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2010年8月31日 (火)

吉川英治の家めぐり(1)

開催中の企画展「吉川英治の家族と家」にあわせて、吉川英治が住んだ家を順番に紹介していこうかと思います。
何しろ、30回ほど引っ越しているわけですから、1軒ずつ紹介しても30日になりますからね。

もっとも、以前こちらで誕生から小学校低学年までの時期の家は紹介済みですので、その後から。

自筆年譜によると明治34年、英治9歳の時に根岸地区を離れ、≪南太田清水町一番地≫に転居しました。
ここは当時、今も同じ場所にある東福寺の赤門にちなみ、俗に≪赤門前≫と呼ばれていたそうで、現在では地名も≪赤門町≫になっています。

庶民的な街だった根岸地区とは対照的に、清水町はお屋敷町で、「いとも閑静な、そして小さな町で、(略)きれいな小川が繞っていて、どの家の門にも、その家だけの小さな橋が架かっていた」(「忘れ残りの記」より)という環境でした。

当時父親が桟橋会社を経営して羽振りが良かったために、それまでにない大きな家へ転居したようです。

英治の父・直広は、息子を実業家にしたいという思いがあったようで、根岸地区に住んでいた時には、海外との貿易に役立つようにという理由から、学校に頼んで英語の課外授業を受けさせたりしたと、英治は自叙伝「忘れ残りの記」や随筆に書いていますが、この清水町の家では、実際に商売の練習をさせるという目的で、家を改造して≪みどり屋≫という雑貨屋を始めています。
その様子を「何不自由もない父の全盛期であったのに、家に大工が入って、表門も玄関も改造しはじめ、ぼくの家はとつぜん“みどり屋”という紺暖簾を掛けた雑貨店に変り出したのである」(「忘れ残りの記」より)と書いています。
もっとも、商売の練習用の店ですから、開店の際の福引付きの期間には客が来たものの、それを過ぎたら滅多に客が来ることもないような状況で、利益を度外視した店であったようです。

「忘れ残りの記」には、家そのものについての描写はあまりありません。
「日本間なのだが、二階の父の寝室には、大きな西洋ダンスがおいてあった。あらゆる種類の舶来酒がその棚に並んでいる」というので、家が日本家屋の2階建てで、洋風な調度品も置かれていたようだと、わかるくらいです。

家とは関係ありませんが、この清水町の家から数ブロック離れただけの英町に明治30年に生れ、37年まで住んでいたのが本名・野尻清彦、つまり大佛次郎です。

吉川英治の転居が34年なら3年ほど重複するはずですが、年齢が5歳違うためか(英治が年長)、後年、作家として知己になる2人ですが、当時のお互いについての思い出は何も残っていなかったようです。

そんな家から、家運の没落によって出て行かなければならなくなるのは、明治36年、英治11歳の時のことになります。

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2010年8月29日 (日)

川本喜八郎先生

一昨日、川本喜八郎先生の事務所からお電話をいただき、先生が23日にお亡くなりになっていたことをお知らせいただきました。

大変驚きました。

このブログでも触れたように、つい先日、館内で川本先生の人形展を開催したばかりです。

会期直前の4月27日に、人形の搬入を行ったのですが、その際、事前には体調が良くないので遠出は難しいとのことで、展示作業にはいらっしゃらないはずだった川本先生が、人形と一緒にわざわざお出で下さり、自ら人形にポーズを付けたりしてくださったのでした。

展覧会終了後、撤収の際にはお見えにならなかったので、直接展覧会のお礼を申し上げることができませんでした。
そこで、吉川館長と相談し、川本事務所の方に日を改めて先生に直接お礼に伺いますとお伝えしました。

そのお礼の日程を川本事務所の方と打ち合わせようと思ったのですが、6月は先生のお宅に改修工事が入るのでその後に、ということになり、そうこうするうちに7月に入ると先生が入院なさってしまい、ついにそのままお亡くなりになってしまいました。

直接お礼に伺うからと思い、別途電話などでのお礼はしませんでした。
つまり、人形展のお礼はしないままになってしまったわけです。

体調の思わしくない中、わずか15体しか展示しない小規模な展示のためにお出で下さったにもかかわらず、全く礼を失した話で、慙愧に堪えません。

それにしても、ほんの4ヶ月前には、私の目にはお元気そうに見えたのですが、そう見えたのも先生のご配慮だったのでしょうか。
返す返すも残念でなりません。

心よりご冥福をお祈りいたします。

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2010年8月28日 (土)

吉川英治の家族と家

本日より、表記の企画展を開催しています(10月11日まで)。

よく来館者の方から、「この場所と吉川英治にはどのような関係があるのですか?」としばしばお尋ねをいただきます。
「吉川英治が昭和19年に疎開し、そのまま戦後28年まで、約10年間住んだ場所です」とお答えすると、時々、たった10年弱の関わりでここに記念館があるのか、と言わんばかりな表情をされる方が(実際に口に出す方も)いらっしゃいます。
確かに、生家とか、終焉の地とか、そういう場所ならば記念館があるのもわかるけれど、50代の10年間を過ごした場所というくらいでは、記念館がある意味が薄いんじゃないの?、という感想を持たれるのも、わからなくはありません。
しかし、ここには、ちょっとした誤解があるように思います。誤解と言うより、想像外と言うべきでしょうか。

実は、吉川英治は、その70年の生涯の中で、およそ30回の引越しをしているのです。
厳密な数字は判然としないのですが、30ヶ所の家に住んだとすると、1ヶ所あたり2年4ヶ月ということになりますから、10年というのは平均の約4倍で、非常に長く住んでいたことになるのです。

実際、吉川英治がその生涯でもっとも長く居住した家が、旧吉野村=青梅の家なのです。

さらに言えば、そのような短い期間で引越しを繰り返した吉川英治は、その多くの家が借家でしたが、青梅の家は買取った家でした。
それだけ、青梅の家には思い入れがあったのです。

この企画展は、引越しを繰り返した吉川英治の人生と、ここ青梅の家は吉川英治にとって特別な思いのある場所であり、それ故に記念館があるのだということを、皆さんに知っていただきたいという思いから開催するものです。

会期中の9月7日(火)には、毎年恒例の英治忌も開催しますので、ご興味のある方はぜひお運び下さい。

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2010年8月14日 (土)

ブーム?

現在発売中の『週刊現代』(8月21・28日合併号)のカラーグラビアページに各地の文学館が特集されていて、吉川英治記念館もそこに掲載されています。
ご興味のある方は手にとってみてください。

さて、この特集の件で当館の写真を貸して欲しいとの電話を編集部からいただきましたので、ご提供したのですが、その時の会話の中で、いま文学館を特集する理由として、「藤沢周平記念館ができて、文学館が盛り上がっていると聞きましたので…」と言われて、ちょっと考え込んでしまいました。

今年の4月29日に鶴岡市立藤沢周平記念館がオープンし、その開館を知らせるポスターが当館にも送られてきましたので、しばらく掲示していました。
そうしたところ、多くの来館者の方がポスターの前で足を止め、「へぇー藤沢周平の記念館ができたんだ!」と興味深そうに眺めておられました。
下手をすると当館の展示への反応よりも、リアクションが激しいと思えるほどでした。

いま検索してみると、開館から3ヶ月の先月末時点で入館者数が4万人を超えているとのこと。
このペースならば年間で16万人強ということになり、当館の最盛期の入館者数に近い数字になります。

これは文学館としては盛り上がっていると言える数字でしょう。

とは言え、それは藤沢周平記念館が盛り上がっているということであって、文学館業界全体としては、盛り上がっているとは言い難い現状があります。

そもそも文学を愛するということは個人性が強いですから、一つの文学館に活気が出ると、他の文学館にも波及効果で活気が生まれる、とはいきません。

そんなわけで、藤沢周平記念館の盛り上がりをよそに、当館などは入館者数が最盛期のおよそ8分の1にまで減少してしまい、青息吐息です。

もっとも、テーマパークなら最盛期の入館者数でも潰れかねません。

テーマパークと文学館では意味合いが違うとは思いますが、なんだか文学ってスケールが小さいなと、感じてしまったりもするのです。

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2010年8月13日 (金)

重箱の隅

月が改まったら以前のように毎日更新しようと決意していたのに、しかも一昨日(8月11日)は吉川英治の誕生日だったのに、これが今月最初の更新とは、情けない。
もっとも、今日は、吉川英治の戸籍上の誕生日ではあるのですが。

世界文化社から刊行された「ビジュアル 明治・大正・昭和 近代日本の1000人」(2010年8月25日)という本をご寄贈いただきました。
ありがとうございました。

この本の編集をしている会社から、3月に写真の提供依頼があって、それにお応えしたので、お贈り下さったようです。

さて、早速吉川英治の項目を見てみると。

≪昭和前期の作家≫というくくりの中で紹介されていて、同じ見開きの中に芥川龍之介・中原中也・種田山頭火がいます。つまり1ページに2人。
ちなみに直前の見開きには1ページに1人で小林多喜二と江戸川乱歩がいます。

ちょっと微妙な気分(微笑)

まあ、それはそれとして、吉川英治の項目には、こんな記述が。

幼い頃に家運が傾き、尋常小学校卒業後に印章店、税務監督局など様々な職を経験する。

惜しい。小学校は卒業してないんですよ。今じゃあり得ませんけどね。

23歳で毎夕新聞社に入るも関東大震災後に社は解散してしまう。小説家として身を立てようと決意したのはこの頃だった。

解説文中、年齢の記述があるのはここだけで、そのため、この文章を読むと、なんだか若くして作家になったような印象を受けるのではないかと思うのですが、これは間違いです。

吉川英治が東京毎夕新聞に入社するのは、本人の自筆年譜によれば大正11年、30歳の時です(厳密に言うと満年齢では29歳の時点)。

小学校を途中でやめさせられて、30歳を過ぎるまで市井の一庶民、それもどちらかと言えば下層に生きてきて、そこから一念発起して作家になったのが吉川英治です。
解説文全体のニュアンスはその方向性ではあるのですが、細部の間違いが、ちょっと引っかかってしまいます。

同じ年(1892年)に生まれた芥川龍之介と吉川英治を同じページに配しているのは、一般的には同い年というイメージは薄いはずなので、面白いと思うのですが、昭和2年に亡くなっている芥川は≪昭和前期の作家≫というよりは、大正時代の作家に思えるのですが。
それと、吉川英治は「享年70」と満年齢なのに、芥川龍之介は「享年36」と数え歳になってるのは、なんでなんですかね。

いけませんね、こんな些細なことにツッコミを入れる時だけ更新するなんて。
品格に欠けますな。(苦笑)

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