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2010年1月29日 (金)

萩散歩――剣花坊句碑巡り(編外)

松陰神社と言えば吉田松陰ですが、吉川英治は「歴史上の人物あれこれ」(初出:『オール読物』昭和28年2月号)という随筆(談話筆記)の中で吉田松陰に触れています。
そこでは、戦時中によく吉田松陰を書いてくれという人がいたが自分は書かなかった、とした上で、その理由として松陰を、およそこんなふうに評しています。

吉田松陰は「異常な一種の天才」であり、松下村塾から人材を輩出したことは偉大だが、30歳の若さで死んだ松陰の学問は、儒学の先鋭的な部分だけで、その奥にある「大人の学問」としての部分に達していない。

つまり、純粋だが頭でっかちで柔軟さに欠ける人物、ということでしょうか。

だから、「その人を現代に小説として再生させることには不安がある」し、「時代によっては危険」なので、読者への影響を考えると、書く気になれない、ということのようです。

ところが、実は吉川英治は吉田松陰を主人公とした小説を書いています。

それは「小説維新外史」。
雑誌『維新』の昭和9年11月号(創刊号)から10年5月号まで(10年3月号は休載)6回にわたって掲載された作品です。

なじみのない作品だと思いますが、それもそのはず、この作品は未完のまま中絶し、以後単行本などになることもなかった作品なのです。

吉川英治はこの作品のことを忘れていたのでしょうか。
それとも、戦前と戦後で松陰への評価が変わったので、なかったことにしたのでしょうか。

「小説維新外史」は、奈良の五條に住む森田節斎を訪ね、節斎につきあって岸和田まで旅するというところで中絶しています。
その間、節斎と松陰はさまざまに議論を重ねるのですが、その中で、節斎が松陰を批判して

「すべて、学問したやつはだめぢやよ、口ばかり小賢しうても、ろくなことはできはせん」

と言い放つ場面があります。
その点で戦後に示した“松陰”観に近いものがあるようにも思えます。

ただ、いかんせん未完なので、最終的な落とし所がどこにあったのか、松陰をどう評価しようとしたのか、知る由もありません。

というところで、萩の旅はおしまいということにします。

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