女を悪魔的に見ることを以て自己の文学を掘りさげてみようとした一頃があったし、お坊ちゃんどおりな世間の幅と哲学をもって女を律してゆこうという吾儘男だから、時雨女史のありがたさなどはわからないらしいが、実生活というもののうえでは、なかなかめったに見出せない女性の一人だということは、あながち僕だけの評ではないらしく、君の知己からも聞くことである。(後略)

と苦言を呈しています。

同じ文章の中での時雨に対する評は

かなり多い女流作家のうちでも、起居清楚に文学と家事とをみださないでいるだけでも稀な女性のほうだと思う。古い教養美といってしまうかも知れないが、たしなみというものや雅致と生活との調和をよくすることなどにおいてああいう女性は将来にも少ないだろう。

と、絶賛に近いものです。

英治が、他人の女性関係、夫婦関係について、具体的な評価を下している文章はほとんどありません。
それだけ、時雨を認めていたのでしょう。

ちなみに、昭和16年に時雨が亡くなった際、その葬儀で友人代表として弔辞を読んだのは英治でした。
その中で時雨の「近代美人伝」を引き合いに出して、時雨こそその「近代美人伝」に描かれてよい人だったと評したことは、時雨を知る人の多くから大いにうなずかれたことでした。

長くなったので、以下明日。

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2009年7月 4日 (土)

写真コンテスト上位入賞作品

第12回吉川英治記念館写真コンテストですが、先日の選考会で上位入賞と決まった作品を館のサイトにアップしました。
こちらです。

以前は、当館には大きなサイズをスキャンできるスキャナーがなく、またフィルムスキャンも出来なかったため、受賞者の方からフィルムを送ってもらった後、ラボでキャビネ版に焼いてもらってから、それをスキャンして、サイトに掲載していましたので、サイト上に掲載するまで時間がかかっていました。
しかし、最近はフィルムよりもデジタルデータの方が多く、また、スキャナーもフィルムスキャンできるものにしたので、例年よりかなり早めに公開できるようになりました。

本当は、各写真に選評をつけてからアップするのですが、今回はとりあえず先に作品だけでもと思い、この時点でアップしました。

ぜひご覧下さい。

なお、これらの作品を含む全入賞作品を「第12回吉川英治記念館写真コンテスト入賞作品展」として、当館内で10月10日(土)~11月1日(日)に展示いたします。
また、その後、富士フイルムフォトサロン東京において2010年1月29日(金)~2月4日(木)に展示いたします。

ご興味のある方はぜひお運びください。

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2009年7月 3日 (金)

紹介状

企画展「書簡に見る吉川英治の交遊」ですが、明後日の5日(日)までが第一部ということで、そこで書簡を入れ替えます。
その前に、あと少し、第一部の分のご紹介を。

内容が似たようなものなので、2通まとめてご紹介します。

1通は吉川英治宛佐々木味津三書簡(年不詳6月17日付)。
もう1通は吉川英治宛田中貢太郎書簡(昭和9年12月1日付)。

佐々木味津三は人気のあった大衆作家ですが、昭和9年に37歳で世を去っていますので、名前だけ紹介するとピンと来ない方も多いかもしれません。
しかし、その作品は映画やテレビで映像化され、人気を博しましたから、そちらの名を出せば、知らない人の方が少ないでしょう。
その代表作は≪むっつり右門≫の「右門捕物帳」、≪天下御免の向こう傷≫の「旗本退屈男」です。

一方の田中貢太郎も作家です。
昭和16年に亡くなっていますが、怪異譚を中心に今でも著作が出版されています。
今世紀に入っても、学研M文庫で怪談のシリーズが出ていましたが、いま確認すると、絶版の模様。
学研は絶版にするのが早いなぁ(苦笑)

さて、この二人の書簡の内容が似ているというのは、要はどちらも紹介状なのです。

佐々木の方は、どうやら古美術商と思われる人物に持参させたもののようで、そのために消印がありません。
文章をみると、自分や≪白井≫もこの人物から品物を買っているので、あなたもどうか、というような内容になっています。
この≪白井≫というのは、やはり大衆作家の白井喬二のことなのでしょう。

田中の方は、自分の友人を紹介し、その著書を購入してくれるよう依頼しているもの。
その友人というのは≪安岡重雄≫と手紙には書かれています。
調べてみると、海援隊士の安岡金馬の子で、晩年のおりょう(坂本龍馬夫人)にインタビューした人物が安岡重雄というらしいのですが、同一人物でしょうか?
田中は土佐の出身なので、可能性は高いように思えます。

ちなみに、その時、売り込もうとした本は「日本孝子伝」というタイトルのようですが、現在当館で所蔵している吉川英治の旧蔵書の中には見当りませんので、買ったかどうかはわかりません。

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2009年7月 2日 (木)

井上信子を励ます会

『書簡に見る吉川英治の交遊』というのが、今回の企画展のタイトルですが、書簡類ばかりでは単調になるので、書簡に宛名や発信者として登場する人物と吉川英治が一緒に写っている写真もパネルにして展示しています。
もちろん、そうした写真を通じても、吉川英治がどういう人物たちと交流したかを知ってもらおうという魂胆です。

さて、昨日触れた川上三太郎と一緒に写っている写真は、複数あるのですが、どれにしようかと考えた末、昭和10年12月26日の≪井上信子を励ます会≫で撮られた記念写真を選びました。

井上信子は、≪川柳中興の祖≫とも呼ばれる井上剣花坊の夫人であり、自身も川柳家として活動しました。
特に、剣花坊没後は、その遺志を継ぐように、川柳界を支える一人として、戦中戦後の厳しい時代を生きました。

昭和9年に剣花坊を亡くし、川柳界の混乱や対立の中で苦労する信子を主賓として開催されたのが≪井上信子を励ます会≫でした。

吉川英治は、10代の終わりから20代にかけての川柳家≪雉子郎≫時代、剣花坊に師事しており、その夫人である信子に対して母親に対するような愛慕の念を抱いていました。
そんなことから、英治はこの会に出席しています。

川上三太郎も、やはり剣花坊門下であり、そのためここに同席しています。

この写真には、それ以外にも様々な人物が写っています。

そもそもこの会を企画したのは、作家の平林たい子であり、やはり作家の長谷川時雨が協力しています。
出席者には川柳家の小池蛇太郎や前田雀郎らはもちろんとして、評論家の生方敏郎、作家の竹森一男も含まれています。

そうしたバラエティに富んだ顔ぶれと、剣花坊―信子夫妻を通じる形で、英治も知遇を得ていたわけです。

また、この写真には鶴彬も写っています。

「手と足をもいだ丸太にしてかへし」などの厳しい反戦川柳を作り、ために特高警察に逮捕され、赤痢で獄中死することになった鶴彬は、人によっては英治とは対極というふうに見なす場合もあるでしょう。
しかし、剣花坊を介せば、英治にとっていわば弟弟子という形になります。

そんな関係をちょっと紹介してみたくて、この写真を選びました。

ちなみに、鶴彬が検挙されるのは、この会のおよそ2年後、獄中で赤痢に罹り、死亡するのはそのおよそ9ヵ月後です。
残念ながら、それについて吉川英治がどう思ったかは、文章も何も残っていません。

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2009年7月 1日 (水)

親友

「書簡に見る吉川英治の交遊」ですが、吉川英治の方から出した書簡ばかり紹介しましたので、今度は受け取った方の書簡を。

ちなみに、展示中の菊池寛直木三十五、あるいは椋鳩十のものは以前に触れたことがありますので、そちらをご参照ください。

あ、三笠宮殿下のものもこんな話をご紹介したことがありました。

さて、ここでご紹介するのは、川上三太郎から吉川英治に宛てた昭和37年2月3日付の書簡。

川上三太郎は、川柳の世界で≪六大家≫と呼ばれたうちの一人。
英治が≪雉子郎≫の名で川柳をやっていた20代の時からの、自他共に許す親友でした。

昭和36年10月2日、英治は肺がんによる体調の悪化から入院することになります。
手術を経て、いくらか体調が良くなったということで、12月31日に試験的に外出すると、英治はそのまま強引に退院してしまいます。
そうした状況の中、婚約中だった英治の長女・曙美が、大学を中退し、結婚することになりました。
英治に体力があるうちに、ということだったのでしょう。
結婚式は昭和37年2月21日に執り行なわれました。

川上三太郎の書簡は、その結婚式に招待されたことへの礼から始まります。
そして、英治の入院にいかにショックを受けたかを綴っています。

印象深いのは、入院中に一度も見舞いに行かなかったのは、「怖くて出来なかった」のだと書いているくだり。

川上三太郎が吉川雉子郎を思い描いて詠んだ句に

友だちのうしろ姿のありがた味

というものがあります。

そこまでの思いを抱いている親友の衰えた姿を見ることへの恐れ、そして、この世からいなくなってしまうかもしれないということへの恐れ、それが病院へ向かう足を止めさせたということなのでしょう。

友情の深さを感じさせる書簡です。

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