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2009年7月22日 (水)

お見舞いあれこれ

企画展「書簡に見る吉川英治の交遊」ですが、三部に分けて20通ずつの書簡を入れ替え、今日からその第三部です。

あまり深く考えずに構成したのですが、第三部には昭和37年の書簡が多く含まれる結果となりました。
ちなみに、過去の二部では昭和37年のものはあわせて5通なのに対して、第三部だけで7通になります。

ということは全体で12通も昭和37年の書簡が含まれていたことになりますが、ではその昭和37年とはどういう年かと言えば、吉川英治が亡くなった年です。

昭和36年10月2日、肺がんのため入院。
その年の大晦日に外出が許されて自宅に戻ると、そのまま退院し、自宅療養に移ります。
昭和37年2月21日、長女・曙美の結婚式。
同年7月19日に再入院。
治療も空しく9月7日に永眠。

という年でした。

展示した書簡はいずれも来信ですが、そんな訳で長女の結婚にまつわるものか、英治へのお見舞いになっています。

それにしても、見舞いのあり方も人それぞれです。

第一部で展示した川上三太郎は「怖くて見舞いに行けない」と書いていました。

第三部展示のものでは、例えば、石川達三(昭和37年2月14日付)は、あなたは闘病中でも、約束なので奥さんだけゴルフに誘いますなどと書かれています。
看病のストレスから一時解放してあげようという配慮かもしれませんが、文子夫人は夫を置いて自分だけゴルフに行くようなタイプではありませんでしたから、誘われても断ったでしょう。

ゴルフということでは石坂洋次郎(昭和37年7月16日付)は、ゴルフ仲間の丹羽文雄・富田常雄・水上勉・石川達三の名をあげ、別荘のあった軽井沢の様子を伝えています。

劇作家の宇野信夫(昭和37年1月21日付)のものは、見舞いというよりは、新聞報道で英治が病床を離れたのを知ってのお祝いです。
宇野作の「床上げも間近き春のこたつかな」との一句が書かれています。

尾崎士郎(昭和37年4月1日付)は見舞いに行きたいが、自身も病後で本調子ではないことを書いています。

一方、辰野隆(昭和37年4月17日付)は、自身の経験上、見舞客が次から次にやって来ては療養にならないのはわかっているので敢えて見舞いに行かない旨を断っています。

それぞれがそれぞれの考えで英治を思いやっているのがうかがえます。

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