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2010年1月30日 (土)

あらしの卒業

関西の新聞社の方からお問い合わせをいただきました。

「虫りんりんあらしの底で啼きやまず」というのは、吉川英治の句で間違いないでしょうか?

間違いありませんが、「あらしの底」が正しい形です、とお答えしました。

それはいいのですが、なんでもある学校の校長先生が卒業式の送辞の中でこの句を引用したのだとか。

あまり、卒業式向けの句ではないような気もしますが。

どんな嵐が吹き荒れようとも、野に生きる虫たちはその生命の営みをやめることはない、一見簡単に踏み潰せそうな小さな虫でも、力強く啼き続けている、それを見習って、この不況の中で社会に船出する君たちも、それに押しつぶされることなく、生き抜いて欲しい。

そんな言葉だったんでしょうか。

ちょっと気になります。

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2010年1月29日 (金)

萩散歩――剣花坊句碑巡り(編外)

松陰神社と言えば吉田松陰ですが、吉川英治は「歴史上の人物あれこれ」(初出:『オール読物』昭和28年2月号)という随筆(談話筆記)の中で吉田松陰に触れています。
そこでは、戦時中によく吉田松陰を書いてくれという人がいたが自分は書かなかった、とした上で、その理由として松陰を、およそこんなふうに評しています。

吉田松陰は「異常な一種の天才」であり、松下村塾から人材を輩出したことは偉大だが、30歳の若さで死んだ松陰の学問は、儒学の先鋭的な部分だけで、その奥にある「大人の学問」としての部分に達していない。

つまり、純粋だが頭でっかちで柔軟さに欠ける人物、ということでしょうか。

だから、「その人を現代に小説として再生させることには不安がある」し、「時代によっては危険」なので、読者への影響を考えると、書く気になれない、ということのようです。

ところが、実は吉川英治は吉田松陰を主人公とした小説を書いています。

それは「小説維新外史」。
雑誌『維新』の昭和9年11月号(創刊号)から10年5月号まで(10年3月号は休載)6回にわたって掲載された作品です。

なじみのない作品だと思いますが、それもそのはず、この作品は未完のまま中絶し、以後単行本などになることもなかった作品なのです。

吉川英治はこの作品のことを忘れていたのでしょうか。
それとも、戦前と戦後で松陰への評価が変わったので、なかったことにしたのでしょうか。

「小説維新外史」は、奈良の五條に住む森田節斎を訪ね、節斎につきあって岸和田まで旅するというところで中絶しています。
その間、節斎と松陰はさまざまに議論を重ねるのですが、その中で、節斎が松陰を批判して

「すべて、学問したやつはだめぢやよ、口ばかり小賢しうても、ろくなことはできはせん」

と言い放つ場面があります。
その点で戦後に示した“松陰”観に近いものがあるようにも思えます。

ただ、いかんせん未完なので、最終的な落とし所がどこにあったのか、松陰をどう評価しようとしたのか、知る由もありません。

というところで、萩の旅はおしまいということにします。

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2010年1月28日 (木)

第12回吉川英治記念館写真コンテスト入賞作品展

明日1月29日から2月4日まで、東京ミッドタウンの富士フイルムフォトサロン東京で、表記の展覧会を開催します。

なお、展示する作品のうち、上位入賞作品はこちらでご覧いただけます。

ご興味のある方は、ぜひお運びください。

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2010年1月27日 (水)

萩散歩――剣花坊句碑巡り(11)

吉川英治は川柳家・雉子郎時代の師である井上剣花坊のことを色々と書き残しています。
そのひとつとして「忘れ残りの記」の中で、剣花坊が「長州人で多少、文化のわかるものは、ぼくと松林桂月ぐらいなものだ」と言っていたと書いています。

松林桂月は、剣花坊と同じく萩の出身で、近代南画の巨匠。明治9年生まれなので剣花坊よりやや若く、英治よりは年長ということになります。
吉川英治が亡くなった翌年、昭和38年に満86歳で世を去っています。
明治の俳壇で活躍した松林花翁の娘婿で、本名は篤です。
吉川英治はその松林桂月と、剣花坊を通して知り合い長く交友を続けました。

さて、剣花坊の句碑を探しに訪れた松陰神社ですが、その社殿の前には「松陰先生百年祭記念」として奉納された狛犬があります。

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狛犬自体は、岡崎型と言われる広く日本全国に見られるもので、特に珍しくも、萩としての地方性もないものですが、奉納者の名前を見ると、「昭和三十四年八月/桂月画史松林篤」と刻まれています。

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つまりこれは松林桂月が奉納した狛犬ということになります。

これは「小冊子」には特に記載のないことで、ちょっと意外なものを見つけて、驚いてしまいました。

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萩散歩――剣花坊句碑巡り(10)

次に向かうのは松陰神社です。

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神社の中心は吉田松陰の松下村塾ですが、その建物北側に「偉大なる存在なりし松下塾」の句碑があります。

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平成17年4月の建立だそうです。

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さて、これで19基の句碑を巡りました。

残りの2基は、結局実見できなかったのですが、ご紹介しておきましょう。

松陰神社のすぐ北に萩本陣というホテルがあります。
その施設内の史跡庭園に「黎明にひとり座って神を待つ」の句碑があると「小冊子」にあります。
そこで、萩本陣まで出向いて、宿泊客でなくても見学可能でしょうかと尋ねたところ、現在は史跡庭園そのものが閉鎖中なので、と断られました。
ホテル専用のモノレールでホテルの裏山を登った所に展望台があり、そこから下った所が史跡公園だというので、山を見上げてみると、何か工事をしているようです。
悪い時期に来てしまったということでしょう。

もう1基は、道の駅≪萩往還公園≫にある「いっぱいによろこびを吸ふ朝の窓」の句碑ですが、これは徒歩(今までのものは全て徒歩で回りました)で行くには距離が離れ過ぎているので、断念しました。

個人的な調査と並行して歩いたので、19基を巡るのに1日半かかりましたが、萩ではレンタサイクルが要所要所にあるので、それを利用すれば1日で簡単に回れるでしょう。

興味のある方はチャレンジしてみてください。

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2010年1月26日 (火)

萩散歩――剣花坊句碑巡り(9)

萩駅から山陰本線を渡る跨線橋で線路の南側に出ると、村田蒲鉾店があります。

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蒲鉾の製造直売をしているこの店の入り口脇に、「幾億の星の中なる夫婦星」の句碑があります。

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夫婦星というのは、春の夜空に輝くうしかい座のアークトゥルスとおとめ座のスピカのことを指す言葉です。
背面には「平成十七年十月/村田泰一 明子 建之」とあります。

再び跨線橋を渡って線路の北側に戻り、少し北上すると今度は忠小兵衛蒲鉾本店という別の蒲鉾製造販売店があります。

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その店の看板下に「伊達巻で朝とひるとの飯を食い」の句碑があります。

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いかにも蒲鉾店に似合いの句ですが、隣にある説明板にはわざわざ「伊達巻とは蒲鉾の一種です」と注釈が加えられているところを見ると、萩地方ではあまり伊達巻は食べないのでしょうか?
平成17年1月の建立だそうです。

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さらに北上し椿大橋で橋本川を渡ると、先程の藍場川の上流があります。
それをさかのぼっていくと、旧湯川家屋敷という住宅があり、藍場川の水を活用した邸内の様子が公開されています。

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そこに隣接する駐車場の一角に「紅葉ほど小細工をせぬ八ツ手の葉」の句碑があります。
平成17年4月の建立だそうです。

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萩散歩――剣花坊句碑巡り(8)

萩市民館の横の道を南下すると、藍場川という小川にぶつかります。
そこで東に折れると、井上剣花坊の生誕地があります。住所としては萩市江向。

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そのことを示す「井上剣花坊誕生地」という石碑の横に、「何よりも母の乳房は甘かりし」の句碑があります。

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背面には平成十年三月に井上剣花坊句碑建立の会・萩ユネスコ協会・萩川柳会によって建立されたことが刻まれています。

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剣花坊には母を詠んだ句が多いようで、その点、弟子の雉子郎=吉川英治とは共通性を感じます。

一方、「井上剣花坊誕生地」の石碑の側面には「井上光蕃長男幸一 明治三年六月三日生」とあります。
剣花坊は、明治3年、元萩藩士であった井上吉兵衛光蕃(栄祐とも)・たに夫妻の一人息子としてこの地で生を受けています。本名は井上幸一。
ちなみに、信子の方は明治2年に、やはり元萩藩士の岡正・ミチ夫妻の次女として、現在の萩市土原で生まれています。

さて、ここから大きく南下してJR萩駅まで行きます。

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駅前の広場の一角に「百までも生きて百度の大晦日」の句碑があります。
平成17年9月に萩市観光協会によって建立されています。

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2010年1月25日 (月)

萩散歩――剣花坊句碑巡り(7)

御成道・たまち駐車場の少し東で、道路は萩信用金庫本店にぶつかる形で丁字路になります。
そこに唐樋札場跡があります。

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ここは江戸時代の高札場であり、萩往還と言われる街道の起点でもあるそうですが、そこに「親といふ宝はみんな持ってゐる」の句碑があります。

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『子宝』に恵まれない人はいても親のない人はいない、ということでしょうか。
平成9年10月建立だそうです。

この札場の少し南、萩バスセンターの裏にホテル好日館があります。

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その入口の脇に「名剣になるに火に入り水に入り」の句碑があります。
平成16年11月建立だそうです。

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好日館の西南方向に萩市役所があります。
この萩市役所と萩市民館の間に夫婦の句碑があります。

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剣花坊の句は「飛びついて手を握りたい人ばかり」で、故郷の懐かしさを感じさせるもの。
信子の方は代表作とされる「国境を知らぬ草の実こぼれ合い」で、平和への祈りの伝わってくるものです。
背面に「昭和四十五年十一月吉日/生誕百年記念に建立す/萩ユネスコ協会/萩市」とあります。

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実は、他の句碑はいずれも平成9年以後のもので、これだけが昭和のものです。
そう言えば「小冊子」の裏表紙に、『この川柳界の巨人が、萩の出身であることは、地元萩市民の間でもあまり知られていませんでした』という一文があるのですが、幕末維新の英傑たちに埋もれて忘れ去られ、結局平成になるまで顕彰の機運が高まることはなかったのでしょう。

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萩散歩――剣花坊句碑巡り(6)

田中義一の銅像のある公園に隣接して萩博物館があります。
この博物館は平成16年に開館したものですが、それと同時にその前庭に剣花坊の句碑が建立されたようです。

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句は「巣立ちしたあとははじめの二羽になり」。

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剣花坊単独の句碑ですが、この句を使うならば信子とともに夫婦の碑にすればよかったのに、という気がしないでもありません。

さて、外堀を越えると高杉晋作の誕生地などがある南古萩町・呉服町という古い城下町の風情を残す一帯があります。
その外れに慶安橋という小さな橋がありますが、その橋のそばに「後五百年凡駒生れて又千里」の句碑があります。

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「小冊子」によれば、これは剣花坊が亡くなった昭和9年の正月の句で、辞世の句とされているもののようです。であれば『凡駒』とは自身のことでしょうか。
平成9年9月の建立だそうです。

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その慶安橋を渡り、新堀川に沿って東に進むと、御成道・たまち駐車場という駐車場があります。
その駐車場に≪まぁーるバス≫のバス停がありますが、そのそばに「永遠を抱けばいのちも暗からず」の句碑があります。

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平成18年10月の駐車場のオープンと同時に建立されたもののようで、「小冊子」で紹介されているものの中では最新のものです。

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ちなみに、たまたま話をした地元の方から聞いたところでは最終的には句碑は25基になる計画だったそうです。
これが21基目ですが、残りの4基はどうなったのでしょうか?

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2010年1月24日 (日)

萩散歩――剣花坊句碑巡り(5)

住吉神社から西に向かうと菊ヶ浜という海岸に出ます。
その海岸の山口県立萩看護学校の裏手の位置に、「活眼を開くとゴミが目にはいり」の句碑があります。

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ご覧の通り絶景の場所です。

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背面には「菊ヶ浜を日本一美しくする会/顧問 赤木新吉 寄贈/萩市長 野村興兒 揮毫/平成十七年六月十六日(九十六才)」とあります。
寄贈者の赤木氏は、長年にわたり菊ヶ浜の清掃活動をなさってきた方だそうです。

菊ヶ浜海岸の西の端にそびえるのが指月山で、そのふもとが萩城跡です。
その入口のあたりに、旧厚狭毛利家萩屋敷長屋があります。
その隣にある堀之内陶苑の入口の脇に、夫婦の句碑があります。

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剣花坊の方は「突き進むにぎりこぶしへ当たる風」、信子の方は「八十年洗い晒しに堪えた生地」。
平成9年9月の建立だそうです。

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ここまで西へと進んできましたが、ここで折り返して東に向かいます。
指月橋を渡り、天樹院の横を通るまっすぐな道を進んでいくと、外堀にかかる手前に公園があり、そこに田中義一の銅像があります。

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その公園の道路沿いに「憧れを画がけと空はただ蒼し」の句碑があります。
背面に「平成十年三月/贈 長谷智/長谷智隆」とあります。

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萩散歩――剣花坊句碑巡り(4)

萩グランドホテルのある位置から北西の一帯が浜崎地区になりますが、そこに住吉神社があります。

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その門前に「新しい心になりぬ初日の出」の句碑があります。
背面に「平成十年五月吉日建立」と刻まれています。

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「小冊子」によると、この神社の神職を務める中津江家は剣花坊の妻・信子とは姻戚関係にあるとのこと。「蒼空の人 井上信子」(谷口絹枝 葉文館出版 平成10年)にはより具体的に、信子の姉・寿子の嫁ぎ先であると書かれています。
そんなことから剣花坊の自筆資料も保管されているということですが、さすがに、1月3日にいきなり訪ねて、それを見せてくれと言えるほど厚かましくはないので、もう一つ別のものを探してみます。

「小冊子」には「剣花坊が寄贈した記銘入りの玉垣が今も残っている」という一文がありました。

玉垣には「明治三十七年七月建之」と刻まれています。寄進者の中心は日清戦争によって日本が獲得して間もなくの台湾・台北在住の金子圭介という人物らしく、特別に大きく名が刻まれています。他に「取次人 杉原助右衛門」「世話人 落合相太郎/須子五郎」「石工 井町鶴松」といった名が見えます。

さて、他の寄進者の名が刻まれた支柱の一本一本を確認していくと……

ありました。

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鳥居に向かって右側の玉垣の鳥居側から数えて87本目に「東京 井上剣花坊」と刻まれています。
年譜によれば、剣花坊は明治33年に山口から本格的に東京に出て、曲折の後に入社した新聞「日本」で、編集長の古島一雄から勧められて川柳欄の選者となり、≪剣花坊≫の名を使うようになるのが明治36年のことになります。
川柳に関わる以前、記者や文筆家として用いていたペンネームは≪秋剣≫で、これは山口に住んでいた頃から使っていたものですが、そちらの名ではなく≪剣花坊≫として名を連ねているところに、剣花坊の川柳への意気込みが感じられるような気がします。

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2010年1月23日 (土)

萩散歩――剣花坊句碑巡り(3)

東萩駅前交差点に戻り、松本川にかかる萩橋を渡ります。
橋を渡って二つ目の信号を西に向かうと萩グランドホテルがあります。

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その玄関右脇に剣花坊の「あの船のどれにも帰る港あり」の句碑があります。
平成18年3月の建立だそうです。

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句碑の前に立って振り返ると、ホテルの道路向かいに長州屋光国という菓子店があるのが見えます。

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その店先に「絶頂で天下の見えぬ霧の海」の句碑があります。

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この句碑には側面にもう一句「見ただけで碑文は読まず皆通り」という川柳が刻まれています。

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誰のアイデアか知りませんが、なかなかしゃれた仕掛けです。
川柳句碑ならではのユーモアと言えるでしょう。
同じ面に「平成十年三月/光国忠史建立」とあります。

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萩散歩――剣花坊句碑巡り(2)

句碑は、東萩駅から萩市の中心地を巡って萩駅に至り、再び東萩駅に戻って来るというコースでご紹介していきます。

まず、東萩駅前交差点から北へ、新川交差点に向かって歩いて行くとコープ葬祭という斎場があります。
コープ葬祭は道路を挟んで両側にありますが、句碑があるのは進行方向右手側(東側)の方。
大きな駐車場の所に≪まぁーるバス≫という市内循環バスのバス停があり、そのすぐそばに大きめの句碑があります。

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右半分に剣花坊の「結び切るやがてを落つる花の露」の句が、左半分に信子の「何ものゝ在すか西の懐かしさ」の句が刻まれた夫婦碑になっています。
背面に「平成十年十一月七日/萩市長 野村興兒/株式会社 コープ葬祭」とあります。

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ところで、剣花坊の句の「やがてを落つる」はどうも語感がおかしいので「やがては」の間違いではないかと疑いました。
崩して書いた場合、『は』は『を』のように見える時がありますから。

しかし、青梅に戻ってから所持している「井上剣花坊句集」(市ヶ谷出版社 昭和41年)を確認すると、「やがてを落つる」で掲載されています。
ちなみにこれは、剣花坊の死別した妻・トメとの間の次男・鳳吉が編集した本です。
ということは私の思い過しでしょうか?

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2010年1月22日 (金)

萩散歩――剣花坊句碑巡り(1)

この年末年始の休館中に、個人的な目的で山口県萩市を訪ねました。

宿泊したホテルのロビーにある売店をふと見ると、「萩ものがたりvol.13 川柳中興の祖 井上剣花坊」(井上剣花坊顕彰会監修 有限責任法人萩ものがたり発行 2006年)という小冊子(以下「小冊子」)が販売されていました。

そうでした。

吉川英治の川柳の師である井上剣花坊とその妻でやはり川柳家の信子はともに萩の出身でした。
萩に来るまで、そのことをすっかり忘れていました。
お恥ずかしい。

さて手に取ってみると、「小冊子」の後半に萩市内にある井上剣花坊の句碑が紹介されていました。
その数21基。

私の個人的な調査も街を歩き回ることを基本にしていますし、そのついでに句碑巡りをするのも悪くないと思い、「小冊子」を購入して、それを手に萩市内を歩いてみました。
以下、実際に見て回った句碑をご紹介していきます。

なお、この「小冊子」の前半の剣花坊の生涯をたどった文章は、事実上「井上剣花坊・鶴彬」(坂本幸四郎著 リブロポート発行 1990年)の転載となっています。

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正月ボケ

いまさらですが、あけましておめでとうございます。

すでに1月6日から営業していますので、皆さん、ご来館いただいて結構なんですよ(笑)

と言っても、別に正月ボケしていたわけじゃなくて、OA機器のリースの都合上、更新できない状態が続いていたのでした。

これからせっせと更新したいと思います。

ま、あまり更新していると、「まともな学芸員にはブログなんかやってる時間はない、あいつは日本一ヒマな学芸員だ」と陰口たたかれかねませんが、いいんです。
それで少しでも吉川英治に関心を持ってくださる方が増えるならば。

ということで、今年もよろしくお願いいたします。

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