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2009年7月24日 (金)

借金

企画展「書簡に見る吉川英治の交遊」ですが、次にご紹介するのは吉川英治に宛てた倉田百三の書簡です。

倉田百三と言えば「出家とその弟子」などで知られる作家です。

吉川英治は作家専業となる前、東京毎夕新聞で記者をしていました。
その際に、会社命令で「親鸞記」という小説を連載することになる(大正11年4月~11月)のですが、これが吉川英治にとっては生まれて初めての新聞小説であり、長編連載小説でもあります。
その「親鸞記」ですが、なぜ会社がそんな小説を書かせたかというと、これに先立つ大正6年に「出家とその弟子」が単行本化されてベストセラーになり、それによって親鸞ブームが起こっていたからだと、英治は述懐しています。

そんな因縁のある倉田百三ですが、この書簡の内容はと言えば、実は借金の申し込みです。

書簡の文中にもありますが、夫人に直接持参させたもので、消印がないので正確な年月日はわかりません。
ただ、内容から昭和11~12年頃のことと思われます。

借金の依頼を、自分は手紙だけ書いて夫人に行かせるというのも、少々いただけない行為ですが、その手紙の内容も、いささかどうなのかと思うようなものです。

“娘”の結婚式があったため手元不如意となってしまったので200円ほど都合して欲しいというのは、まあいいとして、「ついでながらいつぞや前借の三百円はとくに清算されてゐますから、そのおつもりで」というのは、金を借りる方の言い草ではないんじゃないかと、何となく苦笑いしてしまいます。

借金の依頼の他に、『青年太陽』に連載した「太陽の広場」を弟さんの出版社から単行本で出していただきたい、という記述もあります。
続けて、「これは事の次第から云っても、その運びにしていただきたく思ひますが、いかがでせうか」とまで書いています。

雑誌『青年太陽』は、吉川英治が主催した団体・日本青年文化協会の機関誌で、英治の弟・晋が実質的に編集をしていました。
そこに倉田百三は「太陽の広場」という作品を連載しています(昭和10年1月号~12月号)。
また、英治はこの当時、これとは別に新英社という出版社をもう一人の弟・素助にやらせていました。

上記は、つまり、こうした事情を踏まえての要望です。

さらに、自分には胸に充ちる創作欲を発表する場がない、今度、読売新聞に連載させてくれるように交渉しに行くつもりだが、あなたからも読売に推薦してくれないか、とも書いています。

そんなに切羽詰っていたのでしょうか?

講談社版の「日本近代文学大辞典」を見る限り、昭和10年代にはそれなりの数の単行本が出版されているようなのですが。

さて、英治は、この借金の申し込みに応じたのでしょうか。

大人気作家として羽振りが良いように思われがちな英治ですが、実はこの時期は最初の妻・やすとの離婚、上記の日本青年文化協会や新英社の赤字の補填といったことに、かなり資産を注ぎ込んでいて、あまり余裕のない状態でした。

当時の200円だと、現在の20万円ぐらいでしょうか?

貸せない金額ではないでしょうが、さて?

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