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2009年8月12日 (水)

誕生日

うっかりしていましたが、昨日は吉川英治の誕生日でした。

ところで、吉川英治の誕生日は明治25(1892)年8月11日ですが、実は戸籍上は同年8月13日になっています。

自叙伝「忘れ残りの記」では、届け出が遅れたからだと聞いたと書いています。

いくらなんでも、届け出たその日が自動的にその人の誕生日として戸籍に記載されるというようなシステムはないんじゃないかという気がしますが、ただ、当時は年齢を数え年で言ったので、あまりこだわりがなかったのかもしれません。

他にも、経歴を確認してみると、戸籍上と実際の誕生日が違うという例が、明治から昭和戦前生れの人には少なくないようです。

先日までの企画展でその書簡を展示していた邦枝完二も、展示のために事典で経歴を確認していたら、誕生日は明治25年12月28日だが、戸籍上は26年1月10日になっているということが書かれていました。

さて、吉川英治には実子が二男二女いますが、そのうちの長女・曙美の誕生日は昭和17年1月2日ということになっています。

ところが、実はこれがそうではないということを、最近知りました。

吉川英治は昭和16年4月頃に、現在記念館になっている青梅の家を購入しています。
その年の大晦日、何の用があったのか定かではありませんが、文子夫人がこの青梅の家までやって来ました。
その帰り、鉄道に乗るため二俣尾駅に向かうと、列車が発車寸前だったので、急いで走って、駆け込み乗車をした。
そうしたところが、乗車後にお腹に違和感を感じた。
臨月の身体で走ったからでしょう。
文子夫人は、その違和感に耐えながら東京・赤坂の自宅まで帰り、身支度をしてから産科に向かい、その夜のうちに長女を出産した、というのです。

私は今、記念館から程近いところに住んでいますが、都心で人と会う約束がある時には、最低でも2時間前に家を出ます。
当時の鉄道はもう少し時間を要したでしょう。
その間、ひょっとすると生れるかもしれないという感じを我慢しながら、それでも一旦帰宅して用意してから病院に行ったということに、ちょっと驚いてしまいます。

というわけで、本当は昭和16年12月31日に生れていたのを、翌17年1月2日生まれとして届けたので、戸籍上はそうなっているのだそうです。

理由はわかりませんが、勝手に推測するに、数え年だと元旦ごとに年齢が一つ増えるわけですから、大晦日生れは、生れた翌日に2歳を迎えてしまうことになるので、それを避けたかったのかもしれません。

ちなみに、法律上は英治の生れた10年後には、年齢の表記は満年齢とするという法律が施行されていたようですが、英治自身は自分の年齢を数え年で数えていました。

男の子二人の後に生れた初めての女の子だけに、1歳でも若く見せたかったのかもしれませんね。


今年の英治忌は9月6日です。

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