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2010年9月28日 (火)

吉川英治の家めぐり(14)

昭和19年3月、吉川英治は一家ともども西多摩郡吉野村柚木、現在の青梅市柚木町に転居します。

一般的に、これを、疎開のために都心を離れたと説明してしまうのですが、それだけでは少々雑です。

今回の企画展「吉川英治の家族と家」では、吉川英治が吉野村の家を購入した際に、仲介した不動産業者に支払った仲介料の領収書を展示しています。
これは先年文子夫人が亡くなった後に遺品の中から出てきたものです。

これによると、不動産の仲介者に対して300円の仲介手数料を払い、その領収書の日付は昭和16年2月14日になっています。
物件本体の売買契約の成立も同日か、その少し前ということになるでしょう。

つまり、吉野村の家は昭和16年の2月までには購入されていたわけです。
実際に転居する3年も前です。

昭和16年12月8日に太平洋戦争が開戦する10ヶ月も前ですから、その時点で疎開のための家を準備したとは思えません。

普段、転居の理由として来館者の方にお話しするのは、「子育てには田舎の方がいい」と考えたから、というもの。
家を購入した時点で、英治と文子の間には長男の英明(昭和13年生れ)と次男の英穂(昭和15年生れ)がいました。
その子供たちが、赤坂のような都心でではなく、どこか田舎で育った方が、のびのびと成長するのではないかと考えていたようです。

それに加えて、英治自身の問題として、自ら地方農村に身を置く生き方をしてみたかったのではないかと、私は考えています。
吉川英治は、自ら会長となって日本青年文化協会という会を起こし、地方農村の青年たちを教化し、地方と都会との格差を埋め、均衡のとれた発展を目指すという活動をしています。
結果的には数年で頓挫することになるこの運動ですが、考え方そのものは英治の中に生きており、戦後にも地方と都市の均衡ある発展を訴えた文章を書いています。
また、戦後になってからのことのようですが、村役場から、住民としての登録を「疎開者」とするか「農」とするかと聞かれて、「農」にしてくださいと答えたという話もあります。

外からではなく、自ら中に入って、農村の人たちとともに生活していきたいという願望があったのではないかと思うのです。

それは、貧しく苦しい青少年時代を送った横浜に代わる「ふるさと」を求める気持ちでもあったでしょうし、あるいは、町育ちの人間の勝手な思い入れというべきものでもあったかもしれません。

しかし、この吉野村の家が、人生でもっとも長く居住した家であったことは事実です。

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