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2009年8月15日 (土)

祖母不詳

先日、来館者の方から、こんなご質問をいただきました。

展示してある吉川家の戸籍のコピーで、英治の母親の母親の名前が「不詳」になっているのは、どういうことですか?

そうだったかなと思い、見直してみると、確かに吉川英治の母親・いくの両親について、父の欄には「山上弁三郎」とあるのに対し、母の欄には「不詳」とあります。

「伝記吉川英治」で、著者の尾崎秀樹が調査したところによると、いくの母の名は≪ふき≫となっています。
山上弁三郎は後に佐倉市に編入される臼井町の町長も勤めたという名士で、素性の怪しい人物ではありません。
いくを含む兄弟・姉妹6人の母がふきであり、例えば、妾腹なので母の名を秘した、というような事情も特にないようです。

では、なぜ?

ご質問者の方にもそうお答えしましたが、これは、戸籍が関東大震災で焼失したために再発行したからでしょう。

吉川英治の家庭は、父の直広の事業上の失敗から家が傾き、社会の下層で貧苦に喘ぐ状況にありました。
そのため直広なりのプライドもあったのでしょう、山上弁三郎が危篤となった際に、いくが臨終の席に行くことを許さず、「お母さんは親の臨終にも行けない罰当たりなんだよ」と言って泣いているいくの姿を、英治は「忘れ残りの記」に書き記しています。

いくの一族の係累には名士が多いので、かえって直広は頑なになって、その縁を薄くしたのでしょう。

その影響から、英治もまた、生活にゆとりのあった少年時代を除けば、山上家と疎遠でした。

そんな中、関東大震災で戸籍が焼失し、再発行の手続きがとられる。
記載事項は新たに世帯主が申請することになるでしょう。
この場合、既に震災以前に直広もいくも世を去っていますので、英治がその任を担うわけですが、山上家と疎遠にしているために弁三郎はともかく、その妻、つまり自分の祖母の名前が出てこない。

かくして、「不詳」となったのでしょう。

英治の親戚との関係が透けて見える二文字です。


今年の英治忌は9月6日(日曜日)です。

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