« アカデミハイク募集継続中 | トップページ | 吉川英治の家めぐり(13) »

2010年9月21日 (火)

吉川英治の家めぐり(12)

芝公園の家はさすがに手狭だったのか、昭和10年6月に当時の赤坂区表町に転居します。

青山通りから少し入った、現在の草月会館の裏手あたりで、道路をはさんで向かいが高橋是清邸(現在は記念公園)という立地でした。
そして、転居先の家は、元官僚で司法大臣、鉄道大臣などを歴任した政治家であった江木翼の旧邸でした。

この家が半焼したこと、それに絡めていかに大きな家だったかについては、ここで以前触れました。

この家は、道路に対して、屋敷の建っている土地が低くなっていたため、玄関を入ると、いきなり階段があってそれを下って行く、という構造になっていました。

当時書生であった田中義一(首相とは別人)が、家の様子を当館の館報に書いています(「吉川英治先生との思い出」)。

赤坂の新居は、表門に沿って少し離れたところにある車庫のベランダが母屋の窓へひろがり、地階が洋館造りの書庫となっていた。家構えは細長く、建物が裏庭に隣接した能楽堂寄りに裏通りへと抜けている。間取り二十数室が数えられたであろうか。「中の間」(来客用)の二階に八畳と六畳の座敷が書斎として使用され、そこで宮本武蔵が起稿された。

この家について、吉川英治は随筆でこう書いています。

都合で、すこし大きな家を借りて移ったら、訪客に会うたびに、家の話が出る、非難するのは知己のほうであるが、お褒め下さる人があるから腐る。文士の家がまえというものは、女の前髪のように大き過ぎるのは気になるものらしい。(略)今の家は、自分が住んでいるのではない、仕事が住んでいるのである。
大きな家におさまって、自分の変化を認めようとするほど、僕はまだ落魄れていない。
この先もそうだし、これまでもそうであったが、どんなボロ家に住もうと、門戸を張ろうと、僕は、家なんていう形の中に住んでいるとは思わない、心のうちに住んでいるつもりである。(「家」)

「大きな家ですね」と言われることに、よほどうんざりしていたのでしょうね。

「仕事が住んでいる」というのは、実際にその通りで、吉川英治は、この自宅に2つの事務所を置いていました。
1つは日本青年文化協会、もう1つは新英社です。

前者は、安岡正篤の影響などから、地方の農村青年を教化し、都市と農村の均衡のとれた文化発展を目指そうという団体で、吉川英治自身が会長となって主宰したもの。
全国から会員を募り、機関誌『青年太陽』を発行していました。

後者は、英治が創業し、弟らに運営させていた出版社。
文学史的には、第1回直木賞受賞作である川口松太郎の「鶴八鶴次郎」の初版本を刊行したことで名を残しています。

しかし、どちらも数年で運営が立ち行かなくなり、解消されてしまいます。
その際に、整理のために相当な額の資金を費やしたそうです。

加えて、この家に住んでいた昭和12年に、とうとう最初の妻やすと離婚することになり、財産を分与してしまったため、世間での名声や、家の見た目とは裏腹に、経済的にはかなり苦しい状況にあったようです。

|

« アカデミハイク募集継続中 | トップページ | 吉川英治の家めぐり(13) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« アカデミハイク募集継続中 | トップページ | 吉川英治の家めぐり(13) »