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2010年9月23日 (木)

吉川英治の家めぐり(13)

もう1回、赤坂表町の家について。

昭和12年に、最初の妻やすと離婚したことに触れました。
この時に、実は吉川英治は2軒の家をやすに譲渡しています。

1軒は既に触れた上落合の家。
もう1軒は柴又の家です。

この柴又の家は、松本昭「吉川英治 人と作品」(昭和59年 講談社)によると、英治の仕事の邪魔をしてはいけないから、園子(英治とやすの養女)と過ごす場所が欲しいと、やすが言い出したため、英治が購入した家です。
それが昭和12年の初めのことのようで、要は離婚の半年ほど前から別居状態にあったことになります。

当然ながら英治はここに住んでいませんので、英治の転居先には含めませんが、そんな家も、英治は所有していたわけです。

さて、最初の妻やすとの離婚が成立して間もなく、英治は再婚をします。
長く当館の館長・名誉館長を勤めた文子夫人です。

結婚した時まだ文子夫人は17歳でした。

当時の吉川家は、前回触れたように邸内に日本青年文化協会や新英社の事務所があり、原稿を取りに来る編集者は集い、様々な来客も絶えない状態でした。
そのため、この若い妻に対し、英治は「君を、そんなところへ、迎え入れるのは、痛々しいよ」と言って、渋谷に文子夫人のための住まいを用意し、しばらくは別居していました。
しかし、弟から「一家の主婦を外に置いておくのはいけない」と言われ、同居を決意したと言います。

吉川英治は、この赤坂表町の家に約8年9ヶ月暮らします。
さらに、この後に住む青梅(旧吉野村)の家には9年5ヶ月暮らします。

それまで頻繁に転居を繰り返したのが嘘のように、この約18年間、たった2軒の家で過ごしているのです。
このことには、文子夫人との再婚によって、心の安定が得られたことが反映しているのでしょう。
また、吉川英治には文子夫人との間に4人の実子がいますが、4人とも、この赤坂表町および吉野村時代に生れています。
それも引越しをしなかったことの一因ではないかと思えます。

当館館長で、吉川英治の長男である吉川英明が、著書の中で、この家を離れることになった日の記憶を書いています。

父の英治から、「英明、この家ともお別れだ。さようならを言いなさい」と言われた英明は、急に悲しくなり、いま出てきた家の門に向かってお辞儀をした途端に泣き出してしまった。
その英明を、「泣く奴があるか、みんなそろって吉野へ行くんじゃないか」とたしなめながら、英治自身の目にも涙が光っていたことをはっきり覚えている、と言うのです。

もちろん、私はただ、遊びなれた家とお別れだと聞いて泣いたのであり、私の大粒の涙と父の目頭に宿った光との間には、かけはなれたものがあったのだろうが、その目を見た時、私はハッとした。同時に父という人にすごく親しみを覚え、甘えたい気持ちになった。

そう吉川英明は書いています。

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