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2010年9月19日 (日)

吉川英治の家めぐり(11)

芝公園の家は、増上寺の子院の一画を借りたものでした。

吉川英治は随筆の中で「今住んでいる芝公園の家は、仏心院という寺なので」(「木魚と機関車」)と書いていますが、館長の吉川英明がこのことについて以前取材をしており、その話では、現在、最勝院という子院に吉川英治が借家人として住んでいた事を示す書類が残っているそうです。
英治の勘違いでしょうか?

英治はその家につき、「その時住んでいた芝公園の僕の家というのが、所詮、半双の屏風にも席を与えられない程な手狭まなのである」(「鴨と鹿の頭」)と随筆に書いています。
本の置場に困って押入れに突っ込んでおくほどの狭い家だったようです。

新築した二階家の上落合の家を捨てて、なぜわざわざそんな狭い借家に引っ越したのか、と思いもしますが、前回書いたようなことでこじれた夫婦関係を改善するため、あえて、貧しかった昔を髣髴させるような環境に身を置いて、心理的にも体感的にも、お互いの距離を近づけようとしたのかもしれません。

その狭い家には、さして広くもない庭があったのですが、「その狭い庭の隅へ、昨年の夏、親戚の老大工が遊んでいたので、三畳にも足りない書斎を建てた。(略)書斎といっても、書架の置場すらなく、僅かに桑の机一脚、からだ一つがやっとはいるくらいな狭さだ」(「書斎と主人」)という書斎を造っています。

当時、吉川英治の元で書生をしていた人物による回想を当館の館報に連載しましたが(田中義一「吉川英治先生との思い出」)、その中で芝公園の家の様子を書いているので、少し抜き出してみます。

母屋の応接間は六畳ほどで書棚はもとよりテーブルと事務机が置かれてあった。私たちはその部屋を寝室にあてがわれていた。夜半、先生がピーッと原稿用紙をめくりとる音に、しわぶきが時おり聞こえて来るほど書斎に近い。
先生は原稿待ち以外の訪問客にはしばしば書斎でお会いになった。書斎からはみ出した蔵書や寄贈本がいたるところに積み重ねられ汗牛充棟もただならぬ書籍の山に、私は息が詰まる思いだった。
夜半、執筆に備えて先生が調べものをしている書斎へ私がお茶を運ぶと、隣室からやす奥様の声が聞こえてくる。

この芝公園の家に住んだのは昭和6年初めから昭和10年の6月まで。
この時期は、作品の性質が初期の伝奇的作品から変化していく時期にあたります。
それを象徴する作品の一つが、「檜山兄弟」(大阪毎日・東京日日新聞 昭和6年10月20日~7年11月13日連載)ですが、この作品の執筆にあたり、英治に乞われて協力したのが歴史家の服部之総でした。
この服部之総は、実は同じ芝公園14号地に住む≪ご近所さん≫でした。
服部の文章(「吉川さんと私」)によると

当時わたしの借家は芝公園十四号地、プールの横通が大門前の大通と交叉するところに交番がある、その隣だった。吉川さんの家は同じ十四号地の、プールの裏通りを西にすこし入ったところにあった。(略)交番の巡査の話では、当時芝公園で著述業と職業欄に書きこむのは、吉川さんとわたしの二軒だけだったが(略)

という様子だったようです。

服部の作品への協力は「檜山兄弟」のみでしたが、それ以来互いの家を行き来する親しい付き合いをするようになり、英治はその交流から大きな刺激を受けました。

その意味で、芝公園の家は、英治の作家としての次のステップに向けての準備をした場所でもあったと言えるでしょう。

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