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2009年8月27日 (木)

ケツ

企画展「子供と吉川英治」にからめて、昨日は吉川英治の父性愛についての考えをご紹介してみました。

息子二人に関しては、まさにその通りの態度をとっていた英治ですが、娘たちに対しては、いささか感じが違ったようです。

英治は、文子夫人との間に昭和13年に長男・英明、昭和15年に次男・英穂、昭和17年に長女・曙美を得ていました。

この長女の曙美については、子育て時期が同じなので、子に対する態度も同様であったようです。
さすがに女の子に手をあげはしなかったものの、息子二人以上に、行儀作法や立居振舞いについては厳しかったそうです。
いかにも明治男らしく、「夫にかしずき、家を守る」のが女性の務めであり、そうなるようにしつけるというスタンスだったのでしょう。

笑い話的ですが、長女がバレエを習いたいと言うのを聞いて、「男にケツを持ち上げられて、どこがいいんだ!」と激怒したこともあったそうです。
芸術としてのバレエを評価していても、自分の娘が男性に身体を触られるなんて、「考えただけでも虫酸が走る気がしたのだろう」と、吉川英明は「父 吉川英治」に書いています。

長女は、吉川英治が亡くなる半年前に、英治の子供たちの中では唯一存命中に結婚しています。
結婚後、亡くなるまでの短い期間だったけれど、本当にやさしかったと、長女は述懐しています。

嫁に出して親の務めは果たした、これからは思う存分愛情を表現しよう、という矢先に亡くなってしまったということなのでしょう。

これに対して、昭和25年に生まれた次女・香屋子に対しては非常に甘く、「咲くように咲かせてみようじゃないか、1人ぐらい、いいだろう」と語っていたと言います。
厳しさの中に愛情を隠すこともなく、ひたすら可愛がっていたそうです。

それについては、58歳の時に授かったということもあって、孫の役割を果たしていたのだろう、とはよく言われることです。
いま触れたように、英治にとって我が子の中で死ぬまでに結婚したのは長女だけでしたから、本物の孫を得られなかった代りが、次女だったのだろう、というわけです。

私はそれに加えて、園子の面影もあったのではないかという気がしています。

園子は、吉川英治が最初の結婚の際、前妻との間で子供に恵まれなかったため、産後すぐに貰い受けた養女です。
離婚の際、前妻に引き取られましたが、英治の再婚後の家庭にもよく訪れ、文子夫人や子供たちとも仲良くしていたそうです。
しかし、昭和20年3月の東京大空襲で、園子は命を落しました。

その園子に対しては、すこぶる甘かったそうで、ある時、英治の書生が張り替えたばかりの障子に園子がふざけて穴を開けたので叱ったところ、逆にその書生が英治から怒られた、などという話があるくらいです。

園子が亡くなった後に授かった次女に、亡くなった園子の分も愛情を注ごうとした結果が、傍目にも甘く見えるような態度になったのではないかな、という気がするのです。


今年の英治忌は9月6日(日)です。

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2009年8月26日 (水)

“よそゆき”の親

今回の企画展「子供と吉川英治」では、父親としての吉川英治の我が子への対し方と、作家としての吉川英治の子供や若者への対し方を、両方取り上げています。

その父親としての吉川英治という面で、主に参照したのは、吉川英治の長男で当館の館長である吉川英明の「父 吉川英治」という著書です。

そこで印象に残った言葉を少しご紹介してみます。

吉川英治には、この英明とその弟の英穂という二人の息子がいました。

この二人に対しては、非常に厳しく接しており、例えば、兄弟ゲンカの絶えない二人を、家の大黒柱に縛り付けて一日放置したり、庭に引きずり出して棒切れを投げ渡し、「そんなにケンカが好きならそれでぶっ倒れるまでなぐり合え!」と叱りつけるなど、乱暴な面もありました。
また、息子たちの中学進学に際しては、少し世間を知って苦労をしろと、他家に下宿させ、そこから中学に通わせたりもしています。

「父 吉川英治」には、こんな一文があります。

私が生まれる前から父と親しかった講談社の星野さんは、
「いやあ、英明さん、あなたが生れた時の先生の顔。あんなにうれしそうな笑い顔は見たことがなかったですねえ」と、よく述懐される。
しかし、小学生時代の私には、父が私に、そんなとろけるような笑顔を向けてくれた記憶はついにない。
とすると、あのころ、私達の顔さえ見れば叱りつけていたあの厳しい表情は、父の私達に対する“よそゆき”の顔だったのだろうか。
自分の子供を持った今、あれほどきびしい叱り方の出来ない自分をみるにつけ、ふとそんな事を思う。
“よそゆき”の顔をつくり、私達をどなったり頬を打ったりするには、父なりに努力も必要だったろうと、親の身になってみて、父の心根を思いやったりもする。
どなられ、なぐられた時の父の顔が今は懐かしい。

「子を持って知る親の心」と言いますが、子を持たない私にも、何となく分かる気がします。

吉川英治の「わが父の記」という随筆に、ある人から聞いた話として、ある大学教授の父親としての態度が紹介されています。
それは、子供が自分を、お父さん、お父さん、と言っている間は厳父で通すが、子供たちが大きくなりだして、陰でおやじ、おやじ、と言う頃になったら、やわらかに接し、何でも打ちあけられるような友人的態度をもつように心がけている、というものでした。

英治はそれを、含蓄のある言葉と聞いた、と書いています。

「わが父の記」は雑誌『現代』昭和17年8月号に掲載されたもの。
長男四歳、次男二歳、そしてこの年の正月に長女が生れた、そんな時に書かれたものです。

さらに、「わが父の記」の最後に、英治の父性愛についての考えが書かれています。

――父の大愛は、自分の愛までを犠牲にした愛。

明治に生れ、昭和を生きた人の考えですから、現代の父親像とは大きく異なるでしょうが、これが英治が実践しようとした父親としての愛の形であり、それは確かに息子に伝わっているのだと、「父 吉川英治」を読んで感じたのでした。

ただ、英治は長男・英明が24歳の時に亡くなっており、その意味では、さあ、これから≪友人的態度≫に転じようか、というところで世を去ってしまったわけで、さぞや心残りであったろうと、父子双方に対して、そう思わずにいられません。


今年の英治忌は9月6日(日)です。

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2009年8月22日 (土)

子供と吉川英治

本日から、企画展「子供と吉川英治」を行っています。

吉川英治の我が子に対する思い、広く子供や若者に対する考え、そして、そうしたものを背景に書かれた≪少年少女小説≫の数々を、ザックリとご紹介してみようという企画です。

会期は本日から10月4日(日)までです。

ちなみに、以前、全く同じタイトルで企画展を行ったことをすっかり忘れていました。
記念館に勤務を始めて以来、2~3回を除いて、企画展の立案は私が一人でやっているのですが(苦笑)
なお、その時は≪少年少女小説≫をまとめてご紹介するというものでしたので、内容は異なっています。

会期中には≪英治忌≫もありますので、お時間の許す方は、ぜひご来館ください。


今年の英治忌は9月6日(日)です。

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2009年8月15日 (土)

祖母不詳

先日、来館者の方から、こんなご質問をいただきました。

展示してある吉川家の戸籍のコピーで、英治の母親の母親の名前が「不詳」になっているのは、どういうことですか?

そうだったかなと思い、見直してみると、確かに吉川英治の母親・いくの両親について、父の欄には「山上弁三郎」とあるのに対し、母の欄には「不詳」とあります。

「伝記吉川英治」で、著者の尾崎秀樹が調査したところによると、いくの母の名は≪ふき≫となっています。
山上弁三郎は後に佐倉市に編入される臼井町の町長も勤めたという名士で、素性の怪しい人物ではありません。
いくを含む兄弟・姉妹6人の母がふきであり、例えば、妾腹なので母の名を秘した、というような事情も特にないようです。

では、なぜ?

ご質問者の方にもそうお答えしましたが、これは、戸籍が関東大震災で焼失したために再発行したからでしょう。

吉川英治の家庭は、父の直広の事業上の失敗から家が傾き、社会の下層で貧苦に喘ぐ状況にありました。
そのため直広なりのプライドもあったのでしょう、山上弁三郎が危篤となった際に、いくが臨終の席に行くことを許さず、「お母さんは親の臨終にも行けない罰当たりなんだよ」と言って泣いているいくの姿を、英治は「忘れ残りの記」に書き記しています。

いくの一族の係累には名士が多いので、かえって直広は頑なになって、その縁を薄くしたのでしょう。

その影響から、英治もまた、生活にゆとりのあった少年時代を除けば、山上家と疎遠でした。

そんな中、関東大震災で戸籍が焼失し、再発行の手続きがとられる。
記載事項は新たに世帯主が申請することになるでしょう。
この場合、既に震災以前に直広もいくも世を去っていますので、英治がその任を担うわけですが、山上家と疎遠にしているために弁三郎はともかく、その妻、つまり自分の祖母の名前が出てこない。

かくして、「不詳」となったのでしょう。

英治の親戚との関係が透けて見える二文字です。


今年の英治忌は9月6日(日曜日)です。

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2009年8月12日 (水)

誕生日

うっかりしていましたが、昨日は吉川英治の誕生日でした。

ところで、吉川英治の誕生日は明治25(1892)年8月11日ですが、実は戸籍上は同年8月13日になっています。

自叙伝「忘れ残りの記」では、届け出が遅れたからだと聞いたと書いています。

いくらなんでも、届け出たその日が自動的にその人の誕生日として戸籍に記載されるというようなシステムはないんじゃないかという気がしますが、ただ、当時は年齢を数え年で言ったので、あまりこだわりがなかったのかもしれません。

他にも、経歴を確認してみると、戸籍上と実際の誕生日が違うという例が、明治から昭和戦前生れの人には少なくないようです。

先日までの企画展でその書簡を展示していた邦枝完二も、展示のために事典で経歴を確認していたら、誕生日は明治25年12月28日だが、戸籍上は26年1月10日になっているということが書かれていました。

さて、吉川英治には実子が二男二女いますが、そのうちの長女・曙美の誕生日は昭和17年1月2日ということになっています。

ところが、実はこれがそうではないということを、最近知りました。

吉川英治は昭和16年4月頃に、現在記念館になっている青梅の家を購入しています。
その年の大晦日、何の用があったのか定かではありませんが、文子夫人がこの青梅の家までやって来ました。
その帰り、鉄道に乗るため二俣尾駅に向かうと、列車が発車寸前だったので、急いで走って、駆け込み乗車をした。
そうしたところが、乗車後にお腹に違和感を感じた。
臨月の身体で走ったからでしょう。
文子夫人は、その違和感に耐えながら東京・赤坂の自宅まで帰り、身支度をしてから産科に向かい、その夜のうちに長女を出産した、というのです。

私は今、記念館から程近いところに住んでいますが、都心で人と会う約束がある時には、最低でも2時間前に家を出ます。
当時の鉄道はもう少し時間を要したでしょう。
その間、ひょっとすると生れるかもしれないという感じを我慢しながら、それでも一旦帰宅して用意してから病院に行ったということに、ちょっと驚いてしまいます。

というわけで、本当は昭和16年12月31日に生れていたのを、翌17年1月2日生まれとして届けたので、戸籍上はそうなっているのだそうです。

理由はわかりませんが、勝手に推測するに、数え年だと元旦ごとに年齢が一つ増えるわけですから、大晦日生れは、生れた翌日に2歳を迎えてしまうことになるので、それを避けたかったのかもしれません。

ちなみに、法律上は英治の生れた10年後には、年齢の表記は満年齢とするという法律が施行されていたようですが、英治自身は自分の年齢を数え年で数えていました。

男の子二人の後に生れた初めての女の子だけに、1歳でも若く見せたかったのかもしれませんね。


今年の英治忌は9月6日です。

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2009年8月 9日 (日)

カンタンと英治忌

昨年も同じことを書きましたが。

青梅市商工観光課から「第54回 カンタンをきく会」の案内パンフレットが届きました。

市内の御岳山で、≪鳴虫の女王≫とも呼ばれるカンタンの鳴声を楽しみ、宿坊に一泊するという企画です。

詳しくはこちらをご覧ください。

さて、今年の日程は9月5日(土)~6日(日)の1泊2日で、解散は6日の午前10時。

例年、9月7日の吉川英治の命日に、当館で≪英治忌≫という催しを行っています。

それが、今年は曜日の都合で1日前倒しで6日に開催することになっているのです。

ということで、今年もタイミングがピッタリ(笑)

5日は御岳山の上に1泊してカンタンを楽しみ、帰路は当館に立ち寄る、なんていうコースで青梅を満喫してみては如何でしょう?

当日は、お茶会や冷茶・日本酒なども振舞っております。

お待ちしておりますので、ぜひどうぞ。

ということで、今日からしばらく末尾に告知をつけます。


今年の英治忌は9月6日(日曜日)です。

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2009年8月 6日 (木)

吉田・吉川・白川

企画展「書簡に見る吉川英治の交遊」は終了しましたが、書簡がらみの話を。

書店で「吉田初三郎の鳥瞰図を読む」(堀田典裕 河出書房新社 2009年7月30日)という本が目についたので購入しました。

吉田初三郎と言えば、タイトルにもあるように、極端にデフォルメされた独特の鳥瞰図で知られる画家です。
吉川英治より8歳年長の明治17年生れ。昭和30年没。

実は、以前に吉田初三郎について調べている方から、初三郎と英治には交流があったようだが、それを示す書簡などは残っていないだろうか、というようなお尋ねをいただいたことがありました。

残念ながら、初三郎からの書簡も英治から初三郎への書簡も当館には所蔵がなく、そうお答えする他なかったのですが、それ以来、初三郎のことは頭においていました。

その後、「吉川英治文庫140 書簡集」の中に≪吉田初三郎≫の名前が出てきていることに気がつきました。

その名は二通の書簡に登場しますが、いずれも英治から白川初太郎に宛てたものです。

白川は医師で、戦時中は軍医大佐。
英治より9歳下の明治34年生れ。
英治が昭和12年に東京日日新聞の特派員として北支従軍した際に知り合って、以後長く交流がありました。
東京生れですが、戦後は飛騨高山で開業しています。

その白川への昭和24年11月9日付の書簡と昭和26年8月29日付の書簡に初三郎の名がありました。

昭和24年の方の注には、「三人で乗鞍登山の約があった」とあります。
残念ながらその根拠が不明ですが、白川の証言によるものでしょうか。

昭和26年の方には、「先頃は又 せっかく吉田画伯と共に御誘い給わり乍ら 今夏も宿題の一遊かなわず」との文面があります。

この時期たびたび白川から、初三郎と三人でどこかに行こう、という誘いがあったことがうかがえます。

ということは、英治と初三郎を結びつけたのは白川なのでしょうか。

上記の本は主体が作品の分析で、簡単な伝記しか掲載されていないため、英治の名も白川の名も見出せませんでした。

ちなみに、やはり今年刊行された「美しき九州 「大正広重」吉田初三郎の世界」(益田啓一郎編 海鳥社 2009年2月10日)に掲載された年譜には昭和26年の項に

この頃、作家・吉川英治と手紙で二度、登山の約束をするも、初三郎の病気が重く実現せず

とあります。
上記の書簡に基づく記述でしょうか。

唐突にここにだけ英治の名が登場していて、その関係性については、やはりはっきりしません。

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2009年8月 1日 (土)

「宇江佐真理さんをかこむひととき」募集開始

先日お知らせした『宇江佐真理さんをかこむひととき』ですが、本日から参加申し込みを受け付けています。

詳細はこちらをご覧下さい。

このイベントは、吉川英治賞が第40回を迎えた平成18年に記念イベントとして開催した後、翌19年から当館の定例イベントとして毎年開催するようになったものです。

一昨年の宮部みゆきさん、昨年の浅田次郎さんと当年度の吉川英治賞受賞者が続きましたが、今回の宇江佐真理さんは平成12年の第21回吉川英治文学新人賞受賞者となります。

ご応募をお待ちしています。

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